2.あなたを捜して |
「一番好きなものは、何」 そう問われれば、真っ先にその人の顔が浮かんだ。 その顔を思い浮かべるだけで幸せで、思わず頬が緩んでしまう。 けれど人の記憶というのは曖昧なもので、思い出したと思っても、その像はすぐにぼやけてあやふやになる。 それが嫌でたまらなくて、あたしは暇がある度にレメクをジッと見つめていた。すると、レメクはなんだか怯えたような目で腰を浮かせる。うかうかすると逃げられるので、あたしはいつもそこでレメクに飛びかかっていた。 (ねぇ、レメク……) 不思議なの。 あなたと出会ってまだ いつのまにか『思い出』すら、あなたといた日々に占められていて、昔あった「悲しい」も「お腹空いた」も、今はどこにいったかわからないの。 (……レメク) 朝起きた時── すでにいないレメクの温もりと匂いを求めて、あたしはいつも布団の中をぐるぐると這い回っていた。 寝室のカウチには可愛らしい服。起きたあたしがすぐ着れるように、いつもそこに揃えられていた。 階段を下りれば、台所に朝食。 時々ケニードが作りに来てくれるけど、それ以外の時はそこに朝食が置かれていた。 いろんな食材を挟んだサンドイッチ。保冷庫には山羊の乳。その日に勉強しておく教材は居間にあって、書き取り用の用紙の傍らにはたっぷりのインクが置かれている。 昼食時にはケニード達が遊びに来て、一緒にご飯を作って食べる。 時々レメクも帰って来てくれて……そんな時、あたしは大喜びで彼に抱きつきに行くのだった。 お昼を食べ終わった後は、夕方までお勉強の時間。 レメクを「行ってらっしゃい」と見送ると、少しだけ微笑って「行ってきます」と返される。少し面はゆそうなその顔が、あたしはとても好きだった。 (レメク……) お勉強は苦手だったけど、レメクとする勉強は好きだった。 聖書や本を読んでくれる声も、ページをめくる指も好きだった。 少しずつ文字を覚えて、一人でもなんとか読めるようになって……最近では、練習がてら二人で交換日記をするようになっていた。その日あったことや、思ったこと……拙いあたしの文に対して、レメクは丁寧に返事を返してくれた。嬉しくて楽しくて、もっともっと文字を覚えたくて、ずいぶんがんばったと我ながら思う。 (……レメク……) 今までの環境を思えば、なんて夢のような日々だったのだろうか。 美味しい御飯があり、暖かな寝床があり、優しくて大好きな人がいて、あたたかい人達に見守られる。 きっと神様がいる世界というのは、そういうあったかいもので満ちているんだろう。 昔そんな風に思っていた世界を、あたしは二ヶ月間、惜しみなく与えられたのだ。 手を差し出せば、その手をとってもらえる世界。 寂しい時は手を握ってくれ、体を抱きしめてくれ、大丈夫ですよと言ってもらえる世界。 それはなんて……幸せな世界なのだろうか。 (レメク……) 次第に遠くなる意識の中で、あたしはレメクのことだけを考え続けた。 レメクが倒れたのを見た時から、あたしの時間は止まっているみたいだ。 体はもう癒えているはずなのに、まるで死にかけたあの時のよう。 声だけは聞こえているけれど、肌に触れている『もの』の感触がわからない。 目を開けていても世界は灰色で、自分が本当にそこにいるのかどうかすら、わからなくなってくる。 目の前に食べ物を置かれても、食べたいと思わないし……口を動かしても、本当に食べているのかどうかわからない。 わからないままで体を動かして…… (──けれど) ねぇ、レメク。 (おかしいの) 体を動かすっていうことすら、わからなくなってしまいそうなの。 (……レメク) あたしは繰り返し繰り返し、ただレメクの名前だけを心に呟く。 目の前の光景の中に、アウグスタや年配のおばちゃんや……あのきっつい目のお姫様が見えた気がした。 