2 招かれざる客と魔女の訪問

 王都エイレンタールの春は早い。それは何も気候だけを指して言うのではない。
 王都は国の南にあり、その形は空から見ると東北西の辺りは真円に近く、南の部分だけ逆さのハート形をしている。なぜ南側だけ形が歪なのかと言うと、ここが巨大な港街となっているからだった。
 港を有するということは、外から運び込まれる様々な品が満ちているということだ。春の風物詩も、国のどこよりも早くこの港へと運ばれる。
 実際、肌をさす風はまだ冬のそれであり、街路樹も気の早いもの以外は枯れ木のような姿を晒している。街のそこここにある花壇も、まだ彩りを宿してはいない。
 そんな中にあって、あたしのいる場所は妙に季節感を無視していた。
 やや古めかしい屋敷の周りは、いっそ見事なぐらい緑に充ち満ちている。
 やや肌寒い風に幹を揺らしているのは、屋敷よりも背の高い巨木達だ。地面を覆う苔も青々としていて、どこにも枯れた風情が無い。
 唯一館の前の花壇だけがぽっかりと土壌を晒しているが、これは花が咲いてないという以前に何も植えられていないからだ。せっかく立派な花壇があるのに、もったいないことこの上ない。
 ……ついでだから、野菜でも植えてやろうかしら。
 あたしはそんな誘惑にかられながら、部屋の中から外の様子を観察していた。
 あたしの名前は『ベル』。長ったらしい名前は無い。
 血の繋がった家族のうち、母親は何年も前に他界し、父親のほうはちょっと事情あって疎遠になっている。そっちの方にその他の家族もいるだろうが、向こうはあたしを家族とは思っていないだろう。でなければ、母親の死去後に孤児院になんて入ってない。
 とはいえ、今あたしがいるのも孤児院ではなかった。
 金持ち連中がこぞって住まう北側の地区のうち、比較的端っこのほうにある瀟洒な屋敷。主の名をとって呼ぶのならば、クラウドール邸と言うべきだろうか。
 王都の北側に土地を持つのは裕福な証拠だが、この屋敷に関してはどうも微妙だ。というのも、屋敷の大きさに反して使用人が一人もいない。また、ごく限られた一部分の部屋や廊下は綺麗なもんだが、他の場所は全部放置されてて埃がうずたかく積もっていた。
 自分が暮らす必要最低限さえ整っていればいい、というところだろうか?
 いずれにしても、大きなお屋敷の主らしからぬ主義である。
 主の名前はレメク・(長いので中略)・クラウドール。あたしの命の恩人であり、目下十年後の旦那様である。
 元孤児院の孤児であるあたしがこんな場所にいるのも、レメクが旦那(←本人は未だに頑なに固辞している)なのにも理由がある。
 あと二ヶ月ほどで九つになるあたしは、ごく五日前に街の片隅でひっそりと死にかけた。
 そこをレメクに拾われたのだが、そのときにレメクがとった行動が、うちの一族の掟に触ってしまったのだ。
 ナスティア王国には三十ほどの民族がいて、それぞれに独自の掟を持っている。
 国で定められた法律も守るが、血で繋がる一族の掟も大切だ。
 で、その大切な一族の掟をあたしが守ろうとすると、あたしはレメクと結婚しないといけないのである。望むところだった。
 が、レメクはこれを良しとしない。
 それはもう、ものすごく良しとしない。
 ひたすら言い訳を並べ立てた上に、掟の例外を認めてもらうために、うちの一族の本拠地に行って長老に会おうとまで提案するほどだ。
(まぁ、レメクからすれば当然だろうけど……)
 あたしは窓の外を眺めながら嘆息をつく。
(……せめてあと十年、早く生まれたかったなぁ……)

 ※ ※ ※

 智者は王宮に集いて会議を開き、王はこれを聞きて国を開く──という言葉がある。
 王宮がある時点で国は開いてるんじゃないか? と、あたしなどは思うのだが、その言葉が出来た当時の時代では、王と呼ばれる者はいても国自体はまだできていなかったのだそうだ。
 なにせ三十もの民族が集まってできた国だから、当時はいろいろあったのだろう。
 そんな昔のイロイロはともかく、今ではこの言葉は御前会議が開かれるときによく使われる。
 御前会議は、文字通り王の前で開かれる会議であり、諸官諸候が集う習わしになっていた。
 本来なら何か問題が起こった時などに開かれる会議なのだが、今の王様になった時に「年に一度、春の大祭の時分にも定期的に開こう」ということになったらしい。
 集わされる官吏や地方の領主はたまったもんじゃないだろうが、王宮の中枢と繋ぎを作る場として有効なため、反対者はほとんどでなかったらしい。
 ちなみに王都の住人としても大歓迎だ。
