1 灰色の世界で

 空間が歪んだ。
 瞬き一つの間も置かず、過たず黄金の魔女が現れる。
 門の紋章の『力』は、所持者を瞬時に別地へと運ぶ。それはもはや移動では無く、転移と呼ぶに相応しいものだった。
 わずか一瞬であらゆる距離を踏破するその紋章は、もはや魔術というより魔法に近い。
 その転移場所は、紋章の所有者が『紋様』を与えた相手の居る場所に限られる。逆に言えば、紋様を与えられた者は、任意に所有者を呼び出すことができるのだ。
 そう。まさに、今回のように!
「ベル!?」
 あたしのすぐ傍らに現れたアウグスタは、驚いた顔であたしを見た。
 別れた時と同様、典雅で麗しいドレス姿。髪飾りは外していたが、彼女の黄金の髪はそんなものがなくても輝いている。その輝きすらもただの装飾にする絶世の美貌は、こんな時だと言うのに、鮮やかなほど美しかった。
 けれど、
「何……が……」
 その顔は、あたしのすぐ前に横たわる人を見た瞬間、世界が壊れたかのように凍りついた。
 驚きとそれを上回る恐怖が、あらゆる思考を奪っていた。
 顔から色が消える。瞳が極限まで開かれる。
「レメク!!」
 戦慄く唇から発せられた声は、完全に悲鳴の域だった。
 覆い被さるように豪華なドレスをさばいて跪くと、アウグスタはレメクを抱きかかえた。
「レメク! レメク!!」
 揺さぶられても、レメクは反応しない。
 あたしはよろよろとアウグスタの傍らに這い寄り、一緒にレメクの体に触れる。
 その体が、少し、前より熱くなくなっていた。
「ぁ……」
 冷たく……なろうとしていた。
「ぁあああア!!」
 あたしの絶叫こえに、アウグスタが息を呑んだ。
 左腕でレメクを抱きしめたまま、右腕であたしを乱暴に抱き寄せる。
 アウグスタは叫んだ。彼女を呼んだあたしと同じように!