でもそれが『いつ』の、『何』の光景なのか、よくわからなかった。 見ていても意味がないので、あたしはゆっくりと目を閉じる。 誰かが何かを言っているが、それすらももう聞こえない。 ただ黒い闇があたしを包み、深い底へと誘ってゆく。 (……レメク……) レメク。大好きなレメク。 (あたし……嫌な世界……見てるの……) これは夢だと思いたかった。 とびっきり幸せな夢の後で見た、とびっきりの悪夢だと。 きっと次に目を開けた時にはレメクがいて、そうしてちょっと呆れたような顔であたしを見て言うのだ。 少しだけ困ったような、そんな色の瞳で。 ──悪い夢でも、見たんですか? と。 ※ ※ ※ 名前を呼ばれたような気がして顔を上げた。 そこは真っ暗な世界だった。 影絵の世界に迷い込んだように、周りは一面黒一色に染め抜かれている。振り仰いだ頭上だけがちらちらと隙間を除かせて、そこは沈んだ灰色をしていた。 (…… ……) あたしは周囲をぼんやりと見る。 よく見ると、周囲の黒いものたちにはそれぞれ固有の姿があった。地面から空へと伸びた長大な黒。柱のようなそれに、あたしは見覚えがあった。 (前庭の……木) 庭と呼ぶのも (……レメク……) あたしの足がそちらへと向かった。 からっぽの頭の中で、たった一人の名前だけがぐるぐると回っている。 どうして今、こんな所にいるのか……そんなこと、疑問にも思わなかった。 どうだってよかったのだ。そんなことは。考える意味もないことだ。 レメクがそこにいるのならそれが全て。 レメクがそこにいないのならそれで終わり。 あたしにとっての世界の意味は、ただそれだけだったから。 (おじ様……) あたしは手を伸ばし、黒い塊でしかない屋敷の扉を叩いた。 (……おじ様……) か細く呼びながら、扉を引っ掻く。闇色に染まった屋敷はあまりにも静かで、生きている人の気配がしない。 (おじ様……おじ様……) カリカリと引っ掻く。 閉ざされたままの扉が悲しくて、あたしは泣きながら必死でそれを叩き、引っ掻いた。 (おじ様……おじ様……) ふと、その闇色の扉から、白い手が現れた。 扉は閉ざされたままだというのに、その手だけが扉から出ている。頭より高い位置にあるその手に、あたしは瞬きをしながら手を伸ばした。 すると苦笑含みの声が聞こえた。 『おやめなさい、お嬢さん。まだ時は至っておりませんよ』 あたしは大きく瞬きをした。 闇色の扉の中から、ゆっくりとそのヒトが姿を現す。扉を素通りしてきたのは、レメクを (……お義父さま……) 『……あなたは本当に、無茶をしますね』 苦笑を含んだその声は、耳という器官を通さず、あたしの全身に直接響く。 『……何故あなたのほうが、今、死にそうになってるんですか』 淡く笑うような、畏怖を含むような。そんな不思議な『声』だった。 あたしは瞬きを繰り返す。 死にそう? あたしが? 違うはずだ。死にそうなのは、あたしじゃない。 (……おじ様……) この中にいる、レメクこそが……!! (おじ様!!) 弾けるように、魂の奥底から声があがった。ビリビリと黒い世界が震えた。 けれど目の前に そこから半身を出している黒いヒトも、小揺るぎ一つせずそこにいる。 (おじ様!!) 『いいえ』 扉にすがりつこうとするあたしを、見えない手が後ろへと押し返した。 『今、死にそうなのはあなたです』 かわりにその場に立った黒いヒトは、あたしの胸を指し示す。 『人というものは、肉体だけで生きているのではありません。血肉は こころ、と。あたしは小さく呟いた。 そのヒトは淡く微笑む。 『あの子が倒れた一因もまた、あの子のもつ【心】によるものでした。……けれど、嗚呼、なんということでしょうね。