エピローグ


 贈られた品とその言葉に、あたしの息は止まっていた。
 誕生日に『おめでとう』──そんな言葉は初めてもらった。
 誕生日に何かを贈られたことだって、今まで一度もなかったことだ。
 自分がこの世に生まれた日。
 その日がくるたびに思うのは、「あと何年で孤児院を出されるか」ということだけだった。
 誕生日にはそれだけの意味しかなく、一年を無事に生き延びたことを喜ぶ暇もなかった。
 なのに、そんなあたしに「おめでとう」と言ってくれるのか。
 この日を迎えたことを……おめでとう、と、そう言って祝ってくれるのか。
 たった一つしか持っていない、お母さんの形見まで譲ってくれて……
「……ベル?」
 目の前にいるレメクが不思議そうに首を傾げる。
 その姿がみるみるうちに水の中に沈んで、ツンと鼻の奥が熱くなった。
「ベル? どうしたんです!?」
 慌てたレメクの大きな右手が、あたしの小さな左顔を包み込む。
 彼の左手はあたしの手を握ったままだ。
 その手の中に、奇跡がある。
 生まれて初めてもらった、純粋な祝福の形が。
(……レメク)
 あたしはじわじわと息を吐き出した。
 途端、ぽろっと目から何かが零れ落ちた。
「え。え!?」
 聞こえてくるのは、かつてないほどに狼狽えた声。
 だけどあたしの視界はぼやけていて、レメクの姿すらボヤボヤだった。
「い、嫌でしたか? いけませんでしたか?」
 おろおろと声と手が逃げてゆく。
 あたしは顔をくしゃくしゃにしたまま、エイヤッとレメクに飛びついた。
「ベル……!?」
 レメクは驚いたようだった。だが、そんなことにかまっていられない。
 後で「はしたない」と怒られるかもしれない。
 こんな所で何をしているのかと、特大のカミナリを落とされるかもしれない。
 でも、そんなのことはもう、頭の片隅からも追いやられていた。
 レメク。レメク。
 頭の中がたった一つの名前で埋まる。
 いっぱいいっぱい体の中で、光のように弾けている。
 レメク。レメク。大好き。大好き!
「……喜んでくれたようですよ」
 頭の上のほうで、ほのかに笑いを含んだ声がした。
 動揺していたレメクの体が、その声にピタッと動きを止める。
 立っているその人を仰ぎ見たのか、上体がちょっと反らされた。
 レメクのとは違う大きな手が、あたしの頭を撫でてくれる。
 どこかひんやりとしたその手は、けれどとても暖かかった。
「……そうですか。……初めてだったんですか」
 人ならざるナニカであたしの過去でも読み取ったのか、ポテトさんがしみじみと声を零す。
「……それはまた……無理もありませんね」
 どこか憂いを帯びたその声に、レメクが呆然と呟いた。
「……初めて?」
「ええ……そのようですよ。もともと、誕生日を祝うというのは、生活にゆとりがないとできないことですからね」
「あぁ……ですが、孤児院にも、出生日の記録に照らし合わせて祝い金が……」
 言いかけて、そこでレメクは口を閉ざした。
 思い出したのだろう。かつて自分が裁いた男が──孤児院の院長がどんな男だったのかを。
「……そう、ですか……」
 ふいに力を失った声で呟いて、レメクはあたしをやんわりと抱きしめた。
 優しい手が背中を撫でてくれる。
「……あなたも、今日が初めてでしたか」
 あたしは額を擦りつけるようにして頷いた。
 母がいた頃は、もしかしたら違っていたかもしれない。
 けれど、記憶にある母は「おめでとう」とは言わなかった。
 物心ついてからのほんのわずかな間だけ、おぼろげな記憶の中にいるその母は、誕生日に必ずあたしを抱きしめて、
「ありがとう」
 そう言って、ギュッとしてくれた。
 生まれてきてくれて、ありがとう。
 一年を生き延びてくれて、ありがとう。
 生きることそのものが大変だったから、無事に生きれたことに感謝していたのだろう。
 けれどその母を喪って独りになって、孤児院に入った時に「ありがとう」も失った。
 あとはただ、生きることに精一杯だった。
 必死になりすぎていて……正直、自分の生まれた日だって忘れかけていた。
 思い出したのは、レメクと出会ってからだ。
 八歳のあたしに対し、しつこく「十年後」と言っていたから。
 だから十八になるその日が待ち遠しくて、忘れかけていた記憶を掘り起こしたのだ。
 四月一日。
 あたしの生まれた日を。
「……なら、もっと良いものを贈ればよかったですね」
 どこか悄然と呟かれた声に、あたしは首をぶんぶんと横に振った。
 これ以上ないほど良いものを贈ってくれたのに、何故この人はそんなことを言うのだろう。あたしは手の中にある革袋をぎゅっと握りしめて、レメクに全力でしがみついた。
 別のを贈ると言われても、困るのです。
 そして、返せと言っても、もう遅いのです!
