番外編 【幸せの形】

「幸せの形とは、どういうものだと思います?」
 口元に淡い笑みを浮かべて、目の前の男はそう問いかけてきた。
 王都北区、クラウドール邸。
 その敷地内の一角に、彼等のいる四阿は在った。
 街屋敷タウンハウスとしては破格の敷地を誇るクラウドール邸は、同じ北区の屋敷と違い、造園技術を駆使した庭は有していない。植わっているのはもっぱら太く立派な樫の木で、開国時からそこに在るそれらの木々は、今では小さな森のようになっている。二人が居る四阿の傍らにも一本の樫の木がそびえ立ち、その立ち姿はまるで小さな四阿を守るかのようだった。
 男の問いに、レメクは嘆息をついて顔を上げる。
 テーブルの向こうにいる男は、ただ微笑んでいた。
 恐ろしいほど顔形の整った男だった。
 微笑一つで国を滅ぼしたとされる伝説の美姫ですら、この男の美貌には遠く及ばないだろう。その気になれば国どころか大陸一つ思うままに操れる男は、今はただ穏やかに微笑んでこちらを見ている。
 その微笑みすら魂を奪われそうなほど美しかったが、レメクはこれと言って特別な感銘は受けなかった。
 ただ深くため息をつく。
「……そんなことを聞かれても、困ります」
 実際、彼はとても困っていた。
 目の前にいる男がどういう意味でそれを問うているのか……『分かる』からこそ、この上なく困っていた。
 なぜなら幸せの形など、彼には検討がつかなかったのだ。
 幸せというものすら、彼には分からないのだから。
「そうでしょうか? 今のあなたには、分かっていると思いますが」
 どこか楽しげに笑って、男はテーブルに置かれたままだった紅茶を一口、口に含む。
 香気を味わいながら飲み干して、揶揄するような目をこちらへと向けてきた。
「それは人によって、あまりにも形の違うものです。今、目の前にあるあの木々の影が一瞬として同じではないように、木漏れ日の形が常に異なっているように……それこそ無限の形があることでしょう」
「…………」
「生きること、豊かな暮らしをすること、飢えないこと、寒くないこと、悲しくないこと、辛くないこと、苦しくないこと……声に出してみると、ごくごく当たり前のようなことのようにも思えるこれらを『至上』とする人もいるでしょう。そして、それらが当たり前のように与えられている人と、そうでない人がいます」
 レメクは何も言わない。
 それに薄く笑って、男は言葉を続けた。
「あなたはこれらの全てを持っている。……けれど、あなたの幸せはその中には無かった」
 レメクはため息をついた。
 少しだけ胸が痛んだのは、ある少女を思い出したせいだ。
 自分がもつそれらを与えられることなく、小さな体で賢明に生きてきた少女。小さく稚く、けれどどこかひたむきな強さをもつ少女。
(……ベル)
 その名前を思い浮かべれば、少女の輝くような笑みが脳裏に浮かんだ。
 不思議だと思う。まだ出会って一月ほどしか経っていないのに、彼女がいない日を想像することができない。
 あんなに小さな体なのに、なんという存在感だろうか。
(……ベル。私は、贅沢な人間なのですね……)
 未だ痩せっぽちの彼女を思い出す。
 彼女の今までの不幸を思えば、自分がひどく強欲な人間に思えた。
 彼女が与えられなかったあらゆる『幸せ』を持っているくせに、それらすら『幸せ』としてとらえることのできない自分は、なんという傲慢な人間だろうか。
 けれど……どうしてもわからないのだ。
 幸せというのが、本当に、どういうものなのか。
 どうして分からないのかすら……わからないのだ。
「……私は、どこか、おかしいのかもしれませんね」
 レメクは力無く微笑んだ。
 いつからか、などということは考えるだけ無駄だ。初めからそうだった。
 幸せだと実感したことなど無かった。
 金銭や身分といった形でなら、恵まれていると言っていいだろう。
 だがそれは、幸せと感じられるようなものでは無かった。
 生きていることに感謝するほどの、絶対的な幸福では無かった。
 何故だろうか? 自分はこんなに、他人から見て『恵まれている』立場にあったというのに。
 手に入れようと思わないままに、沢山のものが手に入ってしまっていたというのに。
 何故こんなに、いつも虚しいのだろうか。
「……別に、おかしくはありませんよ」
 どこか困ったように微笑んで、目の前の男は軽く首を傾げた。
「人は誰も彼も、同じものを共有しているわけではありません。あなたは、人が持っていないものは沢山持っていました。ですが……人が持っているものは、持つことができなかった」
 風にそっと溶かすように声を零して、男はほろりと笑う。
「それは多分に、私のせいなのでしょうね。私さえいなければ、あなたはもっと幸せになったはずでした」
「いいえ。それは違います」
 珍しく自嘲めいたことを言い出した男に、レメクはハッキリと否定を口にした。
「あなたがいなければ、私はとうに死んでいました。おそらく、無事に生まれることすらなかったでしょう。……あなたがいたからこそ、私は今こうしてここにいられるんです」
 お義父さん、と、そうレメクは相手を呼んだ。
 途方もないほど年の離れている名付け親は、その言葉に淡く笑う。
「あなたはあまりにも公正すぎ、あまりにも優しすぎ、あまりにも賢すぎた……それはあなたにとって、不幸だったのでしょうね」
 レメクは沈黙した。
 そんなことを自覚したことは無かったし、言われることも稀だった。そのため、どういう反応をしていいのかわからない。
 だから、その話題を避けるようにして言った。
「……『私』は生まれた時からこうでした。あの両親の元に生まれたのなら、それは必定というべきでしょう」
 相手はただ、なんとも言えない微苦笑を浮かべる。
「……過ぎた力やお金は、不幸になるだけですからね」
 レメクは目を伏せる。
 望んでそう生まれたわけでは無かったが、自分の意志など関係なく、生まれる前から立場も運命も決められていた。
 あらゆるものに縛られて、生きることすら、ただ『義務』だった。
 ……そんな男が、何故、幸せなど理解できるだろうか。
 生きていることに意味一つ見いだせないというのに。
 幸せだと……感じたことすら、一度も無かったのに。
「けれどね、レンさん。私は、今だからこそ思うんですよ。もう大丈夫だと」
「……?」
 ふと笑みを零した名付け親に、レメクは首を傾げる。
 深い叡智を湛えた人外の瞳を和ませ、男は笑みを深めた。
「幸せの形など、本当は誰も知らないのです。目に見ることも、手で触れることもできないものですから。……ただ、そこにあると感じることはできる。それはね、きっと何かの温もりや、安らぎや、暖かく愛おしいものに満ちているのでしょう。それを感じた時に、人は幸せだと思うのだと……私はそう思っています」
 すでに人であった時代のことなど、忘れ果ててしまっても。
 それほどに遠い昔になってしまっても。
 それでも理解できるのは、自分が本当に『幸せ』だと思える瞬間をもっているから。
 そして、だからこそわかるのだ。
 目の前にいる、唯一人、自分が『主』以外に愛した愛し子の変化が。
「あなたはもう知っているはずですよ、レンさん。まだ気づけませんか? あなたはようやく、ずっと探していたものに……ずっとずっと欲しがっていたものに、出会うことができたんですよ」
 微笑みはただ優しく、どこまでも深く暖かい。
 男は告げる。
 自分の名を分け与えた、名付け子を祝福するように。
「あなたの『幸せの形』は、もう、あなたの傍らに在るのですから」

 1 日常の中で

 小さな鳥の囀りに、レメクはうっすらと目を開けた。
 三月初頭。
 早朝の空気は冷たく、朝の光はまだ淡い。
 それでも一月前に比べれば、寒さは格段に弱まっていた。
 街路樹には気の早い野花が蕾をつけ、まだかまだかと春の訪れを待っている。木々の枝には硬い芽が目立ちはじめ、春の準備をはじめていた。
 レメクは軽く上体を起こす。
 途端、肩あたりに張り付いていたパンツがころりと転がった。
 反射的にそれを見る。
 パンツからは小さくて短い足がちょろりと出ていた。
 レメクは驚かない。いかにも予想通りと言いたげな顔で、目の前のパンツを無造作に隠してやった。慣れている。
「……ベル」
 レメクは相手の名前を呼ぶ。そこに転がっているのは、小さくて可愛らしい少女だった。
 少女とは言っても、実際の年より幼く見えるため、パッと見には五歳ぐらいの幼女にしか見えない。けれど実年齢は八歳であり、来月には九歳になる少女だった。
 そして頭の痛いことに、目下唯一人の同居人であり、一族の掟に従えば十年後に妻に迎えなくてはならない相手だった。
 最近になってようやく体に丸みを帯び、秀でた顔立ちが目立ちはじめてきた少女を見下ろして、レメクは盛大にため息をついた。
 寝入っている少女の顔は、どこか悲しげに曇っている。おそらく、張り付いていた温もりが無くなって寒いのだろう。小さくて短い手足をまごまごと動かして、温もりを探そうとしていた。
 その様子は非常に可愛らしい。だが、レメクはほだされそうな自分の心を戒めた。
 慎重に相手との距離をとり、用心深く少女の体を布団の中に押し込める。無造作に手を伸ばすとタコのようにからみつかれるため、枕を使って中に押し込めた。
 ……自分も布団に入ったままだったのを忘れていたため、すぐさま胴体にからみつかれたが。
(……嗚呼)
 レメクは遠くへと視線を馳せる。
 脇腹あたりにフンフンと息らしきものがかかっていた。どうやらまた匂いを嗅がれているようだ。
(……私はそんなに、何か匂うんですかね……)
 たまに囓られることから考えて、どうも食べ物と間違われているようだ。何度しっかり体を洗っても無駄なため、最近ではもう諦めていた。
「…… …… ……」
 布団の中から小さな声が聞こえる。
 小さすぎて聞こえないが、何か寝言を言っているようだ。
 興味を惹かれて布団をめくると、うふふふふ、という笑い声が。
「……太腿胸胸脇腹ヒップ……」
「…………」
 レメクはそっと布団を元に戻した。
 そうして、死にものぐるいで脱出した。