それなのに貴女の方から、こんな風にして夜を渡ってくるだなんて』 ……なぜだろう。 あたしは瞬きをする。 言葉の意味はわからないけれど、そこに込められた感情だけは読み取れた。 暖かく優しいものは『喜び』。伝わる震えは『希望』。 あたしは知っている。それが感動と呼ばれるものなのだと。 『 あたしは瞬きをした。 彼の語る言葉はいつも謎に満ちていて、あたしには理解が難しい。 それにあたしがどうとかいうことは、正直、どうだっていいことなのだ。レメクだけが大事なのだ。レメクが……レメクだけが…… よろよろと手を伸ばしたあたしに、そのヒトは少し眦を下げる。 『あの方が言ったはずですよ、私に。【救え】と。……命じられた以上、それを叶えるのが私です。信用してはいただけませんかね?』 口元に亀裂のような笑みを浮かべたそのヒトを、あたしは見つめた。 涙がぽろぽろとこぼれていく。 (おじ様…… おじ様……) 黒いヒトはちょっと小首を傾げ、ややあって口元に微苦笑を浮かべた。 『……そうですね……。誰かに対する信用と、誰かに対する心配は違いますね……』 白い指が伸びてきて、あたしの眉間をチョンとつついた。 『大丈夫ですよ、お嬢さん。あの子の体の方は、ほぼ完全に直しています。今はただ、深く眠っているだけです。……疲れがたまっていたんですよ。今まで気力でもっていたようなものですから』 (……気力で) あたしは涙を零しながら、水の中でぼやけるその美貌を見つめた。 とても暖かい微笑を浮かべているそのヒトを。 『あの子はね……自分ではわからないんです。自分の体の限界なんてものに、全然頓着しない子ですから。無理をして無理をして無理をして、倒れるまで無理をしても、まだ進もうとする子なんです。……生きることに意味も無くて、興味も無くて、ただ生きているから生きている……そんな子供でしたから』 (…………) 『あなたと会って、あの子は変わりました。……けれど少し、時期が悪かった。あなたはボロボロで、あなたを助けたあの子もボロボロになって……けれど忙しくて休めなかった。心も体も、ずっとボロボロだった』 あたしは唇を引き結んだ。 黒いヒトはただ微笑む。 『あなたのせいだけではありません。あなただけが悪いのではないのです。……あの子は自分で自分を休ませられなかった。それはあの子自身の罪です。あの子は沢山の仕事を持っていた……それは、あの子に頼らざるをえなかった者達の罪です。忙しいあの子が休めないほど、逼迫した状況を作り出した……それは私の御主人様の罪です』 少しずつ悪いことが重なって、レメクの体はまいってしまった。 気力だけでボロボロの体を動かして……あの日の夜に倒れたのだ。 『……悪いことばかりでは無かったはずです。あの子にとって、夜会に出席することは面倒で疲れることではあったでしょう。けれど今回は貴女がいた。貴女がいて、他の人達も貴女達のためにいろいろと手を打ってくれていた。昔の夜会などより、きっと気持ちも体も楽だったことでしょう。……運命の人の (運命……?) あたしは首を傾げる。 そんな出来事、あっただろうか? 『私は至近距離でその様子を見ましたよ』 くすくすと笑う声はどこか暖かく、影絵の世界を穏やかに彩ってゆく。 『人はね、必死にならざるを得ない時は、意外と踏ん張れるものなんです。けれど安心した時、それが一気に押し寄せてくる。……貴女が無事に夜会を乗り切って……あの子はとても、安心したのですよ。ずっと不安で、気に病んでいて……それがようやく、ホッと肩の荷を降ろすことができたんです』 そうして、意識の外へ追いやっていた疲労が襲いかかってきた。 極限まで酷使した体に、重なり続けた疲労は、下手をすれば死に至るほどのダメージだったのだ。 