 なにせ、人が集まるということは物が売れるということだ。物が売れるということは人手がいるということであり、そうすると下々の者の仕事も増える。
 春のこの時期は誰にとっても稼ぎ時なのである。
 貧乏暇無しとは言ったもので、この時期にのんびり家の中に籠もる者などいない。
 一つでも多くの仕事、少しでも多くの稼ぎを求めて街中を走り回り、ちょっとでも実りを大きくしようとあくせくする。
 祭りまでまだ二ヶ月近くあるが、祭りの準備はもう始まっているのだ。じっとしていられるはずがなかった。
 ……そんなわけで、あたしは今、絶賛脱走計画中だったりする。
 あたしがいる部屋は、ちょうど玄関の真上。南側に面した二階の、そのど真ん中にあった。
 実を言うとレメクの部屋なのだが、運び込まれた日から瀕死状態だったのと、他にマトモに使用できる部屋が無いため、延々部屋を占領し続けている形だ。
 今でこそ元気に動いているが、つい昨日まではベットの上でうんうん唸っていたほどである。その間、つきっきりで看病してくれたレメクにはこれ以上ないほど感謝しているが……
「……またですか」
 屋敷の前庭で、ロープもどきのカーテンを掴んだまま、二階の窓から宙ぶらりんになっているあたしを見上げる彼には、理不尽な怒りを覚えずにいられない。
 ……てか、いつ帰ってきたんだ? この男……
「……仕事……行ってたんじゃなかったっけ……?」
 宙ぶらりんの格好のまま、あたしはぼそっと尋ねた。
 レメクはあたしの格好になぞ関心なさそうな顔と声で答える。
「一段落つきましたので、帰宅した次第です。そろそろあなたが暴れ出す頃合いかとも思いましたしね」
 暴れ出すとは失敬な。
 ムッとしてあたしが抗議する前、レメクが何気ない口調で先手を打つ。
「ところで、そのカーテンはリメオン金貨三十枚分の価値があるのですが」
「げっ」
 その効果は絶大だった。なにせあたしは、とっさにロープがわりにしてたそれから手を離してしまったのである。
 リメオン金貨三十枚。軽くあたしの人生を十回は買えるぐらいの大金だ。
 が、
「きゃぁああああッ」
 もちろん、宙ぶらりん体勢から命綱を離せば後は落ちるだけになり、
「!!!」
 さすがに驚いたらしいレメクに抱き留められる瞬間まで、軽く空中遊泳を楽しんでしまった。
 否。楽しくない。
「……し……死ぬかと思った」
「…………」
 レメクは呆れかえって声もない様。
 ただただ盛大なため息をついて、捕獲したあたしを抱え直した。
 ……ちぇー……お姫様抱っこのままのほうがよかったなー……
「まったく……ようやく元気になったと思ったら、すぐに外に出ようとして。どうしてあなたはじっとしていられないんですか」
 レメクはため息混じりにそう言って、とっさに放り出してしまったらしい荷物と書類の束を拾った。
 あたしはそれを見て首を傾げる。
「仕事終わったんじゃなかったの?」
「一段落ついただけです」
 終わってないようだ。どんな仕事か知らないけど。
「お偉いさんは大変ね」
「ただの一官吏ですが」
 こんな立派な服着た一官吏がいるもんか。
 上等な上着に指でへのへのもへじを書きながらそう思ったが、実際の所、あたしはレメクの仕事についてはほとんど何も知らなかった。もちろん、彼がどれぐらいの階級にいるのかも知らない。
 なんといっても、あたしとレメクは五日前に会ったばかりなのだ。
「ところで」
 邸宅の扉を開けながら、レメクはあたしに声をかける。
「これから来客が来ます。面倒な客ですので、あなたは部屋で大人しくしていてください。万が一見つかると、大変な事態になりますから」
 これをいつもと変わらない顔で言いながら、扉を厳重に閉めるのが妙に気になった。しかも閉め終わった後も、何か考える顔でじっと鍵を見ている。
「……来て欲しくないんだ……」
 どうやって入らさないようにしてやろうか、という顔だったので、あたしは鍵とレメクを見比べながらそう言った。レメクはため息をつく。
「非常に面倒な人でしてね。できればここに来てほしくないんですが……」
「居留守使えばいいんじゃない?」
「家に戻ると言ってしまったので、その手は使えません」
「ありゃ。じゃあ、仕事場で会ったの?」
「……えぇ」
「そのときにできない話しだったんだ?」
「いえ。単に早く帰らないと、あなたがどんな奇抜な脱走術をあみだすかわかりませんでしたから」
 失敬な。
 だが、そうして急いで帰ってきた結果、招かれざる客が来ることになった、と。
「……ご愁傷様です……と言うべき?」