 ※ ※ ※

 太陽は未だ水平線の彼方にその身を沈め、朝靄に包まれた街並みを朱金の帯のように煌めかせている。
 ようやく太陽が姿を見せ始めた頃とあって、周囲は黄昏の時と似た色に沈んでいた。
 空は眠りの蒼から覚醒の金。ややも赤い色の混じった朱金は、落日時の赤にどこか似ている。違うのは沈んで行くのでは無く昇って行く点と、その身の放つ光の強さだろうか。沈む太陽は深く鈍い光を放つが、昇る太陽は激しく強い光を放つ。
 そんな光に照らされた王都は、どこか幻想的なまでに美しかった。
 建国以来一度も戦禍を被ったことのない街並みは、古き時代の名残と、新しい時代の技術を随所に散りばめている。
 かつて「大陸で最も美しい」と言われた王城など、朝陽に照らされて黄金の城のように煌めいていた。それが下品に見えないのは、おそらく当時の建築技術が優れていたからだろう。あくまで気品と優雅さを失わない城は、王都の住民の誇りだった。
 先触れのように空を照らしていた水平線の輝きが、突然強い一条の光を放った。
 夜明けである。
 一生懸命小走りに歩きながら、ベルは大きな目をしょぼしょぼさせた。眠さを堪えて歩いている所に強い光をくらい、一瞬視力がおかしくなったのだ。
 手を伸ばして目的の布を掴むと、少しだけ安心する。
「ベル。無理について来なくてもいいのですよ?」
 その様子に、隣を歩いていたレメクは声をかけた。
 ベルの朝は本来早い。
 孤児院時代には朝早くから夜遅くまでこきつかわれていたらしく、朝陽が昇るのと同時に起き出し、仕事は無いかと毎日のように目で訴えていた。
 もうそんなことをしなくても良いのだと、納得するまでに一体何日かかっただろうか。最近になってようやく朝寝坊(といっても、それでも一般の人々よりは早いが)するようになった所に、今日の早起きである。眠さを堪えて一生懸命ついてくる姿は可愛らしいが、それ以上に何やら可哀想で仕方がなかった。
 彼女が起きる原因となった自分の布団大脱走を思い出しながら、レメクはふらふら揺れる少女の頭に手を伸ばす。傾きかけた帽子を直してやろうと思ったのだが、追いはらわれるとでも勘違いしたのか、少女が慌てて反対側へと逃げていった。
「…………」
 レメクは苦笑混じりに嘆息をついた。
 海から遠い北区の大通りにも、うっすらと朝霧が立ちこめていた。北区にも大きな上水路が川のように流れており、そこから霧が街へと忍び寄るのだ。この霧もクラウドール家の本邸にまでは入って来れないが、本邸に至るまでの木々の間には漂っている。
 しっとりとした空気は喉に優しく、乾燥しがちな冬の空気もこの時刻だけは潤っている。けれどその恩寵を、北区の人々はあまり知らないだろうと思われた。
 霧に覆われた北区の街並みは、まだ深い眠りに包まれている。
 貴族達が暮らす北区の目覚めは遅く、住民の大抵は昼頃に起き出す。毎日のように社交場に繰り出す彼等にとって、朝とは日の出では無く、正午頃を指す言葉だった。
 結果、馬車二台が並んで通れそうな大通りには人気が無く、コツコツ、チコチコチコと響く足音は二人分しか聞こえてこない。
 誰も見ていないのをしょぼしょぼと確かめて、ベルは大きく口を開けた。
「……ぁ〜ふぁあふ」
 大きな欠伸だった。目尻に涙が浮いている。よほど寝たりないのか、手探りで近くにある服の裾を握りしめ、もう一度欠伸をこぼすほどだ。
 しかし、それでも家に引き返さない。
「……おじしゃま」
「なんです?」
 簡素な服に黒い外套を羽織った姿で、レメクは足下でフラフラしている少女を見下ろした。
 若草色のワンピースに深緑の外套を羽織ったベルは、相変わらず目をしょぼつかせながら問いかける。
「これから、どこに行くにょ?」
 眠さで語尾がおかしくなっている。
 その様子に苦笑しながら、レメクは(ようやく聞いてきましたね)と可笑しな気分になった。出かける自分に一生懸命「ついていく!」とついて来たのはいいが、行き先を尋ねるほどには頭は起きていなかったようだ。
「朝市ですよ」
「朝市?」
「ええ。行ったことはありませんか?」
「…………」
 ベルの視線がわずかに逸れた。
 なにやらよくないことでも思い出したのか、うろうろと目が彷徨っている。
 思わず止まってしまった歩みに、レメクも足を止めて答えを待った。
「昔、手伝ったことあるの……かき入れ時とかに」
「そうですか」
「それと……」
 ベルは口をきゅっと引き締める。
 幾分か迷ってから、彼女は小さく呟いた。
「……お腹空いた時に……」
 レメクは何も言わなかった。
 その一言だけで何をしたのかを理解した。
 彼女がいた孤児院は、子供に決して優しくなかった。それどころか、最悪の環境だったと言えるだろう。その実情を知れば、頭ごなしには怒れない。レメクは自身の方針を少しだけ曲げて、敢えて内容を追求しなかった。
 けれど少女は自ら自身の罪を告白する。
「……並べられてた商品を……盗んで食べたの」
 レメクの口から、思わず深いため息が零れた。
 泥棒は悪いことだ。それはもう、間違いない。
 だが彼女等の場合、生死の危険があったこともまた間違いない。
 食べなければ死んでいる。それほどの極限状態だったのだ。
「……ベル」
 服の裾をもつ小さな手を軽くつついて、レメクはその手と手を繋ぐ。あまりの身長差に少女はほとんど万歳をするような状態だったが、握り返す力は強かった。
「店は覚えていますか?」
 小さな少女は、俯いたままこっくりと頷く。
「……うん」
「では、謝りに行きましょう。代金は私が払います」
「!」
 告げた言葉に、ベルはビクッと体を強ばらせた。
 レメクは真っ直ぐな眼差しを少女へと向ける。
 その口元には、穏やかな微笑が浮かんでいた。
「ベル。悪いことをしたと思っているのなら、それをきちんと正さなくてはいけません。確かに、当時はそんなことを考える余裕も無かったでしょう。ですが、今は違いますね?」
「……う……うん」
「後悔していますか?」
「……うん」
 小さな少女は唇をきゅっと噛む。
 真っ直ぐにこちらを見返す目は強く、そして綺麗に澄んでいた。
「言い訳だけど……あの時は、もう、それしか方法が無いような気がしたの。お腹空いてて、なんだかだんだん体も冷たくなってく気がして……動けるうちに、何か食べなきゃ、って……」
 ベルは俯き、小声で自分の知るその店の名前を告げる。
 レメクは頷いた。その店は彼も知っていた。
「美味しそうな肉がね……置いてあったの。生肉は食べられないから、乾燥肉のほうを盗っていったの」
 生肉が食べられない、というのは、火を熾す術が無いからだ。
 小さな子供達では火を熾すことは難しく、その火で肉を焼くことはもっと難しい。
 おそらく、焼いたところで誰かに奪われるのがオチだろう。孤児達は弱い。その中でも、体の小さな彼女たちは、最も弱い人間なのだ。
(……ベル)
 その頭を軽く撫でてやって、レメクは彼女の手を引いて歩き出した。
 話を聞く度に思う。よくぞ生き延びてくれた、と。
 そして感じずにはいられなかった。この国に今も色濃く残る、差別と大きな貧富の差を。
 現国王アリステラは、それを無くすために常に苦心していた。彼女の在位は二十年を超えるが、そのほとんどの時間が前王の尻ぬぐいに費やされている。
 とはいえ、前王は悪王と呼ばれるほどに残虐非道だったわけでは無かった。だが、国を滅びかねないほどに傾けた意味では、れっきとした悪王だろう。
 彼は国を統治することに関心を持たなかった。
 彼の関心は、もっぱら狩りと後宮の美しい美女達に向けられ、その足が政治の場に向くことは一度も無かったのだ。
 諸官諸侯と会うのは華やかな宴の時に限られ、玉座の間は常に主不在のまま、賢明に国を支えようとする官吏達の情報交換場となっていた。
 それでも国が滅びなかったのは、ひとえに当時の王宮を仕切っていた大貴族達のおかげだろう。
 そうでなければ、ただでさえきな臭かった当時のことだ、あっという間に周辺諸国に滅ぼされていたに違いない。
 だが、王宮の歪みや腐敗は止めようが無かった。
 頂点に立つ王がそもそも腐っているのだ。下にいる者がそれに感化されないはずがない。横領や賄賂が増えはじめ、下級貴族達があの手この手で王に取り入ってのし上がろうと画策する。
 そして彼等のほとんどが、真っ当な国政など欠片も考えていない輩だった。
 美しく充実した狩り場を提供する者は褒美を与えられ、美しい女性を献上した者は高官に抜擢された。まつりごとは歪み、上の腐敗は下へと伝播し、人々の暮らしは徐々に悪くなっていった。
 少女が暮らしていた孤児院も、その時によからぬ商人の手に落ちていた。
 調べでわかったことだが、恐るべきことに、エットーレは生粋のナスティア人では無く、隣国の商人だったのだ。没落したブリル家の令嬢と結婚して戸籍を得た後、教会に多額の賄賂を渡して孤児院の院長に収まっている。
 彼は商いで何でも扱った。そしてその中には、幼い子供も含まれていたのである。
 また、見過ごせない商品として『火薬』があった。
 火薬は、国外への持ち出しを禁じられている第一級の危険物だ。工事現場に使う以外の用途では使用を認められてはおらず、いかなる理由であれ、それを国外に持ち出せば大罪として裁かれる。
 それは大陸のどの国でも同じだったが、昨今では少し状況が違っていた。
 現在、ナスティア王国の周辺はどこもかしこも不穏だった。内乱に旱魃かんばつ、戦争、異形の跋扈ばっこなど、その内容も多岐にわたっている。
 そして、その中に火薬を戦争で使ったとされる国が挙げられていた。今はまだ噂の域であり、確証はとれていないが、信憑性はあるという。
 十三年かけて諸国を巡ってきた名付親ポテトの報告に、王宮の首脳陣は頭を抱えてしまった。先代が腐らせた内側の膿を必死に出している最中に、外側が一気にきな臭くなっているのだ。落ち着いていられるはずもない。
(……戦に……なりますか)
 レメクは陰鬱な気分で傍らの少女を見下ろした。
 戦になれば国は荒れる。れた国の民もまたすさむ。
 荒みは貧困を招き、貧しさは容易に人を歪めてしまう。
 貧しさのあまり盗みを働いた少女は、貧困から脱出した今、人として持つべき倫理と道徳によって、かつての所行を恥じていた。だが、国が荒れれば、彼女と同じ過ちをする者がでるだろう。
 戦争になれば、どうなるのか。それを思うだけで陰鬱な気分になった。
 人が死ぬ。命が消える。国は乱れ、誰もが辛酸を浴びることになる。
 すぐ傍らを歩く少女だって、どうなるかわからない。
 やっと……本当にやっと、元気になってきたというのに。
「……おじ様?」
 陰鬱な思考に沈んでいたレメクは、おずおずとかけられた声に我に返った。傍らを半ば飛ぶように歩いている少女が、精一杯の背伸びでこちらを見上げている。
「怒ったの……?」
 わずかに怯え混じりの問いに、レメクは軽く目を瞠り、ややあって首を横に振った。
「いえ。少し考え事をしていただけです」
 まだ不安そうな顔をしている少女に、レメクは眉を下げる。
「あなたのことを怒ったのではありません。……ただ、とても難しいと思いまして」
「難しい……?」
 飛びながら首を傾げる少女をひょいと抱き上げて、レメクは小さなその体を片腕に乗せる。嬉しげな声を上げる子供の体は、実際の年よりもずっと幼く小さく、そして軽かった。
「どれほど政を良くしようとしても、なかなか上手くいきません。この街一つですら、片隅に未だ救いきれない人々を抱えています。国が落ち着き、それが長く続けば端々まで手を伸ばせられるのでしょうが……」
「? 『落ち着く』って?」
 きょとんとした顔でベルは首を傾げた。
 彼女は生まれてからまだ八年ほど。確かに、その間に戦争や内乱などは起きていない。
 それのみならず、おそらくこの大陸にあって、ナスティア王国ほど戦と縁の無い国もないだろう。建国時の異常な戦乱以降、乱らしい乱も無く、周辺諸国ともそれなりに上手くつきあっているのだ。彼女がピンとこなくても不思議では無い。
 だが、レメクは感じずにはいられなかった。
 まるで皮一枚隔てた向こう側に、荒れた濁流があるかのような感覚を。
「そうですね……。ベル。今、私達の前には朝陽に微睡む街が広がっています。ここから見るこの街には、不穏や争乱の気配は無いように思えます」
 北区は他の地区に比べて小高い場所にある。視界の開けた場所にさえ出れば、そこからは都のほぼ全容が見渡せるほどだった。
 その場所に立って広がる街並みを見渡したベルは、レメクの言葉にしっかりと頷いた。彼女の目には、街は静かに安穏を貪っているように見えた。
「けれどベル、覚えておきなさい。目に見えるものだけが全てでは無いことを。決して表面には見えなくても、その下で蠢くものがあることを。……ベル。あなたのいた孤児院も、ここから見る景色の中では他と同じ平穏の中にありました。けれど、実情は違った。……つまり、そういうことです」
 ベルはじっとレメクを見つめ、ゆっくりと頷いた。
「わかった。例えどこか一方からそれ見て、それが平和そうに見えても、その中身は違っているかもしれないってことね」
 その言葉に込められた理解の重みに、レメクは内心舌を巻く思いだった。
 こぼれ落ちそうなほど大きな金色の瞳は、いつだって子供らしい好奇心で煌めいている。かと思えば今のように、深く、そして強い色を宿すのだ。
 そんな時、なぜか胸に小波のような揺れを感じるのだが、それがどういう意味のものなのか、彼にはわからなかった。古今東西の知識を頭に詰め込んでいても、初めて体験する『感情』を理解することはできない。そういう意味では、彼はベルよりもずっと幼く、知識も経験も乏しかった。
 ただ理解よりも先に唇はほころび、その顔は無意識に微笑を形作る。
「そういうことです。……だからこそ、いくつもの『目』と『耳』をもたなくてはいけません。一つの物事だけで全容を把握できるほど人の視野は広くなく、また理解できるほど万能ではありません。今、この街を見て美しいと思う人は多くいるでしょう。そして、平和だと思う人も。……けれど、確証のない確信は妄信と同じです。少なくとも、路地の片隅に飢えた目をした人々がいることを、私達は忘れてはいけないのです。例えこの場所からは隠れて見えなくても」
 ベルの小さな手が、キュッと強く男の外套を握った。襟元を握るそのかつての労働で荒れた小さな手を、レメクはそっと握り返す。
 そうして、彼はもう一度街を見渡した。
「もしそれを忘れてしまえば、私達は『人間』では無くなってしまうのですから」