『それのみならず、あの子は心にダメージを受けていましたからね』 (……ダメージ……) あたしはその言葉を繰り返す。 レメクは心に、何か傷を負っていたのだろうか。 それが何なのか、あたしにはわからない。あんなに傍にいたのに、これっぽっちもわからない。 『泣く必要はありません。それはあの子の杞憂ですから。……けれど、あんな風に倒れてしまうほど……尽きた体力を奮い立たせる力を奪うほど、【そのこと】はあの子にとって、とても深刻で辛いことだったのです。……自覚のないままに』 溢れた涙で前が見えないあたしの頭に、黒いヒトはそっと掌を乗せてくれた。 不思議なことに、その掌の感触はわかった。 『簡単なことだったんです。それはあまりにも単純で、あまりにも幼すぎて……それゆえに、誰もそれが原因だとは気づかない。……離れたくないのなら、そう言えばいい。失いたくないのなら、そう言えばいい。……けれど今まで【望み】を持たなかったあの子は、それを口にして言うことができない。望まぬものを覆すために、何をすればいいか……わかっているのに、その行動をとることができない。一言、そうと言えばいいだけなのに』 ポテトさんの気持ちが伝わってくる。 それはとても暖かいもので満ちていた。少しせつないぐらいに、慈愛にも似て深く深く、愛情。 血の繋がりはないけれど、育て親を違う人に任せていたけれど、紛れもなく、このヒトはレメクのお父さんなのだ。 『変化とは、往々にして大変な力を当人に強いるものです。急激な変化であれば尚のこと。……けれどあの子はその力が足りなかった。体力も尽きていた。肉体の限界と精神的な衝撃。対応できぬ変化。……人が倒れるのに十分な状況です。無理をしすぎるあの子なら、なおのことでしょう』 (……レメク……) 伝わってくる感情が、冷えきったあたしまでも優しく暖めてくれる。 その温もりを感じながら、あたしは新たな涙を零した。 レメクに離れたくないと思う相手がいたことはショックだった。 それが辛くて倒れてしまったのだと聞くと、尚のことショックだった。 あたしが迷惑をかけている間にも、彼はそんな大変な目にあっていたのだ。そんなことにすら、あたしは気づけなかったのだ……! 『……なにかオカシナ誤解が発生してませんか……?』 ポテトさんが微妙に眉をひそめている。 あたしは顔をぐしゃぐしゃにして黒いヒトを見上げる。手が、体が、無意識に扉へと向かう。 (……おじ様……おじ様) よろめくように近づいて、ポテトさんの横の扉を爪で引っ掻く。 気づけなくて、ごめんなさい。 わからなくて、ごめんなさい。 あたしすごく迷惑だったのね。 あたしのせいでぼろぼろになって、そのせいで辛い時を乗り越えられなかっただなんて……なんて謝ったらいいんだろう? (……おじ様……) あたしで出来ることならなんだってやるから。 あたしで払える対価なら、いくらだって払ってみせるから…… だから、だからおじ様…… もう大丈夫ですよ、って言って。 頭を撫でて。 それが贅沢なら、せめて一言だけでもいい…… (声を) 声を── 聞かせて……! 『呼び続けるつもりですか? 目覚めないあの子を……』 静かに問われて、あたしは反射的に頷いた。どうしようもなく溢れた涙が、黒と灰色を混ぜてゆく。 そんな世界の中で淡く微笑んで、そのヒトはあたしに囁いた。 『ならば、あの子の名前を呼んであげてください。私のものでもある名前を。……あなたが呼ぶその名前だけは、【私】をいっさい含まない。だからこそ、あなたの声だけは、あの子に直接届くでしょう』 (……おじ様……) カリカリ引っ掻きながら、あたしはレメクの顔を思い浮かべた。 人を寄せ付けない怜悧な美貌に、とても暖かいものを秘めた優しい瞳。 綺麗な綺麗な赤みがかった紫。 (……レメク) 心が震える。