「……まぁ、贈り物として、アレは妥当だろうな……」
 頭の上のほうで、ぼそりと女王陛下が一人ごちた。
 レメクに張り付いたままチラとそちらを仰ぎ見ると、なんとも言えない呆れ顔のアウグスタがレメクを見下ろしている。
「しかし、レメクよ。おまえはどーしてそう、変なところで自信が無いというか、後ろ向きというか、駄目駄目なんだ?」
「……ご主人様。もう少し、優しい言葉でなじってやれませんか? ヘタレとか」
「……それ、優しいか? よけいひどくないか?」
「駄目駄目よりマシですよ」
「いや、ヘタレはよけいひどいだろう。反論できない分、可哀想じゃないか」
「なにを仰いますか。駄目駄目のほうがよっぽどひどいです。それこそ反論できなくてダメダメです」
「……二人とも、もう、あっちに行ってくれませんかね」
 頭上で変な言い合いをはじめる(ちなみにどっちのセリフもかないりヒドイ)女王様と魔王様に、レメクが視線も向けずに冷ややかに言う。
 ……拗ねたんだろうか?
 あたしは慰めをこめて、ギュッとレメクを抱きしめた。
 キュッと抱きしめ返された。
 拗ねたようです。
「……おじ様、気にしちゃ駄目よ」
 あたしは目元をゴシゴシしながら慰める。
「……ベル」
「ちょっと気弱で、ヘタレで、ダメダメで、実はけっこうおっちょこちょいなのが、おじ様の魅力なんだから!」
 何故でしょう。
 レメクが地味に落ち込みました。
「……おじ様?」
「…………」
 顔が暗いです。
「……何故おまえがトドメをさすんだ、ベル……」
「……さすが狩猟民族は一味違いますね。追い打ちの機会を見逃さないと言うか……」
 褒められました。
 目をぱちくりさせたあたしを見下ろして、アウグスタが苦笑しながらふんぞり返る。
「まぁ、あれだ。人形みたいだと評されるよりはよほど良かろう。なぁ、レメク?」
「…………」
「女の誕生日に贈り物をするなど、昔のおまえからは想像もつかんからな。そういう意味では、男前が上がったじゃないか」
「そうですよ、レンさん。無難に花とか宝石とか洋服とか小物とか贈らずに、世界に一つしかない形見を贈るだなんて、なかなかできるものではありませんよ」
 どうやらフォローにまわったらしい二人組に、レメクは胡乱気な目をむける。
「……そんなものを贈るのでよかったんですか?」
「「…………」」
 二人が揃ってレメクの肩をポンと叩いた。
「……そうですか。レンさん……誰かに対しての贈り物とか、マジメに考えたの初めてだったんですか……」
「……祭典とか式典とか国家間取引の進呈物は完璧なくせにな……」
「大丈夫です。失敗はしていません。初挑戦のわりに飛び級ですが」
「もう少し小技が効くようになったら万々歳だ。……まぁ、この朴念仁の唐変木のド変態よりはよほど見込みがある」
「ご主人様。そんなに褒めても、何もあげられませんよ? 私」
「褒めとらん!!」
 アウグスタのこめかみに青筋がたっていた。
 しかし、怒られてるのにナゼ嬉しそうななのだろう、ポテトさん。
 頬がちょっぴり染まってます。
 二人のやりとりを見守ってから、あたしはレメクに向き直った。
 愛するおじ様は、どこか薄しょんぼりと俯いている。
 革袋を右手で握ったままで左手を伸ばし、あたしはポンポンと肩を叩いてあげた。
 レメクが疲れた顔であたしを見る。
「……なんです?」
 あたしは革袋を両手でぎゅっと握り直して、レメクにとびっきりの笑顔を向けた。
「えへへ」
 思わず変な笑い声もこぼれました。
 何かを言いたいのだが、正直、何を言えばいいのかわからなかった。
 なんだかすごくソワソワするのに、どう動いていいのかわからない感じだ。
 ただ、体の奥がポカポカと暖かい。
「あのね、おじ様。……あたし、大事にするね」
「……いえ」