 2 突然の訪問者

 港区の片隅にあるその店は、看板に錨と蝋燭の絵を描いていた。
 錨の絵を描いてあるのは、港から上がってきた品を扱う店の印である。一本の蝋燭は店内で食事が出来ることを表しており、すなわち食品店兼飲食店ということだった。蝋燭が二本ならば宿もやっているという意味で、その場合は一階が酒場、二階が宿というのが通常だ。
 その店の看板に描かれた蝋燭は二本。店の名と呼ぶような名前は無く、周囲からはホロムの肉屋と呼ばれていた。ホロムというのは先代の名で、今は二代目のオーランが継いでいる。先代同様立派な体躯の巨漢で、むきだしの二の腕は丸太のようだった。
 オーランは今日で三十五の誕生日を迎えるのだが、その三十五年間で最も驚くべき事が起こった。
 何の前触れもなく、一人の男が小さな子供を連れてやって来たのである。
 食品店を宿に改築したこの店は、厨房が店の奥では無く入り口付近にある。
 入り口の横に露天が肉を並べているような作りで、珍しさもあっていつも客の入りは上々だった。通りから商品や厨房が覗けたり、いい匂いを道に漂わせれるのも利点だったのだろう。
 宿と食堂を妻子に任せ、今日も入荷したばかりの肉や魚を捌いていたオーランは、突然やって来た黒衣の男に度肝を抜かれた。
 およそこんな界隈では見かけない洗練された物腰に、思わず見惚れるほど整った顔立ち。港区に住み様々な人を見てきたオーランにとっても、その男の容貌は驚愕に値した。
 美しというだけなら、旅芸人の中には美女と見紛うほどの美男もいる。それに男の自分からすれば、そんな男達などより酒場やミュージックホールの美女達のほうが『美しい』し『魅力的』だった。正直に言えば、男の顔が綺麗でも何の役にも立たない、という気持ちである。多少のやっかみはあろうともだ。
 黒衣の男の顔立ちは、整ってはいるが女性めいたものは感じられず、顔自慢の男優のような華やかさがあるわけでもない。
 だが、それでもなお圧倒された。思わず口が半開きになった。ついついしげしげと見つめてしまったのも、無理なからぬことだろう。
 男の凛とした佇まいは、そこに居るだけで場の空気を変え、朝市でごったがえす路地も、彼のいる場所だけ開けてしまうほどだった。
 その男が誰なのか、オーランは知っていた。
 面と向かって会ったことは無かったが、遠目に姿を見たことはある。
 それに、闇を切り取ったかのような黒髪と、見たこともないほど印象的な色合いの瞳は、伝え聞く噂の通りだった。
 王都でその名を知らぬ者はいない大貴族、クラウドール家の当代当主だ。
「あ……あのぅ……」
 オーランは反射的に脱いだ帽子を両手で揉み、弱りきった声をあげる。
 その前で、おそらく王都で一番有名な大貴族は、隣に立つ子供と一緒に、深々と頭を下げていた。
 自分に対して。
「……あの、その、えぇと……旦那……勘弁してくださいやぁ……」
 オーランは情けない声を零す。
 さっきから周囲の注目は増すばかりだった。
 朝市に貴族がお忍びでやってくるのはよくあることだし、時には王族に名を連ねる人々もこっそりやって来ているらしい。
 だが、それでも『お忍び』であることをふまえ、こそこそと隠れ動くのが普通だった。彼等は『お忍び』であることを楽しみ、朝市の気配を味わって終わるのである。よほどのことが無い限り、こちらと直に話しをすることは無い。無論、この辺りで売られるものを自ら買おうとすることも無かった。
 彼等にとって朝市は買い物をする所では無く、気晴らしに散策する珍しい見せ物小屋のようなものなのだ。
 ところがこの男。真っ直ぐ自分の所に来て声をかけてきた。のみならず、いきなり深々と頭まで下げてくる。優れた容姿と相まって、恐ろしいほど目立っていた。
 おまけに連れの少女がこれまた凄まじい。
 きちんと外套と帽子を被っているが、その髪はほとんど隠していない。淡く紫がかった銀の髪は、世にも稀なるメリディス族の特徴だ。痩せぎすではあるものの、その容貌も十年先が楽しみなほどずば抜けて愛らしい。緊張にきゅっと引き結ばれた口元と、一生懸命な目が特に印象的だった。
 しかし、それにつけても目立つ二人組である。おまけにコレはどう見ても謝罪の礼だ。
 何があったのかと興味津々な人垣に、オーランは情けなくも泣きそうになった。これはいったい、何の罰だろうか?
「頼みますよ、旦那。本当に頼みますから、顔を上げてくださいや。そっちの嬢ちゃんも」
 おろおろと頼み込むと、きっちり揃って頭を下げていた二人が顔を上げた。
 真っ向から紫の瞳に見つめられて、オーランはいっそう狼狽える。
「いや、さっき話は聞きましたがね。いや……えぇと、ちょっと今、考えがまとまらねぇですが……いや、その」
 なぜか気持ちが落ち着かずに、あたふたと救いを求めて周囲を見る。周囲はサッと視線を外した。
(……コノヤロウ共……)
 思わず目をつり上げたオーランに声をかけてきたのは、この様子を宿の中からびっくりまなこで見ていた妻だった。
「おまえさん、中に入っていただきなよ。……あの、むさ苦しい所ですが、よろしければ、ど、どうぞ」
 ややどもりながら、妻であるアンヌが男に言う。その顔が赤らんでいるのは気に入らないが、気持ちはわかる。オーランの顔もちょっと赤い。
 男は感情の伺えない表情で二人を見、足下の小さい少女に視線を落とした。少女は男の外套の裾を握って、緊張した顔で男を見返す。
 目と目でどんな会話をしたのかは謎だが、男は二人に向かって静かに言った。
「もしよろしければ食事をさせていただきたいのですが、かまいませんでしょうか?」
 オーランの目と口が極限まで開かれた。