大事な大事な、魔法の呪文。 唱えるだけで幸せになって、せつなくなって、嬉しくなって、暖かくなる最高の呪文。 (レメク) 世界が震える。あたしの世界が。 だって、それはそうだろう。そのたった三文字の言葉こそが、あたしの全てなのだから。 (レメク!) けれど、『世界』はあたしの世界だけでできているわけじゃない。 名前を呼んでも黒い世界には何の変化もなかったし、何かの奇跡が起きたわけでもない。 それでもあたしは呼び続ける。 今すぐに届かなくても、いつか届くと信じながら……! 黒いヒトが白い手を伸ばして、そんなあたしを抱き上げた。 『……届いていますよ、あなたの声は。あなたとあの子は繋がっています。どこにいても……こんな場所にこんな風に来なくても、あなたの呼び声は必ずあの子に届きます。だから……あなたはそろそろ、あるべき場所に帰りなさい。戻れなくなる前に』 (レメク……レメク……) 扉へと手を伸ばしているあたしに、黒いヒトはただ苦笑する。 『あの子の贈り物を思い出しなさい。あの子の母親の形見を』 形見。 ドクンと、あたしの胸が一つ、大きく脈打った。 誕生日を祝ってくれたレメク。たった一つしかない、お母さんの形見を贈ってくれたレメク。 あの大切な皮袋を、あたしは今、どこに持っている……? 『血族の直系にだけ継承される物……古の一族には、そんな品があるのだそうです。そういった品には、古い古い魔法がかかっているのですよ』 あたしは胸の痛みに顔を歪めた。 親から子へと受け継がれるもの。……知っている。あたしのお母さんの腕輪が、そうだった。 先祖代々受け継がれるものには、特別な意味や願いが込められている。愛情、祝福、恵み、祈り…… あたしの腕輪は無くなってしまったけれど……けれどそのかわりに、無二の物をあたしは贈られていたのだ。 レメクが受け継いだ、彼の一族の継承の品を。 『あの子の母親の形見も、あなたが受け継ぐはずだったものと同じです。形は違えど、同じ【受け継がれる物】。古い品にかかる魔法は強力です。……あの形見に語りかけなさい、星の子よ。必ずあの子に届きますから』 あたしはゆるゆると手を伸ばして、無意識に自分の首から提げている革袋を掴んだ。 ……在った。ここに、在ったのだ。 今の今まで、そんなものが在ったことすら忘れていた。レメクから渡された、大事な大事な形見だというのに。 (…… ……) あたしの中で、何かがストンと落ち着いた。 『自分を見失ってはいけませんよ。あなたが自分を見失えば、あの子も還る場所を失ってしまいます。……ちゃんと目を開けて、周りを見なさい。そして、たとえあの子が今、傍にいなくても、きちんと立って前を向きなさい。……あの子に恥じない自分になりたいのなら』 その言葉は、魔法のようにあたしの中に染みこんだ。 二度ほど瞬きをしたあたしに、ポテトさんはふわりと微笑む。 『忘れてはいけませんよ、お嬢さん。強い思いだけが天を動かすのです。死んだような心では、あなたの思いは届きません』 その微笑みが淡くぼやける。 あたしは大きな涙を一粒落とし、そうして、力一杯それを拭った。 黒い世界がぐにゃりと歪む。 強い力で引っ張られる感覚に、あたしは抗わず従った。 (あたし……あたしは……) 遠ざかるそのヒトと屋敷。 そこにいる大事な人と、優しいヒトに、あたしは心の奥底から声を振り絞る。 (───────!!) それはきっと、言葉では無かった。 もしかしたら声という形ですら、なかったのかもしれない。 けれどポテトさんには届いたようだし……きっと、レメクにも届いただろう。 優しい黒いヒトからは、笑い含みの『声』がかえったのだから。 待っていますよ、と。 ※ ※ ※ ポカッ、と。 まるで世界に放り出されるような感じで、あたしは目を覚ました。 