 なぜかレメクはあたしから視線を逸らした。そうして、ばつが悪そうに小さく言う。
「……古いものですし、それに九年後までお預けのようなものですから」
「うん」
「何か別のものをまた贈ります」
「ううん。これがいいの」
 獲られないようにぎゅっと両手の中に閉じこめて、あたしはニコニコと笑う。
「あのね、あたしもね、お母さんの形見持ってたたの。お母さんのお母さんからもらったっていう腕輪」
 レメクがふと顔色を変えた。
 あたしが過去形で話していることに気づいたのだろう。
 顔を改めて向き直るレメクに、あたしはただ微笑む。
「そんなに綺麗なものじゃなかったの。何かの骨か牙か……そういう白っぽいモノで作った腕輪でね。模様とかもほとんどかすれちゃってたし、たぶん、質屋に持って行っても、たいしたお金にはならないと思うけど……」
 けれど、それは今、あたしの手元には無い。
「孤児院に入る時にね、獲られちゃって、売られちゃって……外国の人が買って行ったらしいから、もう手元に戻ってくることもないの。あたし、あれ一個だけしか持ってなかったから、すごく悲しくて悔しくて、たまらなかった」
 記憶はすぐに薄れていってしまうけれど、形見の品はずっとそのままの形で残っている。
 だから、本当はずっと持っていたかった。
 けれど、あたしのたった一つの宝物は、もう、どこにいったかわからない。
「……ねぇ、おじ様。あたし、これ、本当にもらってもいい?」
「……ええ」
「返せって言わない?」
「言いませんよ」
「でも、持っていたい時があったら、その時は言ってね。ちゃんとおじ様の気の済むまで、一時返却しておくから」
「言いませんから」
 あたしはいそいそと長い紐を首にかけて、首から提げた革袋をぎゅっと握った。
「……えへへ」
 嬉しかった。
 たった一つしかないものを、大切な形見を、あたしにくれるその気持ちが嬉しかった。
 この形見はあたしのお母さんの形見では無いけど、レメクを産んでくれたお母さんの形見なのだ。そう思うと、胸の奥がぽかぽかして鼻がまたツンツン熱くなる。
 レメクが黙って頭を撫でてくれる。
 そうして、ほんとうに小さく、声を零した。
「……そんなに、喜んでいただけるものでは……無いんですよ」
 あたしはレメクを仰ぎ見る。
 レメクはあたしを見ていた。だが、あたしそのものを見てはいなかった。
 あたしを見ながら違う場所を見ているその目は、どこか寂しそうな、悲しそうな色をしている。
 だから気づかずにはいられなかった。今彼を占めている感情に。

 後悔────だった。

 ※ ※ ※

 月がだいぶ西に傾いた頃、ようやくあたし達はクラウドール邸に帰り着いた。
 ガラガラと音をたてて馬車が敷地内に踏み入れる。
 突如として月光が翳ったのは、森林と見紛うような庭園のせいだろう。高い木々に阻まれて、光も地上に届かない。
「……それにしても、今日はいろいろあったなぁ……」
 ふと、馬車の音にかき消されそうな小さな声で、ケニードが呟いた。
 あたしは窓の外を必死で見ていた視線を車内に戻し、どこかぼんやりとした微苦笑をしているケニードを見た。
 アロック邸の馬車の中には、あたしとレメクの他にケニードだけがいる。
 行きは一緒だったバルバロッサ卿は、久方ぶりに会うという家族のために、王宮に泊まることになったのだ。
 ケニードやレメク、そしてあたしも王宮の一室に泊まれと言われたのだが、あたし達はそれを速やかに辞退した。
 正直に言えば、慣れない場所に長居したくなかったのである。……疲れるから。
「まさか、ベルが王女様になるなんてね。……これからは、呼び捨てにもできなくなっちゃうね」
 いろいろな思いが籠もったその声に、あたしはぎょっと目を見開いた。
 慌ててケニードの方にすっ飛んでいく。
 そういえば、そんな問題とかもイロイロあったのですね!?