 王侯貴族の食べる物と言えば、目玉が飛び出るほど高価な珍味や、めったにとれない魚、または異常に美味い珍しい肉だと思っていた。
 オーランはテーブルの上で自分の両手を握りしめ、目の前の光景を凝視する。
 テーブルも椅子も長年使っている古びたもので、布で拭いてもそのボロさは隠しようが無い。どちらかと言えばきれい好きなオーランではあったが、新品を購入して揃える気はなかった。使えるものは、使えなくなるまで使うのが彼等の常識だった。
 だが今日、買い換えておけばよかったと心から後悔した。
 目の前の男と少女が座るには、あまりにも見窄らしかったのだ。
 しかも、上等とは言い難いオーランの店には、食器と言えば木の器ぐらいしかない。しかも端っこがちょっぴり欠けている。もちろん、ナイフやフォークといった食器などあるはずがない。
 肉は基本手づかみだし、スープは器を口にあてて飲むのが普通だ。
 唯一小さい子供用にと隣人が作ってくれた木のスプーンがあったが、大人な男の手にあるとオモチャのようで、どうにも落ち着かなかった。
 興味津々で見物がてら店に入ってきた客連中も、なぜか神妙な顔つきで男の様子を見守っている。せっかく妻が給仕した煮込み肉も、彼等の前で手つかずのまま冷めていっていた。
 しかし、それを責める気にはなれない。
 なぜならオーランも神妙な顔で見守っている。
「ベル。よそ見しないでちゃんと食べなさい」
 子供のご飯を監督している、怜悧な顔立ちの男を。
 海草サラダは丁寧に指でつまみ、煮込み肉は大きな塊を懐から取り出した小刀で切り分け、スープをスプーンにすくって上品に飲む。その膝の上で、一生懸命男の真似をする子供は、けれど真似しきれなくてちょっとテーブルを汚していた。
 子供が男の膝の上に乗っているのは、体が小さすぎてテーブルの上の物を取れないからだった。酒場であるこの店に子供用の椅子などあるはずもなく、どうしようかとオーランが悩むより早く、彼等はそんな体勢に収まってしまったのである。どう見ても慣れている様子だったが、まさか毎日そんな姿でご飯を食べているのだろうか?
 男の膝の上に収まった子供はご機嫌で、時々男の胸に頭を擦りつけている。ちなみに少女の帽子は、邪魔になるからと男の隣に座っていた。
 朝食を食べる二人のうち、男はどちらかと言えば小食で、子供の方がその倍以上口に頬張っていた。妻も自分も洒落た料理など作れず、今出しているのも普段店で出ている物と同じだった。多少上品に整えようと苦心した跡はあるが、あまり成功しているとは思えない。二皿目の煮込み肉を食べ終えた少女は、大きなパンの塊を千切っては椀に浸し、肉汁を吸わせてからそれを食べる。パンは焼きたてだが、子供の手にはやや硬い。すると男の手が伸びてきて、何も言わずにパンを小さく千切り、子供が食べやすいように整えてやった。
(……なんとまぁ……)
 オーランは感心して嘆息をつく。
 パンを食べ終え、スープの最後の一掬いまで綺麗に食べ終えた子供は、満足そうに笑顔で「けぷっ」と小さなげっぷをした。
 途端、男の手がぺしりと小さな額を軽く叩く。
「ソレはいけません、と前にも言いましたよ。せめて口を覆いなさい」
 げっぷはしてはいけないらしい。
 もっと下品なげっぷを毎日のようにしたり見たりしているオーランは、そっと視線を外して「見なかったし聞かなかった」ということにした。……自分の行状もちょっと恥ずかしかったので。
「もうお腹いっぱいになりましたか?」
「うん! 美味しかった!」
 輝く笑顔の子供に対し、男の唇が初めてほころぶ。
「よかったですね」
 その微笑に、周りは見てはいけないものを見てしまったように視線を外した。
 胸を押さえる者がいるのは、動悸をおさえようとしているためだろう。気持ちはわかる。真っ正面でそれを見てしまったオーランなど、とっさに悲鳴を上げそうになったほどだ。
(あの、クラウドール侯が……微笑んだ!!)
 先代クラウドール公爵は気さくで陽気な老人だったが、その後継者である現クラウドール侯爵は、厳格かつ冷然とした断罪官として有名だった。
 王国でも史上二人目となる断罪官は、庶民にとっては生きた伝説である。
 その実際の姿を目にすることは稀だが、誰に対しても丁寧に礼をとり、けれどそれ以上に身分にかかわらず厳しい態度をとる彼は、人々にとって近寄りがたい英雄だった。
 ミュージックホールで歌姫を相手に無体を強いろうとした貴族や、この界隈で横暴な振る舞いをしていた大神官を裁いたのも彼だ。
 厳格ではあるが庶民の味方。それが現クラウドール侯の評価だった。
 けれどその逆も言える。
 庶民の味方ではあるが、非常に厳格である、と。
 彼が笑ったという話しは今まで聞いたことが無く、表情を変えたとい話もとんと聞かない。かわりに、どんな美女に迫られても眉一つ動かさなかったという話は非常によく聞いた。歌姫メリッサと高級娼婦ファランナに言い寄られながら、顔色一つ変えなかった話は男達の間で『伝説』となっている。
 曰く、ありゃ男じゃねぇヨもったいねぇ、といった感じで。
 とはいえ同性趣味なのかと言えば全く違う。女性に対しては礼を尽くすが、そちらは遠慮無く徹底的に撃退するらしい。
 くわえて『連れ』として有名なバルバロッサ大神官が語ったことには、あれは女に興味が無いのではなく、女に興味を向ける余裕が無いのだということだった。仕事で忙しすぎるマジメ人間はああなるのだと語られて、聞いた酒場の連中は非常に同情したものだった。……真偽のほどは確かでは無いが。
 しかし、では、目の前の光景は何なのか。
 小さな子供に向ける瞳は驚くほど暖かく、冷然とした顔立ちもとても穏やかにほころんでいる。取り付く島も無いと言われ、どんな美女にも表情を一切変えなかったという話なのに、少女に向ける表情だけは優しいのだ。
 オーランは思った。もしかして、幼女趣味なのだろうか、と。
 しかし色めいたものはサッパリ感じない。むしろ涙が出そうなほど清々しい。
 敢えて言うなれば『お父さん』。けれど印象はむしろ『お母さん』。
 子供からは傍目にわかるほどの「大好き!!」オーラが放出されているのに。
(……可哀想に……)
 満面笑顔で男の胸に頬ずりしている子供に、思わずオーランは同情を寄せてしまった。この小さな少女にとって、男が初恋の相手なのは明らかだ。全身で気持ちを表現している。
 しかし、男にはサッパリ通じていないらしい。甘える子供をあしらう父親(母親?)そのものだ。
 おそらく、彼女の初恋はやがて淡く消えるだろう。オーランはそう思った。
 途端、大きな金色の目に力強く見つめられてしまったが。
「……う、美味かったか?」
 なぜかギクッとして、オーランは咄嗟にそう問いかけた。
 子供は満面笑顔で頷く。
「美味しかった! あのね、煮込み肉がね、柔らかくて噛んだら美味しい汁がじわーって出るの」
 嬉しいことを言ってくれる。
 しかし、さっきのキラリと光る目は恐かった。
「ぉ、ぉお、そいつぁよかった。俺のカカアの料理は天下一品だからな!」
 ややも引きつる笑顔で返したオーランに、子供は一層笑顔になった。
「うん! すごい美味しかった! おじ様の料理の次くらいに!」
 酒場が凍りついた。
 硬直した人々の中で、当人だろう黒衣の男だけがもぐもぐしながら眉を軽くひそめている。
 オーランは尋ねた。頭が理解を拒絶した言葉を。
「……料理?」
 誰の?
「うん。おじ様の料理ね、すっごく美味しいの。でも、おじちゃんのおかみさんの料理も美味しかったわ!」
 いやいや、誰の?
 周りの気配が一生懸命訴えている。
 おじ様? オジサマって誰誰?
 そこの黒い人? と。
「ベル。人様の料理を褒める時は、誰かと比べるような言葉を言うものではありません。それは大変失礼にあたる行為です」
「え。ありゃ……ごめんなさい」
 その黒い人に注意されて、少女はしおしおとオーランに謝る。オーランは反射的に天井を仰いだ。
(……料理……)
 男が料理してはいけない、などという風習は無い。実際、自分も料理をする。
 しかし。しかしだ、何故大貴族で見た目からして高貴そうな目の前の男が、そんなものをしなくてはいけないのだ。というか、あの、クラウドール侯爵が!
「……料理……するんですかい……?」
 オーランの声に、もぐもぐしていた男は口の物を飲み込んでから頷く。
「ええ。男たるもの、料理一つできなくてどうするのかと、義父達に教えられまして」
 ……何かが違う。
 だいたい、義父『達』って何だろうか?
「ところで、私もお尋ねしたいことがあるのですが」
 疑問を口にする前に男に言われて、オーランは思わず背筋を伸ばした。体が一気に緊張する。
「な、なんでしょう?」
「この煮込み肉。大変美味しかったのですが、調味料は何を使っておいでですか?」
 オーランの顎が盛大に落っこちた。