世界はまだ灰色で、精緻な模様の入った美しい(のだと思う)部屋も、白黒灰の濃淡で出来ている。 あたしは大きく瞬きをし、その拍子に目から零れた涙を感じた。 (…………) あたしは自分の顔に手を触れる。掌にはちゃんと頬の感触がした。 無意識に左手が胸元を探り、小さな革袋を握りしめる。 なぜだか懐かしく思える革袋の感触。中にある、円に似た不思議な形の『何か』。 「…… ……」 あたしは唇を開いた。 声は出ず、変な呼吸音がヒュー、コー、と虚しく響く。 (……レメク) 革袋を握りしめて、あたしは涙を拭った。 世界が灰色でも、声が出なくても、 レメクが傍に、いなくても…… (……レメクに) あの人に恥じない自分に。 ただそれだけで、体の中に何かが染み渡る。それが何なのか、あたしにはよくわからない。 けれどとても強くて、きっととても大切なものなのだ。 「……!」 パチンと頬を叩いてあたしは立ち上がった。 妙に体がふらふらするが、根性を出せばそんなの平気だ。お腹がグーとか叫びだしたが、食欲があるのはいいことじゃないか。 あたしはヘロヘロとベットの上を歩き、綺麗なレースの帳を開いて床に降りた。 (……にょ!?) もひょっ、と足の裏を包み込む、ものすごい贅沢な感触。レメクの寝室の絨毯と同じぐらい豪華な感触に棒立ちになっていると、コンコンコン、と控えめなノックの音が聞こえた。 「…… ……」 とっさにハイと答え、声が出なかったことを思い出す。 けれど、返事が無くてもその扉は開いた。 「……失礼いたします、姫様」 どこかしょんぼりとした声で入ってきたのは、どこかで見た年配のおばちゃんだった。 どこか……どこかで…… (……ああ!) ピンときた。 確か、殿下方……王女様達の乳母だったという人だ! 「ご朝食を……」 悄然と部屋に入ってきたその人は、あたしを目にとめて棒立ちになる。 後ろからワゴンを押しながらやって来たメイドさん達も、同じように目を見開いて立ちつくした。 ……何故? 「……姫様……姫様!!」 おばちゃまが悲鳴に似た声を上げ、大急ぎであたしの元に駆けつけてきた。その目にはいっぱいの涙が溢れている! 「ああ……姫様! 姫様……よく……よく、お戻りに……!!」 ……お戻りに?? あたしは首を傾げる。 (あたし、どこかにイッテタの?) 首を傾げるあたしのお腹から、ぐー、と悲しげな悲鳴が放たれる。 あたしのちっちゃな手を握りしめたおばちゃまは、あたしのお腹を見て、涙をこぼしながら大きく破顔した。 「ええ……ええ! 食欲もおありのようで……!」 ええ……ありますとも。なんか自覚したら、ものすごーくお腹がすいているのです。 何故? 夜会であれだけいっぱい食べたのに、やっぱりあたしのお腹はオカシイのかもしれない。 お腹を両手でギューと押さえるあたしに、おばちゃまは上品に涙を拭きながらすっくと立ち上がった。 「陛下と料理長に連絡を。姫様は三日ぶりにお目覚めになられたと──お急ぎなさい!」 おばちゃまの声に、呆然と立っていたメイドが二名、大慌てで走り去る。 あたしはぼんやりとそれを見送り、ピンと背筋を伸ばして立っているおばちゃまを見上げた。 (……三日ぶり……?) お目覚めになった? (……まさか……) まさか、あたし、三日間、眠りっぱなしだったトカ……!? 「姫様。……ああ、姫様……本当に、よくお目覚めくださいました。私は、よもやこのまま、あなた様を失ってしまうのかと……!」 呆然と立っているあたしの前に膝をつき、おばちゃまはまたさめざめと涙を零す。 確か女官長だとかいう偉い人だったはずなのだが、この尋常でなく親身な態度は、いったいどういうことだろうか? 「先程、陛下がお知らせくださいました。