「そんな、嫌よ? ケニードが殿下とか呼んだり、敬語とか使うなんて」
「ん〜。でも、それが普通だからね」
「だ、だって! それなら、あたしだって、今までずっと貴族様なケニードを呼び捨てにしたり、こんなしゃべり方だったりしたじゃない!」
「それはほら、僕らは同士だから!」
「そうよ! これからも同士だから!」
 あたしはケニードの服の裾をギュッと握って、一生懸命目で訴えた。
 いきなり降って湧いたような養子の話で、彼等が変わってしまうなんて……あたしには耐えられそうになかった。
 今までずっと、あたしは彼等に、大らかな目で見守ってもらっていたのだ。
 何の力もないあたしなのに、まるで一人前の人のように扱ってくれた。子供だからと、優しく甘えさせてもくれた。
 そんな彼等に、なぜ膝を折らせることができるだろうか?
 なぜ頭を下げさせることができるだろうか?
 いつだって膝を折って頭を下げないといけないのは、あたしの方だったのに!
「……でもね、ベル。ただの貴族と、王族は違うんだよ」
「でも……!」
 反論しようとするあたしを目で止めて、ケニードはやんわりと笑う。
「王族は敬われなければならないんだ。誰もが頭を下げ、誰もが道を空ける人でなくてはいけない。権力っていうのは目で見えるものじゃないからね。対応する人々がそうやって形で示してようやく、周囲に誰が一番偉いのかを知らしめることができる」
 あたしは口を閉ざした。
 ケニードは困ったような笑みのまま、軽く首を傾げる。
 そうして、諭すように言葉を続けた。
「……もし、もしもだよ? ベル。僕が君に今まで通りに接して、王女様としていっさい敬ったりしなかったら、きっと周りの人は君を簡単に見くびってしまうだろう。王族の血を引いていない王女様は今までも沢山いたけど、たぶん君は、その中でも一番、元々の……その、ごめんよ、こんな言い方で……身分が低いんだ。孤児だっていうことも、人によっては見下す材料にするかもしれない」
 あたしはぎゅっと服の裾を握りしめた。
 それは、たしかに『無い』とは言い切れないことだった。
 いや、貴族達の思考からすれば、ごく普通にありえることだろう。
「だからね、誰もが君に丁寧に接しなくちゃいけないんだ。友達だからって君を敬わなければ、それは君のマイナスになってしまう。僕は、そんなのは嫌なんだ」
「でも……でも、ケニード」
 あたしは一度だけ唇を引き結んで、優しい友人を見上げる。
「それなら、あたしはずっと、ケニードに悪いことをしちゃったのね。ずっと、ちゃんとした接し方ができてなかったんだし」
「違うよ、ベル。思い出してごらん? 呼び捨てにしてって言ったのも、普通の会話を望んだのも、他の誰でもなく、この僕だったろう? 僕はね、もともと家の爵位も低いし、生まれが生まれなもんだから、あんまり敬語使われるのに慣れてないんだ」
「でも、ケニード……」
「けどね、ベル。王族はそういうわけにはいかない。王族という国で最も高い身分を与えられた者は、それに応じた姿を国民に示さなくちゃいけないんだ。……だから、今まで通りにはできないんだよ」
 服の裾を握りしめたあたしの手を優しく包み込んで、ケニードはやんわりと笑う。
 すると、今までぐったりと馬車になついていたレメクが、あたし達のほうを見ながら声をあげた。
「王族としての義務と、貴族としての義務を放棄することは許されません。……ベル。アロック卿の言うことは正しいのですよ」
「…………」
 きゅっと唇を引き結んだあたしに、けれどレメクは口の端を笑ませて言う。
「ですが、誰も見ていない場所なら、少しぐらい融通しても良いと思いますよ」