「……そう思うのなら、大人しくしていてくれませんかね。何度も言いますが、あなたはまだ体調が万全ではないんですよ。病み上がりなんですから」
 死にかけてたんだから、たしかにそうだ。
「でもねぇ……せっかくの稼ぎ時なのよ?」
「私の保護下にある以上、必要最低限の衣食住は保証します。シャーリーヴィの森に行く時にはあなたも連れていきますから、望めば向こうで同族の方に保護してもらうことも可能でしょう。あなたが今、体に無理をさせてまで働く必要はありません」
「それが嫌なんだけど……。あたしは森になんて行きたくないし、ちゃんと働きたいもの。その……ほら、お礼だってしなきゃいけないんだし!」
 あたしの声に、レメクはちょっと目を瞠った。
「……お礼?」
「そ……そう、よ。命助けてもらって、御飯いっぱい食べさせてもらって……えぇと、なんていうんだっけ? 一食一晩の借り?」
「……微妙に違います」
「微妙な部分は気づかなかったことにして。で、ゴホンッ、その恩を返さないといけない! じゃない?」
「……何度も言っている気がしますが、あなたが恩に着る必要など無いんです。私はただ、自分のしたいことをしただけですから」
「それでも命の恩人には違いないわ」
 しつこいあたしに、レメクは嘆息。
「……どうしても、というのでしたら、滞在中ずっと大人しくしていてくれると大変、大変、助かるのですが?」
 二度言ったぞこの男。
「……お人形さんになれ、って言うのなら、そうするわよ?」
 レメクは盛大なため息をついた。そういう風には言ってないつもりらしい。
 ……いや、まぁ、わかってはいるんだけど。
「……ごめんなさい」
 素直に謝ると、レメクは「いえ」とちょっとバツが悪そうな顔になる。
 チャンスだ!
 甘えたい盛りのあたしは、エイッとばかりにその首根っこにしがみつく。
 ぐぇ、という声がした。
「おじ様だって迷惑よね。胸もお尻もおっきい女の人ならいろいろウハウハでも、あたしみたいにちっちゃい子供じゃ、孤児院の院長やってるみたいなもんだし」
「……非常に人聞きの悪いことを言わないでいただけませんか。私は別に、他意あってあなたを助けたわけでも、何かを期待して面倒をみているわけでもありません。行きがかり上やむなくであり、その中にあなたが言うような理由は何一つ含まれていません」
「でも普通、助けた美女がお礼にウッフンとかってありきたりじゃない?」
「……すみませんが……あなたの年齢をもう一度問い直してもいいですか?」
「八つ」
 レメクは沈黙した。そして非常に重いため息をつく。
「……一度、あなたのいた孤児院の面々とじっくり話をすることにいたしましょう」
「やぁねぇ。この程度の話、そこらで日銭仕事してればいろいろ仕入れてこれるわよ?」
「そんなものを仕入れてくる必要はありません! あなたは、まだ八つにしかならない女の子です。そんな話をして、自分の品位を貶めるのはやめなさい」
 あたしは学んだ。レメクは微妙に潔癖だということを。
 ちなみになぜ微妙かと言うと、この男、非常事態ならあたしをまっぱだかに剥いて風呂場に放り込むぐらいは平気でするからだ。しかも自分も寒いからと、服着たままで一緒に湯船にドボンしやがった経歴もある。
 ……まぁ、本当に非常事態だったから、だが……
 あたしはレメクの首根っこに顔を埋めた。きゅっとすがりつく力を強くする。
 えーと……えーと……
「でも、あたしもいちゃいちゃしたいもん」
 レメクが逃げたそうな気配を見せた。
「大人の女の人だったら、いちゃいちゃできたんだもん」
「……あなたが大人だったら、もっと早く別の人が駆けつけてましたよ」
 ……この男。
 あたしは自分の目が鉛のようになるのを感じた。
 ……鈍いとかいう、次元じゃない……
(……えぇい!)
 あたしはギラリと目を光らせた!
 こうしてくれるッ!
 気合いを込めてぐりぐり頭をこすりつけると、両手が塞がってるせいで抵抗できなかったレメクが顎で押し返してくる。手が塞がってるからこその反撃だろう。
 ちょっとビックリ。
「……少なくとも、あなたが私に対し恩を感じていること、何か礼をしたいと思っていることは『嘘ではない』と理解しています。また、労働をもって金銭を稼ごうとすることは、本来なら当然の行為であり禁止するようなことではありません。ですが、あなたは今、自分で思っている以上に体を損なっています。そんな状態で働きになど出せるはずがないでしょう。諦めて大人しくしていてください」
 ……ぅぅ……
 懇々と諭されてしまった。正論だから文句も言いにくい。
 ……てゆか、あれ? 今さっき、なんか妙な言い方したような?