 ※ ※ ※

 レメクとベルが食事を食べ終える頃には、周りの野次馬達も自分達の仕事に戻っていた。
 珍客の様子は気になるが、仕事をしなくては日々のご飯は食べれない。後ろ髪を引かれる思いで彼等が職場に戻るのを、レメクはそれとなく伺っていた。最後の一人が店を立ったのを機に、緊張の面持ちで自分の前に座る男に向き直る。
 忙しいかき入れ時に料理雑談をさせたりと、この男には大変な迷惑をかけた。さすがにその自覚のあるレメクは、帰り際に肉の注文をしていこうと心に決めた。もともと、食材を買いに朝市に来たのである。店の肉はどれも美味しかったので、問題は無いだろう。
「……さて、ご店主殿には先程も申し上げましたが」
 声を改めて言葉を紡ぐと、なぜか店主はなんとも言えない顔になった。困ったようなその顔に、レメクは言葉を続ける。
「このベルは、貧しかった折にこの店の商品を幾度か盗んだことがあると言っています。例えどのような事情があれ、罪は罪。せめて代金の分働くと申しているのですが、この子の体はかつての貧困により健康を損ない、未だそれは癒えておりません。もしよろしければ、盗んだ物の代価の分、私が支払いたいのですがかまいませんでしょうか?」
 緊張に顔を強ばらせながら一生懸命オーランを見るベルに、オーランも迷ったような困り顔で少女を見つめた。
 その首が不安げに傾ぐ。
「いや、しかしですな、旦那。こっちの子はメリディス族でしょう? 国が保護してる子供が、なんでまた……。いや、だいたい、俺ぁ……いや、あっしはこんな子が盗みをしていく所なんて、見たこと無いんですがねぇ……?」
 ベルは困ったように眉を下げた。オーランも眉を下げる。
 かわりにレメクの眉が軽く上がった。
「当時、この子供は孤児院におりました。髪は色の判別がつかなほど汚れきり、体は今とは比べ物にならないほどやせ細っていました。着ていたものも、ボロという言葉ですら言い表せないほど見窄らしいものでした」
 恥じるようにベルが顔を伏せた。その頭を撫でてやって、レメクはオーランを見つめる。
「南区三番街の聖ラグナール孤児院。彼女が収容されていたのは、そこです」
 オーランはまじまじと少女を見つめた。
 この印象的な髪は一度見たら決して忘れなかっただろう。確かに路地裏の子供達が、自分の店先から商品を盗んでいくのは時々見ていた。やせ細り、あれでどうやって生きているのかと不安になるほどに弱々しい子供達だった。
 その子供達の中に、目の前の少女のような子はいなかったと思う。だが、髪の色を変え、あの子供達のようにやせ細らせれば……
「……ベル、っつったか……?」
 思わず素の言葉で、オーランは目の前の少女に問いかけた。ベルは緊張の面持ちで大きく頷く。
 オーランはじっとベルを見た。この愛らしい少女と同じ顔の子供は記憶には無い。だが、もっと飢えさせ、目元を暗くし、ガリガリに痩せさせて……そして金色の目……
 オーランは目を丸くした。思わず立ち上がった。
「三番街のガキ大将か!」
「えええ!?」
 オーランの叫びに、ベルが驚愕の声を上げた。オーランと同じぐらいビックリ眼になっている。
「ガキ大将!?」
「ああ、ベルだろうが! 悪ガキどもを従えとった! あのちびっこい子が……!!」
 オーランの声に、恐る恐るやりとりを見守っていたアンヌも寄ってくる。そうしてまじまじとベルを見つめ、やはり驚愕に目を剥いた。
「間違いないわ……! 倍以上大きな近所の子供をこてんぱんにやっつけたあのちっちゃい子だわ!」
 レメクが目を丸くしていた。
「……ベル?」
 なにか非常に問いたげに少女を見つめる。ベルはサッと視線を外した。
「ベル?」
 しかし、重ねて問われ、ベルはチラッチラッと男を見上げた。聞くな、聞くな。そんな感じだが、男は退く気は無いようだ。
「ベル?」
 再三名を呼ばれて、ベルは降参した。しおしおと男の膝の上で小さくなる。
「べ、別に、悪いことしてたわけじゃないもん」
「喧嘩ですか?」
「違うもん。悪者退治だもん」
 ぽこ、大きな拳がベルの頭を軽く小突いた。
「ベル。事実がどうあれ、悪者退治などと言う言葉を使ってはいけませんよ。他者を一方的に悪として扱うことは、自らを正義と自称……いえ、偽証することに他なりません。そうして、自称する正義とは、往々にして傲慢かつ身勝手なものなのです」
「……はい」
 しょんぼりと俯くベルに、店主二人は慌てる。
「い、いや、旦那、そっちの嬢ちゃんの言うことは正しいでスぜ?」
「そ、そうですよ。やっつけられてたのは、この辺りでも有名な悪たれでしてね。そりゃあ、もう、孤児院の小さな子を虐めたり、この界隈の年寄りから金品を盗んだりと、とんでもない奴らだったんですから!」
「そのくせ役人の子だとかで、なかなかお縄がかからなくって……ありゃあ、どうにもならねぇってんで、この辺りの界隈でも有名なバルバロッサ大神官に成敗をお願いしたぐらいなんですよ」
「バルバロッサ卿に?」
 ベルが目を丸くした。思わず身を乗り出し、ちょっと背伸びしている。
 対してレメクは何やら考える顔になった。
「……もしや、それはロー家のことでは……?」
「ええ、ああ、はい、そうです。……ぁあ! じゃあ、やっぱり旦那が裁きなすったんで?」
「いえ、裁いたのはルド……バルバロッサ卿です。私は証拠を揃えただけにすぎません」
 そう断ってから、レメクは目を丸くしたままのベルを見下ろした。
「あなたは、本当に無茶をしますね。ロー家の子供といえば、一番小さい子でも十五にはなっていたはずですよ」
 彼等の悪行はレメクもよく知っていた。喧嘩っぱやいとか、悪ぶっているとか、そういった悪童ではなく、彼等はれっきとした悪党だった。
 殴る相手は自分よりも弱い者に限り、強い相手からは身を隠したりへりくだったりする。親の職を利用する手口も卑怯だったが、親はそれに輪をかけて卑怯だった。親子揃って実刑判決をくらったが、彼等の暴力で命を落とした者もいるほどだ。人死にが出た以上、多少のことでは罪を償ったとは言えないだろう。
「いやもう、強いのなんのって。この辺りじゃ、三番街のベルと言えば大抵の悪ガキが大人しくなるボスでしたよ。弱い子や小さい子ははきっちり守るし、強い相手にだって立ち向かうし。しかもちゃんと勝ってくるんですからね」
 アンヌの褒め言葉に、ベルはますます体を小さくする。褒めてもらえるのは嬉しいが、喧嘩は喧嘩だ。おずおずとレメクを見ると、レメクはどこか呆れたような顔になっていた。
「……ベル」
「……はい」
「……無茶はしないように」
「……はい」
 小言は言わず、かわりに頭を撫でてくれた相手に、ベルはすんすんと鼻を鳴らして抱きついた。レメクの大きい手が、その小さな背を叩く。
「弱い子を守って戦ったのですから、それは責めるべきではありませんね。けれど、あなたは女の子なのですから、怪我をしないようにしなくてはいけませんよ」
 よしよしと少女の頭を撫でる男に、店主二人は顔を見合わせ、なんとも言えない笑みを顔に浮かべた。
「いやしかし、あのベルがこの子なら、確かにうちの商品もちょろまかしていった悪ガキでさぁ。つっても……まぁ、なんですかな、うちらにも暗黙の了解ってのがありましてね」
 ビクッとなった少女と、真顔になった男に向かって、オーランはちょっと笑ってみせる。
「店の端っこのほうにゃあ、売れ残った品とか、そういうのを並べておくんでさぁ。ああいう子等に盗まれるのは、大抵そういう品で……言っちまえば、それほど被害があったわけじゃあ無いんで」
「あたしらもね、あの子等のことは気になってたんですよ。この界隈にだって浮浪者はいますけどね、日銭仕事にだってそれなりにありつけてるし、あそこまでやせ細っちゃあいませんよ。けど……あの子等は、小さいし、保護もあまりうけてないし……でねぇ、けど、あたしらだって商売ですし、可哀想ってだけじゃどうにもできないでしょう? こっちも生きていかなきゃいけないし。だから、施し、って言うんですかね? そういうのはできないんですが……」
 それでも、せめて、端っこにある少しの食料を盗って行くぐらいなら、目こぼしをしてやってもいいんじゃないかと思っていた。必要最低限だけを、必死の顔で盗んでいく彼等は、あまりにも哀れでならなかった。
「棒持って追いかけるにゃあ、ちっとばかり可哀想でなぁ……」
 なんとも言えない顔の店主二人に、見上げるベルの目がみるみるうちに潤んでいった。
「……ごめん……なさい……」
「いや、あー、なんだ……まぁ、悪いことにゃあ違いねぇんだが、こっちも嬉しくはなかったんだが……それでもまぁ、あれぐらいならな、まぁ、しょうがねぇってなもんだ」
「それにねぇ、立派になってからちゃんとお詫びに来るだなんて。そうそうできないことだよ、お嬢ちゃん。あの痩せっぽちの子が、よくもまぁ、こんなに立派なお嬢様になって……」
 目を潤ませたベルに、感激しやすい質のアンヌも涙目になった。
 ほんの数日前。王都の孤児院の大半が兵士に取り押さえられるという騒動が起こった。聞けば王命で行われた一斉粛正であったらしい。暴利を貪り、子供らを虐待していた院長等は全て裁かれ、不当に溜め込まれた財貨は全て王の名の下に取り上げられた。そららは全て新たな孤児院の建設や運営に当てられるという。
 その騒動の前に亡くなった孤児も数多く、彼等の慰霊碑は月末頃にそれぞれの孤児院跡地に建てられる。
 オーランはそれらの話を聞いた時、目の前の少女達も無事では無かっただろうなと思っていた。正直に言えば、胸が痛かった。言葉を交わしたことは無かったが、必死に生きようとする姿だけは垣間見ていたのだ。できれば無事に育って欲しいと思っていた。
 まさか、こんなに立派な人に保護してもらっているとは、思ってもみなかったが。
「よかったなぁ……本当に」
「よかったねぇ……」
 小さくて弱い子供達を、誰か助けてくれないかと思っていた。路地でひっそりと冷たくなっている子供らを見ることほど、胸の痛むことは無い。けれど財力の乏しい彼等にできることなどほとんど無く、お情けをかけれるほどの余裕も無かった。可哀想だと思いながら、見て見ぬふりをするしかなかったのだ。
 ぼろぼろ泣きだした少女を、アンヌは何も言わず抱き寄せた。ふっくらとした胸に顔を押し当てて、子供は声を殺して泣いている。アンヌの胸はいっぱいになった。
 レメクは席から立つと、照れくさそうに目元を拭っている店主を見上げた。ほとんど身長差は無いが、横幅だけは二倍近くあるオーランは、じっと見つめる男にやや焦る。
 その大男に向かって、レメクは深々と頭を下げた。
「ちょ、ぅわ、待ってくだせぇ旦那。ちょ……!」
 下げられた方はたまったものではなかった。
 そんな大仰に感謝されるほど、自分達は大層なことはしていない。見て見ぬふりをしてたぐらいだ、むしろ、何故もっと手を差し出してやらなかったのかと、怒るのが筋だろう。
 それなのに、何故、頭を下げるのか。
 目を丸くしておろおろするオーランの横で、アンヌもおろおろしている。その、おおよそ綺麗とは言い難い家事で荒れた手をとって、レメクは貴婦人にするようにその手の甲に恭しく口付けた。
「あなた方の優しさに、敬意を」
 アンヌの顔はもう真っ赤だ。
 開いた口が塞がらないオーランだったが、アンヌの腕の中に抱きしめられた少女の顔を見た途端、思わず吹き出しかけた。ベルは涙目のまま、眦をつり上げ、けれど眉を情けなく垂れさせて黒衣の男を見上げている。
(あたしも! あたしも!!)
 そんな一生懸命な訴えが聞こえてきそうなほどだった。
 男はそれに気づいているのか……いや、気づいているのだろう。なぜか少女から一生懸命目を逸らしている。
「商売人にとっての商品は、全て、彼等の生活のかかった大切な品です。子供達が一時飢えずにすんだかわりに、奪われた店主の側が飢えた可能性もあります。店が大きかろうが品が多かろうが、それに変わりはありません。そして、そういう意味で、窃盗は大罪なのです」
 少女から目をそらし、じっとこちらの見つめながらのセリフに、オーランは同意の意味で頷いた。
 男の言うことは正しかった。
 野に生えたものと違い、誰かの畑や、何らかの収穫物や、店先に並んだ品というものは、それを生産し販売する者にとっては『生きるための糧』だった。
 どのような理由であれ、それを奪ってはいけないのだ。それは簡単に、それを扱う者の命を脅かすことになり……時には死に追いやることにもなる。
「旦那。うちの通りに、じいさまとばあさまが商いをしている店があったんでさぁ」
 レメクは頷く。その店のことも、彼は知っていた。
「孤児のちっこい子等はね、そこからは盗まなかった。俺ぁ、そのことに、ちっと感動しましたよ。近所の悪ガキどもなんざ、腹が減ったからといっちゃあ、満足に走って追いかけたりできないじいさま等の所から肉とかかっぱらっていきやがった。しかも上等のやつだ。……じいさま等は商売になりゃあせんかった」
 オーラン達も見回りをし、時には代理で追いかけまわしてやった。だが、そういう悪党は一人や二人では無かった。
「……旦那。俺ぁ、旦那に感謝してるんでさぁ。あのじいさま等を、屋敷に招いてくだすったのは、旦那だ」
 もう二年も前になるだろうか。老夫婦が倒れてしまったのは。
 彼等は裕福では無かった。細々と店を切り盛りする、穏やかな人柄の暖かい隣人だった。仕入れた豚や鶏を、一頭まるまる綺麗に解体して、美味い所もそうでない所も美味しく食べれるよう下ごしらえをするのが実に上手かった。オーランの宿の定番のスープも、老婦人の直伝だった。
 そんな二人が、近所の悪ガキのせいで難儀をしている。店をもつ者同士、商品を盗まれるということがどれほど大変なことかよくわかっていた。けれど、盗む側はそんなこと考えてもいないのだ。ただ、欲しかった。それだけで盗っていく。
 生きるための資源を、ただそれだけで奪っていくのだ。それが、どれほど相手の生活を脅かすかも考えずに。
 老夫婦の生活は厳しくなっていった。それはそうだろう。仕入れる豚や鶏の値段だって安いものではない。盗まれれば盗まれるほど、赤字になる。彼等の値段設定は買い手に親切だったから尚のことだ。かといって値上げをすれば、今まで彼等の所で買い物をしていた貧しい人々の手が届かない値段になってしまう。彼等は困った。困ったが良い案もなく、ただ貧しくなっていった。
 そうして、倒れたのだ。
「旦那が拾ってくださらなかったら、あン人等は今頃墓の中だったかもしれねぇ。俺ぁ……あんときばかりは本当に、なんつーか……感激っつーんですかね? しましたよ。いや、そりゃ、前から噂ぐらいは知ってましたがね」
 路地で蹲る人々の中に分け入り、彼等が自立して生活できるよう、仕事や居場所を探してくれる人。忙しい中でも路地裏に踏み入って、倒れている人を教会に連れていってくれる人。
 出会えればそれだけで僥倖だった。他の誰も、そこまで親切にはしてくれないのだから。
「あの御夫婦でしたら、うちの屋敷でも重宝していますよ。あの人達の解体技術は実に素晴らしい」
「へへぇ、やっぱり今も捌いてるんですかい」
「ええ。この間は、牛を一頭つぶしてもらいました。牛なんて初めてだということで、なかなか気合いの入った解体を見せてくれましたよ」
「うし? ですかい?」
「ええ。ご存じではありませんかね? こう、体の大きな生き物で……」
 さすがに肉も商う店主なだけあって、オーランも牛と呼ばれる生き物には興味津々だった。噂には聞いたことがあるが、未だにこのあたりでは見かけない生き物だから尚更だ。
「いずれ羊にかわる肉の主流となる可能性があります。馬と同じぐらい大量の肉がとれますし、味も良い。それに、乳牛からは大量の乳がとれます。あれだけでも沢山放牧する価値がありますね。今は乳も値が高いですから」
「そ、そうなんでさぁ、旦那! 山羊の乳は美味ぇがなにしろ高ぇから……病気になった時とかに、栄養のあるものをって思っても、どうにもならねぇんです」
「うちの領地にも放牧していますが、何分そう急激に数が増えるような生き物ではありませんからね……昨年も西の国から三十頭ほど購入しましたが、数が増えるのにどれだけかかるか……」
「いっそ国を挙げて食料対策に大量入荷するってぇのはどうですかね?」
「一応、案には挙げているんですよ。ちょうど領地で受け入れてもいいという人もいますから、そちらにも協力してもらう手はずです。増えればこれからの食料事情も変わってきますからね。あと、鶏も増やしたい」
「いいですなぁ! 卵も肉もまだ品薄で……!」
 盛り上がり始めた男二人に、置いてきぼりをくらった大小の女二人は顔を見合わせる。
 そうして、どちらともなくくすくすと笑い出した。
 彼女等の目には、将来の展望を語る二人の男は、どこか可愛らしく見えたのだった。