「■■■■■■■!!」

 その声はあたしには聞こえなかった。
 いや、聞こえてはいたが、理解することはできなかった。
 それはきっと彼女だけの呪文。彼女だけの言葉。
 彼女だけが与えられた、奇跡を呼ぶ魔法。
 声が響いた次の瞬間、レメクの影から立ち上がった深淵の闇に、あたしはアウグスタが呼び出した『もの』を知った。
 それは瞬時にレメクの全身を覆い尽くし、まるで闇の沼に引きずり込むようにしてその全てを床に沈ませる。
「レメク!!」
 あたしは手を伸ばした。アウグスタの腕に阻まれた手は、レメクを攫う黒い闇を掴むことなく宙を掻く。
「レメク!!」
 必死に叫ぶあたしを強く抱きしめて、アウグスタは叫んだ。
 ここでは無いどこかへと向けて。
「救え!!」
 その強い言葉に、けれど静かな声が答える。
『代価が』
「持って行け!」
 一瞬の迷いも無く、アウグスタは言いきった。相手にみなまで言わせぬほどの早さは、おそらく相手の返答を半ば予想していたからだろう。
 あたしを強く抱きしめたまま、怒気のような気迫をみなぎらせて彼女は叫ぶ。
「だが、いいな! 万が一があった場合には、この私が赦さん!!」
 ビリビリと空気が震えるほどの声だった。
 その声に畏れを抱いたように、重なったあたし達二人の影が伸びる。それはあっという間に一人の人間の姿を模し、瞬き一つでよく見知ったヒトになった。
 闇の化身のようだと思った、そのヒトに。
 常と同じ神代の美貌に、常とは違う恐ろしい気配を漂わせて、そのヒトは口元を薄く笑ませた。
 それはどこか冷笑のようであり、そして暖かな微笑のようでもあった。
『……願われますか、御主人様マスター
「……そう言ったぞ。言葉遊びをしている余裕があるのか、■■■■■■■」
 そのヒトはただ薄く笑う。
『止まった時を動かすまでは』
「…………」
 謎かけのようなその言葉に、アウグスタは眉をピクリと動かす。苛立ったようなその仕草に、彼はただ微笑わらった。
『ならば、改めてご命令を。御主人様マスター
 そうして、アウグスタの前で丁寧に一礼した。
 アウグスタの口から歯ぎしりのような音が漏れた。
 これ以上ないほど怒っているのを感じた。だが、アウグスタはそんな己を律して言った。
「二つ目の願いだ、■■■■■■■。レメクを助けろ。あれを死なせるな!」
御意イエス御主人様マスター。お望みのままに』
 礼をとり、鮮やかに笑ってそのヒトは身を翻した。その姿はまるで空気に溶けるようにして消える。
 アウグスタはピンと背を伸ばしてそれを見守っていたが、彼が消えた途端、深い息をついて体を丸めた。
 一気に力を失った体から、あたしはこぼれ落ちるようにして解放される。
 あたしはレメクが消えた床をカリカリと引っ掻いた。
 頭が混乱していて、自分が何をしようとしているのかよくわからない。
 ただ、力無く項垂れたアウグスタが、あたしのほうを見てちょっと泣き笑いのような顔になったのはわかった。
「ベル」
 カリカリと無意識に床を掻いているあたしを、アウグスタはもう一度抱き寄せる。やんわりと抱きしめて、深く深く嘆息をつく。
「大丈夫だ……大丈夫だ、ベル……」
 その声は、あたしにというより自分自身に言い聞かせるようだった。
「大丈夫だ。……アレは、決して、契約を違えない……。二つ目を……使ったのだからな」
 様々なものを込めて力無く呟いたアウグスタに、あたしはピスピスと鼻を動かす。
 アウグスタからは、悲しくて切ない匂いがした。胸がツキンツキン痛くなって、体が冷たくて、涙が出そうになるような……そんな悲しい匂いだった。
「… … ……」
 あたしは口を動かした。声は出なかったが、アウグスタは微笑んだ。
「うん。……いや……ぁあ、おまえは気にしなくていいんだ。ただ、信じてやってくれ。アレが必ず、レメクを救うのだと。そして願っていてくれ。レメクが救われることを」
 落とすため息はか細い慟哭のようで、あたしは何も言えなくなった。
 ただ無意識に手がレメクを求めて彷徨う。その手ごとあたしを抱きしめて、アウグスタは言った。
「人の願いは強い。それこそ天の理すら変えるほどに。……けれど真実の願いだけが天に届く。生半可な願いでは理を覆せない。……運命を呪うほどの願いでなくては」
 それはかつて、あのポテトさんが言っていたのと同じ言葉だった。
 あたしは目を閉じる。
 瞼の裏に、倒れたまま動かないレメクが映った。止まらない涙がそれを押し流そうと勢いよく溢れる。けれど見てしまった光景は消せず、この胸の絶望も消えない。
(レメク……!!)
 喉が塞がれたように息苦しくて、頭が割れるように痛くて……なのに足下から、だんだん体が冷たくなっていく気がした。痺れた手足の感覚は無く、触れているアウグスタの柔らかさもわからない。
 まるで世界があたしから切り離されてしまったかのようだ。
 ただ聞こえてくる声と、それだけはわかる『匂い』だけが、あたしが世界とまだ繋がっていることを教えてくれた。
(……レメク……)
 だんだんと思考が鈍くなる。
 頭の中にあるのはただ一人の面影だけで、それ以外はわからなくなる。
「……ここでこうしていても、仕方がないな……」
 手を彷徨わせているあたしを抱きしめたまま、アウグスタは立ち上がった。
 暗い視界の中で、アウグスタがあたしを覗き込む。
 難解なダンスを踊り続けても疲れなかったというのに、わずか数秒で疲れ果ててしまったような顔だ。どこか痛ましいものを込めた目であたしを見たアウグスタは、あたしの頬に頬ずりをして呟く。
「……あの馬鹿助め……なにも、おまえの前で倒れることはなかろうが……!」