「今元気なように見えても、何かの拍子にいきなり高熱を出したりするかもしれませんからね。この前のように」
「……うっ」
 レメクの声に、あたしは声を詰まらせた。実際に一回やった身としては、その攻撃は痛い。
「や、で、でも。未だにどうしてあんなにいきなり体調が悪くなったか、あたしにもわかんないのよ。だってほら、初日はまぁ、しょうがないとして……次の日、朝ちゃんと目を覚ましたじゃない。熱出てたけど、しっかりしてたでしょ? 御飯だっていっぱい食べれたし……」
「そして正午前に高熱を出して、昨日まで起きあがることもできなかったんですよね」
「……だからそれは、原因不明で……」
「……不明だと思っているうちは、絶対安静です」
 レメクはぴしゃりと言いきる。
 あたしはしょんぼりとため息をついた。この件に関しては、完全にあたしの方が分が悪い。
「また同じことを繰り返すとも限りませんから、しばらくは部屋で大人しく寝ていることです」
 あたしのつむじのあたりにレメクの息がかかる。あたしは口を尖らせた。
「……むぅ」
「ちゃんと大人しくしていたら、これを差し上げましょう」
 そう言って、レメクは書類の束と一緒に掴んでいた『荷物』をあたしに向けた。
 顔を上げ、近くまで来たそれに手で触れると、それなりに柔らかい。
 なんだろう?
「暴れず、騒がず、脱走もせず、部屋の中で大人しくしてくれるのなら、差し上げます。いかがです?」
 レメクが荷物を下に下げる。
 あたしは困った顔でレメクと荷物を見比べ、ややあって頷いた。
 レメクがちょっとだけ安堵した顔になったのが、妙に印象に残った。

   ※ ※ ※

 あたしは思うのだが、レメクはものすごい『お人好し』なんじゃなかろうか?
 行き倒れて死にかけてた孤児を拾ってくれたのだから、人が良いのは確かだろう。おまけに、一族の掟をたてにずうずうしくも嫁宣言する子供を未だに放り出さずに世話している。
 今時いないと思う。あんな人。
「……でもねぇ、だからといってただ飯食いなのはいけないと思うのよね」
 働かざる者喰うべからず。これは世の鉄則だ。
 老人はいい。若い時に働いて、そのとき働くことのできなかった赤ん坊や幼児を養ってくれたのだから。
 同じ理由で赤ん坊も良い。大きくなったときに働けない人を養う役目があるのだから。
 あたしは子供だが、立派な手足がついている。持病もない。目も耳も並以上に良い。となれば、もう立派に働き手だ。じっとしているわけにはいかない。
 無論、今動くことはできないけど。
 あたしはレメクからもらった包みと睨めっこしながら、ベットの上でプラプラと足を揺らせていた。
 この報酬と引き替えに、あたしはレメクと約束した。なら、それは果たさないといけない。
 もちろん、『部屋で大人しく』は今日だけのことだが。
 レメクもあたしの考えはお見通しなのだろう。ちゃんと大人しくしていると約束したのに、ヤツはしっかりと部屋の扉に鍵をしていった。
 五つも。
「……むぅ……」
 さすがにあの鍵はあたしでも開けられない。
 元気になった時、速攻で鍵開けの腕前を披露したのがいけなかったらしい。今では屋敷中の鍵が新しい精巧なものに取り替えられていた。しかも紋様付き。
「……むむぅ……」
 扉の前に行き、そこにがっつり食いついてる五つの鍵を点検する。
 鍵には鍵穴が三つついていた。これは、三つの鍵を同時に使う必要がある。細工師と呼ばれる職人が作る物で、たいてい立派な家の金庫とかはこれがついている。
 そして鍵の表面にある綺麗な柄は、『紋様もんよう』と呼ばれるものだった。
 きらきらと輝きながら、ソレは複雑な模様をその表面に写す。驚くべきことに、その模様はずっと動いているのだ。一秒として同じ模様のままではいない。
 その美しさに見惚れつつ、あたしはため息をついた。……これは『本物』だ。