 3 幸せの形

 ベルは意気揚々と街を歩いていた。
 抱えた大きな麻袋のせいで、前は非常に見えにくい。だが、とりあえず隣に大好きな人がいるかぎり、自分の行く先は安心だった。匂いを辿れば、ちゃんと同じ場所にたどり着ける。
 その大好きな相手は、自分の倍以上ある麻袋を二つも抱えて歩いていた。中に入っているのは肉や野菜で、朝市で買い込んだ品である。
「ねぇ、おじ様?」
 見えない視界にえっちらおっちら歩いていたベルは、興味津々で尋ねた。
「お屋敷の中に畑があるって言ってたのに、どうして朝市で買い物をするの?」
 ベル自身未だその目で見てはいないが、クラウドール邸の屋敷には大きな畑や放牧地があるらしい。野菜や肉の類もそこで手に入るらしいのだが、なぜか今日、レメクは朝市に向かっていた。
「作っていない野菜もありますし、なにより香辛料の類が足りません。それに、肉をそんなに毎日食べていては、うちの羊や山羊や牛達はすぐにいなくなってしまいますからね」
 ベルは首を傾げた。彼女の食卓には、毎日のように肉が並んでいたのだ。
 そうして目を丸くしたのは、おそらくその意味に気づいたからだろう。彼女は非常に頭の回転が速かった。
「あの……おじ様、あたし、そんなに贅沢しないから……」
 おずおずと言ってくる少女に、レメクは思わず口元をほころばせる。
「あなたは、私に対して遠慮する必要はないんですよ。あなたはまだ子供であり、私は大人なのですから」
「……でも」
「私の保護下にある以上、あなたは私の……そうですね、言うなれば家族です。家族である以上、遠慮は不要ということです」
 家族、という単語にベルは顔を輝かせた。目がきらきらと輝いている。
「あたし、いい奥さんになるからね!」
「……一応、今は子供でいてください」
「いい奥さんになるんだから!」
「…………」
 レメクはそっと視線を外した。
(……どうしましょうか……)
 ちょっぴり顔が不安に曇る。
「とりあえず、その話は後々に置いておいて」
「あ。猫」
「話は聞きなさい。流してもいいですが……と、おや」
 ベルの声に視線を同じ場所に向けたレメクは、塀の上にちょこんと座る赤茶色のネコを見つけて目を見開いた。
「モンプチではないですか」
「……モンプチ?」
 ベルが首を傾げる。茶虎の猫は「にゃあ」と声を上げた。
「義父がもう着いたんですか」
 猫は「るるぅ」と喉を鳴らす。レメクは真面目な顔で頷いた。
「ありがとうございます。後でお礼を持って行きましょう。ひとまず先を急ぎますので」
 言うや否や麻袋から買ったばかりの魚を取り出す。やや大きめのそれを差し出すと、赤茶色の猫は目を煌めかせてそれを口に銜えた。そうしてとっとと走り出す。
「…………」
 ベルはそれをじーっと見守った。レメクはそんな彼女を見下ろし、大まじめな顔で言う。
「実は今日、義父が来ることになっているんです。……その前に食事の準備を整えておきたかったのですが、仕方がありませんね。とりあえず、急いで戻りましょう」
 そう言って歩き出す相手の姿を追いながら、ベルは先程の赤茶色の猫を思い出していた。 どこかで見た猫だと思う。何度か見たことがある気がする。
「……おじ様」
 ベルはそっと声をかけた。レメクは振り返らずに「なんです?」と問い返す。
「猫とお話できるの?」
「? できないんですか?」
 レメクは不思議そうな顔で振り返った。ベルは首を横に振る。
「ううん。たまにしてる」
 レメクは同意の意味で頷いた。
 その様子にベルは少しだけ眉を下げる。彼女は知っているのだが、彼は知らないのかもしれない。
 なぜなら、そんなことができるのは今まで彼女ぐらいであり、孤児院の誰も、猫や犬と会話をすることはできなかったのだ。
(……レメクはできるんだ……)
 ベルはちょっと口元をほころばせる。
 なぜかは知らないが、とてもとても嬉しかった。

 ※ ※ ※

「や。お帰りなさい、二人とも」
 屋敷に帰ると、なぜかエプロン姿の男が出迎えてきた。
 凄まじい美貌の男だった。おそらく相対した誰もが目を剥き、半数以上がその場で昏倒すること間違いなしな美貌である。あまりの美しさに、直視しつづけることすらできないほどだ。
 だが、そういった本来の反応とは違う反応を返すのが、今相対している二人である。
「お義父さん……またですか……」
「わぁ、ポテトさん。そのエプロン可愛い!」
 ふりふりレースのエプロンに、レメクのほうはげんなりと項垂れ、ベルのほうは目を輝かせた。
 ふふふふふ、とポテトは笑う。
「ご主人様がプレゼントしてくださいましてね。すごく嬉しそうな顔で着ろと言ったくせに、きちんと着用したらすごく残念そうな顔になるんですよ。なんでしょうかねぇ、あの反応は」
 しかし、それを語る彼の笑顔は素晴らしい。計り知れないほどに嬉しそうだ。
「……着るのを拒否する姿を見たかったのではありませんかね……?」
 普通、男がふりふりレースのエプロンなど好んで身につけるはずがない。おそらくアウグスタはポテトが嫌がる顔を見たかったのだろう。それか、怒る顔か。……しかし、彼女の企みはあっさりと潰えてしまったのだ。
「この程度のものを着こなせなくてどうしますか。家事は男の嗜みですよ」
「……いえ、もう何も申しませんが……」
 この義父に育てられた自分は、もしかして人として何か違う常識をもってしまったのでは無いだろうか。少し心配になったレメクだったが、ポテトの次に義父となったステファン老も似たような教育方針だったのだ。ならば、これが世間一般で間違いないのだろうと思いなおした。
 彼は知らない。
 その二人がちょっと世間とは違っていることに。
 そんな彼の横で鼻をヒクヒク動かしていた少女は、目を瞑ってうっとりと呟いた。
「良い匂い……」
 彼女のお腹が「きぅるるる」と鳴き始める。先程食べた『朝食』はすでにそこには無いようだ。……どんな消化速度だろうかと思いつつ、レメクも軽く匂いを嗅ぐ。
「ずいぶんと手の込んだ料理ですね。カボチャのスープと海鮮サラダとローストビーフと鶏の香草焼きですか」
「……なぜ一嗅ぎでわかるんですか……」
 なぜ分からないんですか? と言いたげな目で見返されて、ポテトは呆れた顔になった。意見を求めるようにして小さな少女の方に視線を向けるが、こちらからも同じ「わからないの?」と言いたげな目でこちらを見ている。
(嗚呼……似たもの夫婦……)
 ポテトはしみじみと降参した。
「まあ、とりあえず、玄関先で話をするのもなんですから。とりあえず中に入って食事にしませんか? というか、まずは挨拶ですか」
 ベルとレメクからそれぞれ荷物を受け取って、ポテトは穏やかに笑う。
「お帰りなさい、レンさん、お嬢さん」
 レメクはどこか面はゆそうに目を細め、ベルは顔を輝かせて声を揃えた。
「「ただいまです」」