 その言葉に、ケニードは呆気にとられたような顔になり、あたしは大喜びで顔を輝かせた。
「ほら! ケニード。おじ様もこう言ってるわ!」
「い、いや、でも……ですけどね、クラウドール卿。もし、誰かがそれをうっかり見ちゃったら……」
「何かあっても、私がなんとかします。……アロック卿。敬語を使われるのは慣れていないと言ったあなたなら、これからのベルの気持ちを誰よりもわかってくださるのではないでしょうか? 私達が理解し得ないものも、あなただからこそ理解できるのではないかと期待しています」
「……クラウドール卿……」
「あの王宮で……親しい人にまで頭を下げられては、ベルもきっと寂しいでしょうし」
「……おじ様!!」
 あたしは目を輝かせてケニードに笑いかけ、そしてレメクに飛びかかった。どふ、とか言われた。
「おじ様! ありがとう!!」
「……いえ……お礼を言われるようなことはしていませんし、言ってもいません。ただ、ベル。あなたはこれから、自分を律すること、そして場をわきまえることをまず覚えなくてはいけませんよ。アロック卿に無理を言っているのですから、彼に迷惑がかからないようにしなくてはいけません」
「うん!」
「……これからは、『うん』ではなく、『はい』と返事するように。王宮は揚げ足を取ろうとする人々で溢れていますからね。ちょっとした言葉でも、あなたの傷になってしまいます」
 ……難しそうだ。
 あたしは情けなく眉を垂れさせながら、はい、と小さく呟いた。
 ややも疲れた顔をしていたレメクが、穏やかに笑ってあたしの頭を撫でる。
「あなたはきっと、素敵な姫君になれますよ」
 その言葉は、ものの見事にあたしのハートを打ち抜いた。
 素敵な姫君に。なれそうですと!?
 メラメラと闘志がわき上がる。
 なれそう、ではありません。
 ならないといけないのです!
 そう。考えようによっては、これはあたしにとっても大いなるチャンスなのである。
 王族という身分(つまり、侯爵であるレメクより上!)、そして教育(素敵な女性になるチャンス!)。
 いつかレメクに求婚するために、必要な土台ができはじめているのだ。これをチャンスと言わず何と言おうか!
「おじ様。あたし、がんばるわ!」
「その意気です」
「でも、たまにはぺったり張り付かせてね!」
「……女性として、それははしたないことですよ」
 そこは無視です!
 ついでとばかりにトリャサッと腹に抱きつく。苦笑したレメクが、そんなあたしの背を撫でてくれた。
「アロック卿。ご迷惑をおかけしますが、ベルのこと、よろしくお願いいたします」
「……いいえ。正直に言えば、今までといきなり変わっちゃうのは、僕も寂しかったですから」
 ほんのりと笑みを含ませて言うケニードに、レメクが軽く頭を下げるのがわかった。腹に張り付いているため、頭が微妙に胸部と下腹部でサンドイッチされるのです。引き締まった腹肉、グッジョブ。
「……まずは、ベルのこの謎思考を矯正するべきなのかもしれませんね」
 失礼な。
「あはは。でもベルのそれは、クラウドール卿に対してだけですし……ああ、着いたようですね」
 笑いながらレメクに答えていたケニードが、ふと止まった馬車にちょっぴり残念そうな顔になる。
 綺麗に玄関前に横付けされた馬車に、あたしは馬車の中をちょろちょろと走った。
「ああ、ベル。今開けるから」
「ケニード、ありがとう!」
 ぴょんとケニードに飛びついて、ぎゅっと抱きしめる。そして馬車の入り口でちんまり待機。
 さぁ、お家に帰るのです。
「…………」
 ふと、レメクがあたしを見ながらどこか困った顔をした。
 何か言おうとして、けれど言葉を飲み込んだような顔だ。
 なんでしょう?