 あたしも、未だかつて『本物』と呼べるようなものは一度しか見たことが無かった。
 『紋様術』と呼ばれる技術は、あたし達からすればお伽話の魔法みたいなものだ。触れると爆発するものとか、水を防いでくれるものとか、とかく色々あるらしい。
 あたしが見た『本物』は、押し寄せてきた大津波を空中で押しとどめていた。
 三年前の大嵐の時のことだ。
 あの日、夕方から突然降り出した雨は、夜の帳が降りるより早く街の全てを包み込んだ。
 雨はまるで滝のように空から降り注ぎ、街はさながら滝壺のようだった。想像を超えた水量に街中の水路からも水が溢れ、街の半分が床の近くまで水に浸かった。
 最も立地条件の悪い貧民街は、特にそれがひどい。
 水はけは悪く、溜まりは早く。日銭仕事に出ていた子供の半分は、職場にいたために助かったが、もう半分は帰宅途中に災害にあい、翌日冷たい体で発見された。彼等は今も共同墓地の片隅で、訪れる人もないままにひっそりと眠っている。
 彼等の命を直接奪ったのは、大嵐による風と水だ。だが、それだけが原因では無い。
 あの時、視界もろくに効かない夜の暴風雨の中で、地面が突然動いたのだ。
 帰ってこない孤児仲間を捜していたあたしも、その動きに足をとられて水に沈んだ。
 すぐに起きあがって近くの柵にしがみつき、それで事なきを得た。もしあの時、近くにすがりつくものが無かったら、あたしも今頃は土の中で眠っていただろう。
 地の揺れがおさまってしばらくすると、地震だ、津波だ、という二つの声があちこちから聞こえてきた。兵士達が小舟で街を走り抜け、そのうちの一つにあたしは保護されたが、その時は言葉の意味が理解できなかった。
 津波が来る。悲鳴のようなその声をあたしは聞き、そして見た。
 闇の向こうから迫り来る、巨大な水の壁を。それが、初めて見る『津波』だった。
 大気が震え、おぞましい音が街中に響き渡る。海の底から響いてくるような轟音。迫り来る水の壁。一般市民はおろか兵士までもが悲鳴を上げたが、その声も水音でほとんどかき消されてしまった。それほどの轟音。まさに全てを飲み込む天災だった。
 けれど、その壁が街に襲いかかることはなかった。
 突然空が明るくなったかと思ったら、海側の一面に巨大な光の帯が生まれていたのだ。
 それは恐ろしいほど美しい模様だった。
 模様に照らし出された水の壁の巨大さも恐ろしかったが、むしろそれは輝く模様の神秘をいっそう引き立たせ、あたしの目にはひどく神秘的な光景に見えた。
 その紋様術がどういったものなのか、無学なあたしにはサッパリわからない。
 わかったのは、あの模様が津波を押しとどめている、ということ。
 そして、そのおかげであたし達は助かった、ということだけだ。
 模様は水の壁を押しとどめ、のみならず、その水を一瞬で消滅させた。
 誰がどんな風にどうやってそんなことをしてのけたのか、誰もが後でさんざん論議していたが、結局のところ結論はでなかった。
『王様か、王宮の誰かが何かをしたのだろう』
 下町に住むあたし達ができる結論なんて、その程度のものだ。そして、そのうち誰も話題にしなくなった。まるで、誰もがそのことを忘れてしまったかのように。
 けれど、あたしは忘れられない。今も思い出す度、震えがくる。
 大津波を押しとどめる巨大な輝く模様。まるで生きているように輝き、蠢くその模様が、未だに脳裏に焼きついている。あのとき、神の奇跡を見た気がした。
 とはいえ、普通に過ごしている分には、そんなとんでもない紋様術なんて見やしない。
 街中で見るのは、インチキな偽物ばかりだ。
 虹粉と呼ばれるきらきらした粉で模様を描いた板とか、祭りの時分には土産物としてよく売られている。
 ……いつか教会に取り締まられるんじゃないだろうか……?