ロードが言うところによれば、レ……いえ、クラウドール様のお体は、近日中に癒えるとのことでございます。わたくしはそれをお知らせしようと……思っておりましたのに……ああ、これも、きっと神様の思し召しなのでございますね。きっと姫様には、レンド……いえ、クラウドール様のことがおわかりだったのですね。いえ、きっときっと、あの方が、姫様を目覚めさせてくださったのでしょうね」 感激の涙を零すおばちゃまに、あたしは眉を垂れさせた。 違うのだ。あたしが起きれたのは、レメクというより、ポテトさんのおかげなのだ。 ……いや、でも、レメクに恥じないために、っていう気持ちで起きたのなら、それは確かにレメクのおかげということに…… なるのかな? ……うぬぬ? 首を傾げるあたしにかまわず、おばちゃまは感激の涙を零し続ける。 「でも、ようございました。あの方の大事な姫様に万一があっては、わたくしはもう二度と太陽を拝めません」 (……そんな、大げさな……) あたしは困ってしまって、涙を零すおばちゃまの涙をちっこい手で拭いてあげた。おばちゃまはビックリした顔になって、それからいっそう顔をくしゃくしゃにする。 「……姫様……!」 あああ何故ですか何故もっと泣いちゃうんですかー……! わからなくて、どうしていいのかもサッパリで、あたしはおばちゃまの体をギュッと抱きしめた。 あたしが泣いている時に、レメクがいつもそうやって抱きしめてくれたように。 おばちゃまは嗚咽をこぼしながら、あたしを優しく抱きしめ返してくれる。その体はとても温かくて柔らかく、おかあさんのようないい匂いがした。 (……暖かい) 何故だろう。その温もりがとても懐かしい。 きっと今まで、そんなことすらわからなくなっていたからだろう。 あたしの世界はレメクが全てだけれど、あたしの世界はそれ以外のもあちこちに繋がっていたのだ。その中ではおばちゃまのように、泣いてくれるほど心配してくれる人が存在したのだ。 ──ちゃんと目を開けて、周りを見なさい。 ポテトさんの声を思い出す。 (……うん。お義父さま) あたし、これからは周りをちゃんと見るね。 世界はあたしとレメクだけで成っているわけじゃない。沢山の人がそこにいて、確実にその人達とあたし達は繋がっているのだ。 自分を見失っていても、何もならない。 心が死んでいては、心の声はレメクに届かない。 灰色の世界は変わらないし、声自体もまだ出ないけど……未だ辛い現実がここにあっても、自分の中に逃げ込んじゃいけないのだ。 あたしの手は、未だずっとレメクを捜して彷徨っているけれど…… 「…… ……」 あたしはおばちゃまに声をかけようとし、やっぱり出ない声にしょんぼりと肩を落とし、かわりにぽんぽんとおばちゃまの肩を叩いてあげた。 おばちゃまは顔を上げ、涙を拭きながらニッコリと微笑む。 「ええ、姫様。……ありがとうございます。……申し訳ありません。見苦しい姿をお見せいたしました」 あたしは首を横に振った。 そんなあたしに優しく微笑んで、おばちゃまはすっくと立ち上がる。ピンと伸びた背筋には、風格と威厳が備わっていた。 「では、姫様、朝の準備にとりかからせていただきます。……さぁ、こちらへどうぞ」 夜会で見た貴婦人に負けず劣らず優雅な仕草で、おばちゃまはあたしに手を差し伸べる。 あたしは背筋を伸ばした。 ちっぽけなあたしの、精一杯の背伸び。 王宮なんていうとんでもない場所で、そんなものが役に立つのかどうかはわからない。 けれどそれをがんばれなくて、どうするのだろうか。 (……レメクに恥じないように) あたしは胸で揺れる革袋を握りしめる。 そうして、レメクが傍にいない日々の、第一歩を踏み出した。 |
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