 そんな筋違いな罵倒も、どこか慟哭のようだった。切なくて苦しくて、辛くて辛くてたまらない痛みに満ちている。
 レメクが倒れた。……ああ、倒れたのだ。
 すでにわかっていた現実を、改めて頭が繰り返す。倒れた……目の前で。その一部始終を繰り返す。
 どうしてあたしは、もっと早くに気づかなかったのだろう。
 彼は疲れていた。言動もそれを裏付けていた。
 なのになぜ、自分はそれをもっと深刻にとらなかったのだろうか。
 レメクだから大丈夫だと思っていたのだろうか? ちょっと疲れてるように見えても、明日になったらいつものように、優しく自分を見守ってくれると思ったのだろうか。
 ああ、レメク。本当にあなたの言う言葉はいつだって正しい。まるで未来を読んで言の葉を紡ぐように、それは全て正しくあたしの未来で立証される。
 いつだったか語ってくれた。朝陽に微睡む街並みを見下ろした。嗚呼、レメク。本当だった。確証のない確信は妄信と同じだ。誰がいつ保証したというのだろうか。何の保証もないままに、あたしは勝手に信じきっていた。
 レメクはいつだって、自分の近くにいてくれるのだと。
 ずっとずっと、元気で傍らにいてくれるのだと。
 そんな保証なんて、これっぽっちも無かったのに……!!
(……あたし……知ってた……)
 この2ヶ月間、誰よりも一緒にいたレメク。
 あたしは知っていたはずだった。彼が、かつてのあたし同様、ボロボロの体だったことを。
 死にかけたあたしを助けるために、己の命を捧げだした。あの時から、レメクの体はボロボロだったのだ。
 休め、体を癒せ、と。そう言ってあたしを守ってくれながら、けれど自分は働き続けたレメク。そんなレメクが疲れてないはずがなかった。体が癒えているはずがなかった。
 たとえ王宮で健康な人の間を巡っていても、無自覚に分け与えられている元気のおこぼれをもらうだけで、レメクの体が健康になるはずもなかったのに。
(……休まなきゃ……いけなかったのに)
 彼が休めなかったのは、何故か。
 改めて考える必要もない。
 レメクは仕事でいつも忙しそうだった。孤児院の事件の時からずっと、彼には休みらしい休みは無かったのだ。
 孤児達の今後の面倒や、事件の波及で滞ってしまったあらゆる問題も、彼が一手に引き受けていた。手を貸してくれる人がいないわけでは無さそうだったが、それでもレメクの手が必要なものがほとんどだったのだ。
 ケニード達が言っていた。レメクほど有能な人は王宮にはいないのだと。
 ヴェルナー閣下が「ぜひ自分の後継者に」と切望するほど、レメクの能力は際だっているのだ。その彼に仕事が集中するのはどうしようもない。
 朝早くから仕事に出かけ、夜遅くに戻ってくる。たまの休日はあたしの淑女教育レッスンだ。つきっきりで一から教えてくれた。
 なかなか上達しないあたしに、焦ることも苛立つことなく、ただ、どこか困ったような心配そうな瞳のままで。
(……あたしの……せいだ……)
 違う箇所などどこにもない。間違いなく、あたしが原因だ。
 そもそもの発端も、休めなかった理由も、全部が全部あたしなのだ。
 しかもあの内容だ。きっと心休まる日もなかったことだろう。体も疲れていて、心も安まらないのでは、倒れても仕方がないのだ。
(あたしが……レメクを……)
 レメクを……■■たのだ。
 誰よりも大切で、誰よりも大好きで……そんなレメクを、あたしは二度も■したのだ。
 無自覚だったから何だと言うのだろう。気づけなかったから何だと言うのだろう。
 あれだけ傍にいたのに、気づけなかったことがそもそも罪なのだ。
(レメク……)
 いつだってあたしは間違い続けて……レメクを危険な目にあわせる。
 死という名の、最も危険な終焉へと。
(……レメ……ク……)
 何かが音をたててあたしの中で壊れた。
 砕け散ったものが何なのか、あたしにはわからない。ただ、壊れたと自覚した。
 世界は薄暗い影の中に落ち、美しかったものの全てが灰の中に溶ける。
 何の色も無いその中で、アウグスタがあたしの頭を撫でる。優しい手の感触は感じられなかったが、視界の映像でそうされたのだとわかった。
「ベル。おそらく、しばらくレメクは動かせない。アレもここから動けまい。……そんな中に、おまえを残すことはできん。もともと、私の娘となったからには、王宮に引き取らねばならん身柄だ。……本当は、そのことをちょっといろいろ詰めたかったんだがな……こうなっては仕方がない」
 苦渋を滲ませた呟きだけは、耳に届く。
 色の無い世界のアウグスタはどこか現実味がなくて、あたしは何の反応も返さずにただ声を聞いていた。
「おまえを城へと連れて行く。女官長の元でなら、安全だろう。おまえは……」
 言いかけて、しかしアウグスタは口を閉ざす。
 視界の中のアウグスタの顔が歪んだ。今にも泣きそうな顔で、嗚咽をかみ殺すようにした言葉を紡ぐ。
「そんなに思ってくれているおまえを残して……あいつは、逝ったりはせんよ。だからおまえも、あやつのために……強く、あってくれ……。もう、声も届いておらんかもしれんが……」
 手が動く。髪を撫でてくれている。
 感覚はわからなくても、視界で内容はわかる。
 ……けれど、何も感じなかった。
「ベル。聞こえておらんかもしれんが、聞け。おまえの身を守るために、これだけは届いてくれ。……王宮では、私がこれから言う者以外は信用するな。貴族も召使いも、男も女も、年齢の上下も関係なく、信用するな。何かあれば私を呼べ。私はずっと傍にいることはできないが、必ずおまえを助けに行く。いつもレメクが、そうしていたように」