 まぁ、本物の『紋様板』が土産物屋で売られたりするわけないんだから、客だって偽物だとわかって買ってるんだろうけど……
 もちろん、衛士や見回りの騎士が来るたびに荷物抱えてトンズラしてたので、取り締まり対象なのは間違いない。大々的に取り締まられてない、ってだけで。
 そしてこの目の前にある鍵。
 これはどう見ても本物だ。
 紋様術は、きちんとしたものならリメオン金貨数十枚分の価値がある。使い手が少なく、希少価値が高いからだ。
 使い手はたいてい、王宮で厚く遇される。王宮魔術師とかと同様の地位に就いているのが、そのほとんどだ。
 といっても、実際に噂を確かめたわけじゃないから、本当のところは知らないけどね。
「むむ〜」
 あたしは、つんつん鍵をつついてみた。
 一応、こんなことぐらいでは爆発したりしないらしい。
 しかし、悲しいかな、あたしのような一般市民では、この紋様がどういう内容のものなのかさっぱりわからなかった。わからない限り、いじくるわけにもいかない。
 ……いや、まぁ、今日はちゃんと大人しくしてるけどさ。約束だから。
 あたしはしぶしぶため息をつくと、後ろ髪を引かれる思いで扉の前を後にした。
 ベットサイドテーブルに置かれたままの荷物を一瞥《一別》して、さっき脱出につかった窓へと移動する。
 あたしが無体を働いたカーテンは、さすが金貨三十枚分の価値、といった感じに堂々と今もそこにあった。
 簡単に点検したが、どうやらカーテン自体は無傷なようだった。だが、カーテンレールがちょっと壊れている。
 ……あれは金貨何枚分の価値なんだろうか……
 あたしは血の気の引く思いでそれを見上げつつ、脳内の借金帳に予想金額を書き込んだ。……一生かかっても払えない気がする。
(い……いいのよ。これから稼いで返していくんだから!)
 もちろん、自分の食い扶持も稼がなくてはいけない。
 改めて決意して、あたしは残された唯一の脱出口である窓をしっかりと点検した。
 そして硬直する。
「……むぅ……!」
 窓にも、しっかり鍵がかけられていた。

   ※ ※ ※

 レメクという人は、もしかしてものすごく保護意識が高いのかもしれない。
 ベットの上で寝転がったまま、あたしはそんなことを考えていた。
 部屋に閉じこめられてから約一時間。いいかげん暇で仕方がない。
 部屋の探検は昨日のうちに済ましているし、暇つぶしにできるような内職もここには無い。
 何かゲーム版のような物も部屋にはあるのだが、そんな高尚そうなモノをあたしが知るはずもない。
 することが何もないので、今までの事やこれからの事を考える。
 死んでしまった母さんのこと、それ以降世話になった孤児院のこと、一緒に過ごした孤児仲間のこと……
 けれどそれら考えると、目の前が暗く塞がれていくような気分になった。救いがない……敢えて言うならそんな気分だ。
 あたしはゆるゆると首を振る。心が押しつぶされる前に、助けを求めるように別のことを考えた。
 即座に浮かぶのは、目下あたしの攻略対象である未来の旦那様だ。
 レメク・(しつこいが長いので省略)・クラウドール。三十二才。独身。顔は良い。背も高い。見た目ちょっと痩せて見えるけど、けっこうガッシリと引き締まっている。
 北区に庭(というか林に近い)付き邸宅を構え、立派な服を着て仕事に行く人。本人曰く「一官吏」。内装も立派だから、かなりの金持ち。でも使用人はいない。未使用の部屋は荒れたまま放置。
 ここからあたしは推測する。
 レメクはお金持ち。でも、人付き合いはあまり好きじゃない。料理も自分で作っちゃう所からして、貴族では無さそうだ。
 北区に家を構えるのは、たいてい貴族か大富豪だ。
 富豪だとすると、大商会の長か、その子息か……いや、でもそれだと「一官吏」という単語が出てくるはずがない。……となれば、行き着く先は一つ。
 城に勤める官吏だ。
 城勤めといえば、どんなものであれ誰もが憧れる職業だ。
 例え「下働き」であっても、城の、という単語がくっつくだけで、誰もが「おお」と唸る。それぐらい歴然とした差があるのだ。お金とか、身分とかに。
 レメクの服はとても良いものだった。
 今、あたしが借りて着ているこのシャツだって、まるで貴族のようにパリッと糊がきいている。もちろん生地は絹だ。
 そんな物を着て仕事をしているのだから、それなりの地位に就いているはずだ。例えば、部下を何人ももつ長的な立場とか。
(……その場合、あの発言が気になるのよね……)
 問題は、レメクが言う「一官吏」の意味だ。
 あたしはさらに推測する。なにせ暇ですることがないので、レメクをネタにあれこれと推測するぐらいしか時間潰しができない。
 レメクの言う「一官吏」を、額面そのままでとらえれば、レメクは長では無い。部下がいるような立場では無く、逆に長を持つ立場になる。
 けれど、あの言葉がただの謙遜なら話は逆転する。あたしの「お偉いさん」の単語がそのままあてはまるのだ。
 レメクは確かこうも言った。
 王の方策が端々まで行き渡るよう、手はずを整え実行するのが臣下の役目、と。
 人にこき使われる立場の人間なら、あんな風に言うだろうか?