 レメクの購入した食材は全て貯蔵庫行きとなったが、かわりに貯蔵庫にあった食材はあらかた消えていた。
 もともと残り少なくなっていた所にポテトという料理人がやって来たため、残っていた食材もほぼ使いつくされてしまったのだ。
「美味しいぃいッ!」
 舌鼓をうつ少女を時折見守りながら、二人はそろって台所で買ってきたばかりの食材を捌き始める。大きな肉の塊を処理しやすいように手早く捌いて、ポテトはくすくすと笑った。
「それで、そのお店の方に謝りに行ったわけですか」
「罪から逃げては前に進めません。せめて償える類の罪であるのならば、今できる時に償うべきですから」
 償えない罪を抱える男二人は、そろって視線を下に落とした。
 野菜室に買ったばかりの青菜を入れたレメクは、視線を下に落としたまま、嘆息をついて言葉を続ける。
「けれど、店主もなかなかの人物でしたよ。あの悪環境の子供達が、それでも飢え死にするのを免れたのは、きっとああいった人物が影ながら守ってくれたからでしょうね」
 店主達は「自分達は何もしていない」と言ったが、そうでは無いとレメクは思っていた。
 もし、彼等がかの孤児院の院長達のように、自分の利益だけしか見ていなかったら。そうしたら、盗みをはたらいた子供達は、きっと悲惨なことになっていただろう。飢えて体のやせ細った子供達は、それほど足が速くは無い。それに、大人達が本気になり、彼等を捕まえようとすればそれはそんなに難しいことでは無いのだ。盗んだその日でなくても、力無く座っている時にでも見つけて報復すれば良いのだから。
 店主達は、そういった恐ろしい行為を一切しなかった。可哀想だが何もできない、と言う言葉の裏側で、それでも、少しだけでも目こぼしをして、彼等の生きるのを助けてくれたのである。
 それが優しさでなくて何だろうか。
 思いやりでなくて、何だというのだろうか。
「……不思議な気分になりましたよ。この国には、そうやって、弱い子等を守ってくれる人達がいるのだと思うと」
 レメクの声に、ポテトは目を細めた。
 彼は気づいていない。それが感動だということに。
 長い年月を感情を排して過ごしてきた彼だったから、その心の動きが何という感情なのか、なかなか気づけないのだ。
「良い人達で良かったですね」
「ええ」
 頷くその顔は穏やかに微笑わらっているのに、きっと微笑わらっている本人だけは自分の感情や表情に気づいていないのだろう。そう思うと少しおかしく、そして少しだけ胸に痛かった。
「ところでレンさん。お嬢さんの食事が終わったら、離れに彼女を連れていってあげませんか? 皆さん、会いたそうにしてましたから」
 レメクはベルと顔を見合わせる。口の端に香草をくっつけたまま目をぱちくりしていたベルは、一度レメクとポテトを見比べ、輝く笑顔で言った。
「あたしも行きたい!」
 レメクに否やは無かった。


 クラウドール邸の長屋の住人は、レメクとベルの訪問を心から喜んだ。
 特にベルは持ち前の愛らしい動作もあって、彼等の愛情をたっぷりと注がれていた。彼等はレメクのことも愛していたが、なにしろ相手はもう大きな大人である。まさか抱きしめたりかいぐりかいぐりするわけにはいかない。
「坊。飯喰ったか?」
「坊。喉乾いたか?」
 せいぜいビスケットや蜂蜜酒をいそいそと持って行くのが精一杯だった。
 それすらも、レメクにはなんとも言えず面はゆいものなのだが。
「……すみません。もう三十二になりますので、坊はよしていただきたいのですが」
 言っても聞いてもらえない。
 ステファン老がいたころからの住人にとって、レメクは未だに子供なのだった。レメク自身が屋敷に招いた人々は、もうちょっと遠慮しているが、それでも感化されているらしい。
「若旦那、よぅ来られたなぁ、よぅ来られたなぁ」
「待っとったで、若旦那ぁ」
 自分の身分とか職業を忘れそうな勢いだ。わらわらと寄ってくるお年寄りに、レメクは何と反応していいかわからず、困り顔で突っ立ってしまった。嫌では無いのだが、なんとも言えずひたすら面はゆい。
 ポテトから見れば、それは恥ずかしがっている、ということなのだが。
(いい傾向ですね)
 一応部外者として、ポテトはひっそりとその場で気配を殺して見守っていた。常には驚くほど存在感のある男だが、闇に溶ければ剣の達人すらも彼を見つけることはできない。
 そうやってこっそり隠れていたのだが、笑顔でちょろちょろとお年寄りの間を走り回っていた子供にはあっさり見つかってしまった。
「ポテトさん、見て見て! これ、すごい綺麗なのっ」
 彼女が見せてくれたのは、もらったばかりの綺麗な石だった。庭を耕している最中に出てきたという石は確かに綺麗な色をしている。
(……これは琥珀ですねぇ……)
 ポテトはにっこりと微笑んだ。クラウドール邸の敷地からは、こういったものが時折ぽろっと出てくるのだが、誰もそれを取り合ったりはしなかった。彼等はすでに、世の中の欲といったものと無縁の場所で生きているのだ。
「よかったですね」
 にこっと微笑んだポテトは、そこで自分を見ているお年寄り達に気が付いた。
 しまった。自分は隠れていたはずなのに。
「ぉおー、べっぴんさんが来とる、べっぴんさんが来とる」
「おー、どっかで見たことがあるような無いようなべっぴんさんじゃ」
「よー来たなぁ、よー来たなぁ」
「えー、儂ぁ目ぇ見えんからわからん。そないにべっぴんさんなんかぁ」
「おおべっぴんじゃあ、胸ないがのう。残念じゃなぁ」
「いやでもよー来たのぅ。ほれ、飴ちゃんやろけ」
 わらわらとたかられた。思わず反射的にレメクを見る。
 レメクは「様をごらんなさい」と言わんばかりの目でこちらを見ていた。どうやら先程様子を見守っていたのを怒っているらしい。微妙に嬉し恥ずかしをしてたくせに、怒るとは何事だ。むしろ今自分を助けてほしい。一応名前繋がりの親子だし。
 なぜか掌に押しつけられた沢山の飴を持ったまま、ポテトは「はぁ……」と力無く項垂れた。なぜだろう。彼等には逆らえない。
「いや、いいのう、やっぱり。若い人等が来てくれるのは……」
 ポテトはそっと視線を外した。自分は彼等よりも年上だ。
「眼福じゃのぅ、いや、ええもん見たわぁ。三人ともべっぴんやからなぁ」
 レメクとベルはそっと視線を外した。彼等二人は、自身を『べっぴん』とは思っていなかった。
「いやぁでも、どうなすったんじゃ? 珍しぃ。儂らン所に来るのは、あんまり無いことじゃが……?」
 長屋の中では長老格の男にそう問われて、レメクは反射的にポテトを見た。行こうと言い出したのはポテトなのだ。
「実は少々レンさんとこみいった話をしなくてはいけませんでして。けれど、お嬢さんだけを一人で部屋に残すのは可哀想でしたから、皆さんの所にお邪魔させていただけないかと」
 そつのない笑顔でそう言ったポテトに、お年寄り達は一斉に顔を輝かせた。
「そりゃあ大歓迎じゃ!」
「嬢ちゃん、何するけ? 積み木け? それとも何か食べるけ?」
 わっと全員がベルに向かった所で、解放されたポテトはぐっと握り拳をつくる。よし! と言いたげなその相手に、レメクはあきれ果てた顔になった。
「……お義父さん……」
 その一言にものすごいいろんな意味を込められてしまった。
 ポテトは知らん顔をする。
「さ。とりあえず、我々は大人な話し合いをするべく席を外しましょうか」
「大人な話し合いをするのに、その手のバスケットは何ですか」
「え。紅茶とスコーンとサンドイッチです。いい天気ですから、そこらをまわって四阿にでも行きましょう」
「……それは普通、ピクニックと言いませんか?」
 ポテトはにっこりとそれを黙殺した。