 イツモ レメクガ ソウシテイタヨウニ

 あたしは口の中でそれを復習する。
 声は無く、音は出ず、それでもそれを復習する。
 アウグスタはますます泣きそうな顔になった。そうしてギュッとあたしの体を抱きしめる。
 その瞬間、あたしの視界が歪んだ。本当の意味で歪んだ。
 けれど驚きはしなかった。
 瞬時に変わった景色は、先程までの素朴なものでは無かった。
 ありったけの贅を凝らした、凝った意匠を施された部屋。
 そこには十数人からなる人々がいて、全員が驚いた顔でアウグスタを見つめた。
「陛下!」
「陛下……いかがなさいましたか!?」
 女性ばかりだった。そろいもそろって女官服を身につけている。なかでも一番年かさの女性が駆け寄り、アウグスタとあたしを見て愕然とする。
「陛下……『何が』、ございましたか……」
「話が早いな、女官長」
 アウグスタが力無い笑みを零す。抱きしめていたあたしを抱え直し、彼女はあたしを女官長と呼ばれた女性に向き直らせる。
「先に言っていた、これが新しい我が娘ベルだ。おまえに任す。助けてやってくれ」
 女官長と呼ばれた女性は、その瞬間キリッと顔を引き締めた。
「かしこまりました。わたくしの命にかえましても」
 そうして、彼女はあたしを見た。その瞳は熱く、けれど優しく、何かとても尊い者を見るように細められる。
「初めてお目にかかります、姫様。わたくしは殿下方の乳母をしておりました、シェンドラと申す者でございます。姫様のご到着を……心よりお待ち申しておりました。どうぞお見知りおきを」
 いささかならず熱のこもったその声に、あたしは無意識に口を開いた。
 挨拶をされたら、きちんと挨拶をすること。
 レメクから教わった。だからちゃんと挨拶しないといけない。
 けれど体はほとんど動かなかった。唇だけは動いたが、あたしの声はどういうことかあたしの耳には聞こえなかった。
 他の人の声は、ちゃんと聞こえるのに。
「姫様……?」
 シェンドラさんは軽く目を瞠る。
 そうして、すぐさまアウグスタを見た。
「……陛下……あの、姫君は……」
 アウグスタは一瞬押し黙る。それはわずか数秒だったが、緊迫した表情のシェンドラに根負けしたように、彼女は小さく答えた。
「……レメクが、倒れたのだ」
 部屋の全員が息を呑んだ。シェンドラの喉の奥からは悲鳴が零れた。
「そんな……ぁあ、そんな……!」
「ポテトがいる。あやつがついている。……だから、心配には及ばない。ちょっと疲れただけなんだ。しばらくは養生させる」
 微笑ってそう言って、アウグスタはあたしの頬を撫でた。
「ベルが急を報せてくれた。だから早く手を打てた。……逆に言えば、ベルは見てしまったんだ。レメクが倒れる所を。それで……」
 それで……その後が続かない。
 シェンドラは驚いてあたしを見つめる。その目がみるみるうちに涙に滲んだ。
「……姫様……」
 伸ばされたその手に、アウグスタはあたしを渡した。あたしは初めて会う人の腕に抱かれる。
 けれど何も感じない。温度も、感触も、何も。
 この人からは、ケニード達と同じ、優しくて暖かい匂いがするのに。匂い以外を感じられないのだ。
「姫様……そこまで……まだ、こんなにお小さいのに……」
 それでも、これほどまでに……そう言って、その人はあたしをぎゅっと抱きしめてくれた。
 『殿下方』の乳母だったという彼女。なら、今までも姫様達にもこうやって、母親のごとく接してくれたのかもしれない。もしかしたら、王女様だった昔のアウグスタにとっても乳母だったのかもしれない。彼女の匂いはまさしく『母親』のそれだった。
 あたしは匂いを嗅ぐ。
 唇が動いた。無意識に、おかあさん、と呟いた。
 けれど、音は出ない。
「…… …… ……」
 あたしは唇を動かし……そうして、理解した。


 あたしは、声を失っていた。


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