 臣下の部分を「我々」と表したのならそうともとれたが、あえて臣下と言った。彼は「実行する臣下」とは別の立場にいる、という風にとれる。
 しかも、あれは人を使う立場を理解した上での発言だ。
 例えば、効率よく仕事をするために、あたし達が子分を使うような感じで……
「……でも……あれ? なんか忘れてるような……」
 あたしは目を瞑る。深く物事を考える時にあたしの癖だった。
 暗くなった視界の奥で、言葉がチラチラと瞬いて消える。
(……レメクは、不正がどうこうって言ってた……)
 そうだ。あたしのいた孤児院。あたしの状態を見て、陛下の命令がちゃんと実施されてないことを気にしてた。
 ということは、だ。「実行する立場」ではなく、それがちゃんと実行しているかどうかを「調べる立場」の可能性が高い。あたしなんかにいろいろ聞くぐらいだから、レメクはそれらの情報を集めてたり、有効に利用したりする立場にいるはずだ。
 ということは?
「……裁判官……?」
 だが、裁判官は教会の人間でないといけない。人を人が裁いてはいけない、ということになっているからだ。
 けれど、孤児院に神官が字を教えに行ってない件の話をした時、彼が教会の神官を語る口調は、まるっきり赤の他人を語る口調だった。
 それに、教会の人間なら「一官吏」という表現はしないはず。
「……うーん……」
 あたしはそこで思考を放棄した。
 あたしの乏しい知識では、これ以上の推測ができない。ピースの揃ってないパズルをするようなものだ。
 レメクのことについて、アレコレと想像したり考えたりするのは楽しいのだが。
(……レメクにお仕事の事聞いてみようかな……)
 あたしがレメクの仕事について知らないのは、それを話題にしたことがないからだ。聞いてみれば、意外と簡単に教えてくれる気がする。
(……ついでに、いろいろ教えてくれないかな)
 あたしが見る限り、レメクは博識な人っぽい。メリディスなんていうレアな他民族の掟にも精通していたし……
「……ん?」
 ふと、何か思い出しかけて、あたしは首を傾げる。何か気になる単語があったような……
 ……あぁ、そうだ。
(……管轄外)
 メリディス族が保護指定族になってる的なことを話した時、自分は管轄外だからあまり知らないと言っていた。
(うーん……じゃあ、レメクが保護官じゃないのは確定よね)
 国に保護指定されているものを保護するのが保護官だ。
 あたしはそこまで考えて、ちょっとしょんぼりした。あたしがここにいる理由が、ハッキリ見えてしまったからだ。
 メリディス族は、国から保護指定を受けている一族。
 なら、メリディス族のあたしは、立派に保護の対象だ。国の一官吏である(らしい)レメクが、あたしを保護するのは当たり前だった。
 あたしが嫁発言してるのは、あたし側の都合なわけで……
 ……しょんぼり。
「…………いいもん」
 ベットの上で膝を抱えて、あたしは膝頭に額を乗せた。
 胸の奥に、コトリと重いものが落ちる。
「……一緒にいられるんなら、機会はいっぱいあるんだから」
 その瞬間、なぜかすぐ横でニンマリと誰かが笑った気配がした。
「ふふ〜ん?」
「!?」
 誰、という誰何をする余裕もない。
 とっさに飛び上がって、ベットから飛び降りた。
 そして声の方向を凝視して、
「…………」
 絶句。
(……なに)
 この
(ハデな人)
 ものすンごい美人だった。そして、とんでもなくハデだった。
 豪華な金の巻き毛を長々と伸ばし、大きく胸の開いた派手でセクシーなドレスを着ている。
 開いた胸元からのぞく胸が実に立派で、谷間など『くっきり』どころか『ずんもり』という表現で表せそうなほどだ。
 対照的に腰は細く、見事と言うしかないプロポーション。
 とても羨ましい。
 あたしはマジマジと相手を見た。
 相手もマジマジとあたしを見る。
 ただしニヤニヤ笑いを口にはいたままだが。
「……女王様?」
 あたしは首を傾げながら言った。
 女の雰囲気を現すなら、それ以外にありえない。いや、あるいは……
「……派手な魔女?」
 あたしの声に、それまでニヤニヤ笑っていた女がちょっと目を丸くした。
 次いで盛大に吹き出す。
「あはははははははは!」
 豪快な笑い声だった。
 あたしはびっくりして思わず扉のほうを見る。
 レメクが驚いて飛んでくるんじゃないかと思ったのだが、ドアは沈黙したままだった。
「はっ! 私が魔女か。魔女に見えるか、小娘」
 小娘と言われた。……いや、確かにあたしは小娘だが。
「見えるわよ。あたしが小さな娘のように」