 クラウドール邸には、大小七つの四阿があった。
 上空から見ると長方形をしているクラウドール邸の敷地は、、南側に森のような木々の連なりがあり、中央下方に本邸がある。
 中央上方は西側に湖があり、東側に田園と平屋建ての建物が一つ。湖からは小川のような水路が引かれ、東の平屋建てと北の放牧地へそれぞれ水を通していた。
 ポテトがレメクと一緒に訪れたのは、その湖のほとりに建つ四阿である。
 遙か昔に建てられたその四阿は、美しい白亜で作られていた。その建築様式は、驚くことに王城のそれと同じである。
 元々クラウドール家は、王族の血にも連なる大貴族だった。
 先代のステファン老など、前王の叔父であり、当時王位継承権第二位のれっきとした『王族』だったのだ。この屋敷に隠居する前に王位継承権を放棄したが、王都に近い広大な土地を所有する大貴族であることには違いなく、その地位も最高位の公爵だった。
 クラウドールの家を継ぐ者は、そういった者が非常に多い。
 例外として挙げるのならば、初代のクラウドール公爵だろうか。後に女王の子を後継者に迎えたその人物は、王国の要とも呼ぶべき賢者であり、そして、当時において最強の紋章術師でもあった。罪と罰の紋章を宿すほどに。
 ナスティア王国に燦然と名を残すその人物こそが、レメクの前に『断罪官』であった唯一の人。王宮において秘中の秘と呼ばれる偉人、暁の賢者だった。
 史上二人目の断罪官であるレメクが、ステファンの後継者としてクラウドール家に養子に入ったときも、それを理由に納得する者が多かった。
 それでもステファン老と血を同じくする血族達の中には、難を示す者も多くいた。当然だろう。れっきとした王族として公爵位をもっていたステファンと違い、当時のレメクは誰の子とも知れぬ子だったのだ。
 唯一、第一位の王位継承権を持つアリステラ王女と、王宮の最大の謎と呼ばれるナイトロード卿の庇護下にあったが、それ以外は、ほとんどの者がその存在を知らなかったのである。出自など言わずもがなだ。
 だが、偉大な老公の死後、ステファンの所有地をそのまま継承したりせず、公爵位と所領を王に返上したことで、反発者の多くは納得した。
 今では自身に授けられた侯爵位と王都の屋敷だけを受け継いだ彼を、無欲の人だとする者がほとんどだ。
 むしろ、さすがの彼等も思うところがあったらしい。
 義理とはいえ老公の子であったレメクが、全くの領地無しでは『クラウドール』の名を継ぐ者の沽券に関わると思ったのだろう。頼むからどこかの領地を治めてくれと言いだし、結局は王と宰相を巻き込んで協議し、先代が持っていたのとは比べものにならないほど旨味の少ない土地を拝領することになった。しかもそんな土地を希望したのは本人だと言うのだから、レメクという男の無欲さに王侯貴族達は呆れたものだった。
 当時のあれこれを思い出しながら、ポテトはその優雅な四阿に腰を下ろした。
 かつてこの四阿が建てられた時、このあたりは寂れた場所だったらしい。
 王都は今よりもずっと小さく。今の北区のあたりは今の王城の築城の後に貴族達によって拡張された区域なのだ。現クラウドール邸の敷地は、かつての王都から離れた場所にぽつんと建つ『離れた小さな村』のような場所だったのである。
「あれから何年が経ったのでしょうね」
 白亜の柱を撫でながら呟くと、テーブルの上にバスケットの中身を並べていたレメクがそっけなく答える。
「あなたが突然姿を消してからは、だいたい十三年ですよ」
「……いやぁ、何か棘がありますねぇ……」
 ありますとも、と言いたげな目で見られた。昔なら何の感情も無く見上げられただろうが。
 それを思うと、そんな眼差し一つがとても嬉しい。
 くすくす笑う義父に、彼の内心を知らないレメクは嘆息をついた。
「陛下のことも少しは考えてください。義父上ちちうえが亡くなった後、王宮はいろいろ大変だったんですから」
「おや。ベラはとっくの昔に引退してたはずですがね?」
「……引退はしていても、影響はあります。おわかりのはずでは?」
 含みをもたせて言われた言葉に、ポテトはひょいと肩をすくめた。
 レメクと同じテーブルにつきながら、視線を遠くに馳せて呟く。
「ですが、私のような者が長々と傍にいるのは、あまり良いことではありませんしね」
「それは言い訳でしょう、お義父さん。あなたが義父上ちちうえを親友として大事にしていたことは陛下も私も知っています。傷心旅行に行くなら行くで、せめて旅先から手紙の一通でも出すべきです」
 ズバッと言われて、ポテトは恨みがましくレメクを見た。
 違うとは言い難い上に、レメクの言は正しく正論だった。
 だいたいにして、自分のような者が『契約者』を放置してどこかをフラフラすること自体、本来あり得ない。
「……呼ばれれば戻るつもりでしたよ」
 とりあえず、言い訳がてらそう言ってみる。
 けれど、おそらく自分の他に誰よりも女王を理解している男は、嘆息混じりにこう言った。
「呼ぶはずが無いでしょう。あなたが落ち着くまで。あの方は、そういう方です」
 ポテトは片手で顔を覆ってしまった。
 まったく。どうしてこう、この子達はこちらの追いつめてくれるのか。
「……人というのは存外強いのだと、思い知りましたよ……本当に」
 強く優しく気高いアリステラ。
 初めて会った時から、その黄金の輝きに射抜かれていた。
 その少女を経由して預けられた小さな赤ん坊も、驚くほど沢山のものを自分に与えてくれた。
 運命にからめとられてしまったのは、いったいいつだったのか。
 原初を問えば真っ先に浮かぶのは黄金の少女の眼差しであり、次に浮かぶのは深い悲しみと孤独を抱えた紫の瞳だった。
 比べることはできない。愛情の種類が違いすぎる。
 けれど等しく、自分にとって最愛の人。
 そして、その二人を通して知り合った最初で最後の『人』の友人は、十三年も前にいなくなってしまったのだ。
「恐ろしくなったのかもしれませんね。初めて……人の死という現象が」
 喪うという事実に打ちのめされたのは、いったいいつ以来だったろうか。
 もうずいぶんと遙かな昔、この身がまだ人であった最後の頃にまで遡るその記憶が、かの友人の死で一気に蘇った。
 恐ろしかった。そう……恐ろしかったのだ。
 死というものをよく知る自分だからこそ、あまりにも恐ろしかった。
 愛おしい者がいなくなるという現実が。愛している相手が……それも、今、すぐ近くにいる『最愛』と言える相手がいなくなるという、未来が。
「逃げたところでどうしようもありませんがね。時は決して待ちませんから」
 ポテトの声に、レメクは目を伏せた。
 時は待たない。それは、かつてレメクもベルに語った言葉だった。
 何をしていたも進む時間という名の流れは、例え目を背け、逃げたとしても決して変わらない。ただ、進む。
 そうしてその先に、生き物は死に至るのだ。
「自分という存在の弱さも思い知りましたよ。けれど、大陸を歩き通した十三年という月日は、無駄では無かったと思います」
 そう、無駄では無かった。
 離れたことでわかるものがあり、また、初めて訪れることでわかるものがある。
 ナスティア王国のこと。女王のこと。名付け子のこと。他国のこと。
 そしてその全ては、無駄では無いのだ。
「これから先、様々なことが起こるでしょう。運命は動き始めましたから」
 ポテトの言葉に、レメクは眉をひそめる。
「回避する方法は」
「あります。ですが、難しい。人というものは、全てがあなたのように倫理を備えているわけではありません」
 レメクは目を伏せる。だが、次にこちらに向けてきた目には、強い力があった。
「ですが、人が人である以上、言葉によって回避できるものもあるはずです。力で相手を服従するしか術がないのであれは、それはただの畜生です」
 その通りだった。
 だが、それがややも理想めいているのは彼も承知のはずだ。
 人は畜生では無い。だが、それと同時、平気で自ら畜生に落ちるのもまた、人という生き物だった。
「……あなたは、人のもつ可能性を信じるのですね」
「信じずして、なぜ人で在ろうなどと思えますか」
「同じ言葉を喋っていても、言葉の通じない者も多くいますよ?」
「そのときは、そのときです」
 一応、開き直る前向きさも持っているらしい。一つの方法に頑なに固執することは、妄信や執着と同じく愚かなことだった。変わらなくてはならないことがあるように、変えなくてはいけないことも世にはあるのだ。
 だが、
「けれど、それでも最後まで諦めたくはありません。諦めればその時に、全てを失うことになるでしょう。例えそれが、自分勝手な自分のためだけの理想であっても」
 その言葉に、ポテトはただ眼差しを細めた。
 言うようになった……そう思った。
 昔はどうでもよさそうだった。何かあっても、ただ「そうですか」で終わるような子供だったのだ。世の中を冷静な眼差しで眺めながら、全てを諦めているような子供……それがレンドリアという子供だった。
 それが、どうだろうか、この変わりようは。
 彼の変化がいつ始まったのかはわからない。だが、決定的な理由は最近にあるだろう。
 目に宿る強い力は、命の尊さを何よりも尊ぶものだった。失いたくないと思うものが無ければ、その強さを持つことはできない。
(……嗚呼)
 ポテトは微笑んだ。
(……あなたはようやく、手に入れたのですね)
 あの時も思ったのだ。運命とはかくあるべき、と。
 レンドリアが幼い子供の頃に諦め、けれど心の奥底で長年求め続けていたもの。
 それが予言された導きの子と重なるなど、これを運命と呼ばずして何と呼べばいいだろうか。
(私は本来、運命などという言葉は好きでは無いのですがね)
 少し皮肉にそう思う。けれど、他に言いようがないのだから仕方がない。
 しかしそれにしても、相変わらずの生真面目さが少し可笑しい。ちょっとぐらい、愚かに正義とかいう言葉を振りかざしてみてもよかろうに。そうできるだけの力と知識をもっているくせに、決してそんな言葉を使わない愛し子の性根が、ポテトにはたまらなく嬉しかった。
(どうも私達は、子供を愛しすぎたようですね、ベラ)
 懐かしい友人に心の中で語りかける。
 相手は決して何の答えも返してはくれない。それはそうだ。その人はもういなくなってしまったのだから。
 けれど、心の中にはずっといる。
 きっと、愛おしい人々の心の中にも。
 ポテトは思いを噛みしめた。幸せだと思った。
 十三年他国を巡って改めて思い知ったのだ。自分の幸せがどこにあるのかを。
 アリステラとレンドリア。
 誰よりも大切な人のいるこの国が、この場所が、自分にとっての『幸せ』であることに。
 心からの微笑みを口に浮かべた所で、ふと走ってくる小さな体に気が付いた。
 ポテトにとっては真正面だが、向かい合うレメクにとっては真後ろだ。だからまだ気づいてはいないらしい。息せき切らせて走ってくるのは、どう見ても長屋のほうに置いてきた少女だった。
「おや」
 思わず声をあげてしまった。
 その声にレメクも気づく。ポテトの視線を追って、彼は走ってくる少女に気づいた。
「ベル?」
 反射的に立ち上がって迎えに行きかけるのに、レメクは口元を緩ませた。
「まぁまぁ、レンさん。相手が一生懸命こっちに向かっているのですから、悠然と待ってあげなさい」
「は? いえ……ですが、あんなに急いで来るなど、何かあったのかも……」
「あんなに顔を輝かせて、ですか?」
 きらきらと瞳を輝かせ、頬を紅色に染めて駆けてくる少女に、レメクもしぶしぶと腰を下ろし直した。それでも迎えに行きたそうにうずうずしている様子に、ポテトはそっとあらぬ方を向いて口元を押さえる。吹き出しそうだ。
「……レンさん。私は今、なにやらすごく幸せですよ」
「はぁ?」
 笑いを堪えて言うポテトに、レメクは素っ頓狂な声を上げる。ポテトの腹筋が痛んだ。襲ってきた笑いの発作を堪えるのが、これほど苦痛だとは思わなかった。
 レメクの素っ頓狂な声など、聞けるとは思わなかったのだ。
 そうこうしている間にも、少女は四阿に到着した。はぁはぁ息を乱しながら、過たずレメクのいる椅子によじ登り、一生懸命息を整える。
「何事です?」
「ん……あの、ね。今、ね。ゲーム、してるの」
 必死に息を整えながら、ベルは目を輝かせてレメクを見た。
「それでね、今、ゲームを果たすためにね、来たの」
 意味がわからない。
 二人はそろって顔を見合わせた。
 その瞬間、ベルが背伸びした。勢いよく、そして有無を言わさず、レメクの頬にチュッと唇を押しつける。
 彼女は鮮やかな笑顔で言った。
「おじ様のほっぺに大好き! ってチューしてくるのが、あたしの役割なの。じゃあ、報告してくるね!」
 そしてポテトは目撃証人であるらしい。
 バイバイと手を振って駆け去る相手に、とりあえず音のない拍手を惜しみなく送ってから、ポテトはゆるゆると笑みを浮かべた。
 レメクを見れば、レメクはテーブルに撃沈してしまっている。
 それはそうだろう。あれは大変効いたはずだ。
 離れている自分にまで心の声が届いたほどなのだ。直接くらったレメクには大打撃だっただろう。「大好き!!」という、全身全霊の思いなど。
 ポテトはトントン、とテーブルを指で叩いた。
 撃沈していたレメクが嫌々顔を上げる。
 そのやや赤らんだ顔に笑みを深めつつ、ポテトはこう問いかけた。
 ただ一つ、間違いようのない確信を胸に。


「ねぇ、レンさん。幸せの形とは、どういうものだと思います?」




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