 言い返すと、面白そうに目が笑った。
 口角もニュッと上がって、それでいっそう獰猛な笑みに見える。
 肉食獣だ。そう思った。獲物を見つけたオオカミのようだ。
「こんな派手な魔女も世には珍しかろう?」
「魔女はたいてい珍しいものよ。それとも貴方の近くには、そんなに魔女がいっぱいいるの?」
 あたしの反論に、黄金の魔女は手を打って喜ぶ。
 だが、その目は油断無くあたしを見つめたままだ。
「魔女は少ないが、まぁ、いないことはない。魔王みたいなのもいたりするな。ここにも一人いる……が、まぁ、それはいい」
 最後はぼやくように言いながら、魔女はにやりと笑み崩れた。思わず目が離せなくなるぐらいに魅惑的な笑みだ。男ならイチコロかもしれない。
 レメクがいなくてよかった。
「愉快だ。あぁ、実に愉快だ。ここには別件で来たのだが、思いがけず良い獲物に会うた。……娘、おまえ、名は何という?」
「人に名前を尋ねるときは、まず自分から名乗るべきだわ。それと、あなたが悪魔でない証拠がなければ、あたしは名を名乗れない」
「はっは! 小賢しいが、生きの良い獲物というのは大抵こういうもんだな。私は……そうさな、アウグスタと呼ばれている。まぁ、一応自分では人間のつもりだが、さて、人によっては悪魔と呼ぶ者もいるな」
「それは悪魔じゃない証明にはならないわね」
「ならんなぁ……さてさて、困ったな?」
 にやにやと笑み崩れて、アウグスタは腕を組んだ。
 そうすると胸の谷間がいっそう強調される。いや、谷間というより盛り上がりだ。
 すごいボリューム。
「だがな、娘よ。おまえ自身についてもよく考えるがよい。おまえは自分で、自分が悪魔でない証明ができるか? 誰それの子だから悪魔ではない、とか、そういう程度の証明なら口だけでどうとでも言える。なぁ、娘よ。おまえは何をもって『悪魔では無い』という証明にする?」
 あたしは呆れた。
 今時、孤児院の子供でも知っていることを、この魔女は知らないのだろうか?
「物では証明できないわ。だって形が無いんだもの。言葉でしか説明ができないから、やっぱり口だけでどうとでも言えることかもしれないわね」
「おや。証明できるのか」
「できるわよ。簡単じゃない。自分は悪魔ではない、と心から言えることがその証よ」
 アウグスタは一瞬、きょとんとした顔になった。
 おかしな話だが、その一瞬に見せた顔は、驚くほど清らかで美しかった。
「なるほど……あぁ、なるほどなぁ……ふふふ」
 妙に迫力のある「ふふふ」笑いをして、アウグスタはキラリと目を光らせる。面白いオモチャを見つけた猫の目に似ていた。
「『自分は悪魔では無い』。なるほど、真に悪魔と呼ばれる生き物であれば、そんな自殺まがいな発言はできんな」
 そう。言い伝えが確かならば、それは確かに絶対的な証明になる。
 自分は悪魔では無い、と悪魔が言うと、それは『自分は自分では無い』ということになるのだ。
 それはすなわち、自分で自分の存在を否定することになる。
 これを心からやってのけたりすると、血肉を持ってこちら側に存在しているわけではない悪魔は消滅してしまうのである。
「なら言おうか。私は悪魔では無い。時によっては悪魔以上に悪魔的な女であろうが、人として生まれ、人として生きている者よ」
「あたしはベルよ、アウグスタ。あたしも悪魔じゃないわ。場合によっては悪魔になりたいと思うけど」
「おや。悪魔にならんとする者が私以外にもいたとはな。どういう時に悪魔になる?」
「男の人を誑かしたいって思ったら、女は悪魔になるんじゃないの?」
 この台詞は、宿のおねーちゃんが笑いながら言っていた台詞だったのだが、なぜかアウグスタには大ウケだった。
「誑かすか! はは! 誰を誑かす!? だがその前に、娘、おまえはその身にあと一重か二重ぐらいは肉をつけなければならんだろう。それに……そうだな、髪を綺麗にしておくことだ。この髪はとても珍しい。いい武器になるだろう」
「でもおじ様は、この髪を汚れた状態にしたほうがいいって言ってたわ。そうしないと、あたしが珍しい種族だってバレちゃうから」
「ふふん」
 アウグスタはニンマリと笑った。
「……ふふふん。いいぞ、本題に近づいてきた。私が知りたかった内容だ。なぁ、娘。せっかく私達はこうして知り合ったんだ。仲良くしようじゃないか」
 つり上がった口角から、小さな牙のような綺麗な歯が見える。その笑みは、まさに悪魔のように美しかった。

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