 きょとんと仰向くと、レメクはゆるく首を横に振る。
「……いえ。なんでもありませんよ」
 ……とてもじゃないが、そんな風には見えなかった。
 だが、それを言い合うより前にケニードが馬車のドアを開けた。レメクがあたしを小脇に抱えて、そのドアからするりと外に出る。
「ありがとうございます、アロック卿」
「いえ。おやすいご用です。また何かありましたら、遠慮無く言ってください」
 テレテレと答えるケニードに、ちょっと笑ってレメクは彼に頭を下げた。
 抱えられてるあたしも、一緒にペコリと頭を下げる。
 名残惜しげにドアが閉められ、カラカラと軽快な音をたてて馬車が走り出す。あたし達はそれをしばらく見送って、家の中へと入った。
「た・だ・い・まーッ!」
 あたしはもう、大喜びである。
 なんとも言えない開放感と安堵感に、思わず玄関で両手を上げてバンザイポーズ。
 レメクの大きな手が、そんなあたしを廊下へと押し進めた。
「ほら。玄関で遊んでないで、部屋に上がりなさい。それとも、台所に行きますか? 一応、簡単なものを作り置きしておきましたが」
 どうやら、帰ってきた時のために作ってくれていたようです。たぶん、あたしが着替えに手間取ってる時に作ったんだろう。
 ……あいかわらず、そつのない人である。
「台所に行く!」
「では、それが終わったら部屋に上がっていなさい」
 レメクは目を輝かせるあたしの頭を撫でて、どこかゆっくりとした足取りで廊下を進む。
 あたしはそれをしばし見送り、カッと目を見開いた。
 お風呂だ!!
 閃きました。
(チャンス!)
 あたしは素早く部屋の一つに飛び込むと、そこにこっそり置いてあったマイ風呂桶とマイタオルを小脇にかかえた。
 そして足音を必死に殺して、トテトテとレメクの後ろをつけて行く。
 レメクはいつもより緩慢な動きで廊下を歩いている。よほど疲れているらしい。そろそろと後ろから忍び寄るあたしに気づくことなく、いつものようにお風呂場へ。
 GO!
 あたしはレメクがドアを閉めるより早く、その中に体を忍び込ませた。
 潜入成功!
 ぱたん、と仕舞った扉の前で、あたしは輝く顔でバンザイポーズ。
 しかし、ここで気を緩めてはいけないのです。
 サッと身構えてレメクを見る。
 いつもこの寸前でバトル発生になるのだが、今日は中まで入れました! けれどこれからが本番なんです!!
 ペイッと放り出せれないよう身構えたあたしに、けれどレメクは背を向けて壁に体を預けてしまった。
 ……あれ?
 そのままのろのろと上着を脱ぎ落とす。
(……レメク?)
 床に脱ぎ落とされ、放置される白い上着に、あたしは体が徐々に冷えていくのを感じた。
 おかしい。
 レメクが、服を脱ぎ散らかすだなんて、ありえない。
 畳むこともせず、落とされたままの上着を拾い、抱きかかえ、あたしはそろそろとレメクの視界へと踏み入れた。
 変だ。変だ。なにかが変だ。
 どこか疲れた横顔が見える。そんな位置まで来ても、レメクはあたしに気づかない。
(レメク)
 心臓がトコトコと小走りに走り出す。
 嫌な予感がした。とても嫌な予感が。
 そろそろと動き、ほぼ真正面に来たところで、レメクがふと足下のあたしを見る。
 襟元のボタンを外そうとしている最中だったらしい。あれ? と呟きそうな眼差しで、彼はあたしを見下ろした。
「……ベル?」
 そうですとも。ベルですとも。
 あたしはマジメな顔でこっくりと頷く。
 今の今まで気づかなかったらしいレメクは、やや驚いた顔であたしを見下ろし、
「なぜ……」
 そうして、どん、と背中を壁に打ちつけた。
「「え……?」」
 あたしとレメクの声がハモる。
 レメクの上体が揺れた。同時に、その瞳の中の光がふいに消えた。
「おじ様!?」
 足が崩れた。壁に背をつけたまま、ずるずると床に落ちたレメクに、あたしは上着を放り出して駆け寄る!
「おじ様!」
 体が傾ぐ。床に倒れそうなその上体をあたしは賢明に抱き留めようと突進し、
「ぷぎゅっ!?」
 潰されました。
 ……体格差は、いかんともしがたかったです。
「むぎゅ……ぉ……おじ、さまっ!」
 モガモガと重たい体の下から半身を抜き出し、あたしは体を捻ってレメクを見る。
 そしてゾッとした。
 触れたレメクの体は熱く、顔は青白いぐらい白かった。
「おじ様ッ!!」
 あたしは叫んだ。脳裏にお母さんの姿が浮かんだ。
 路地裏で、冷たくなってしまった母。
 消そうとしても消えない、不吉な光景。
 ……知っている。人とは、ほんの些細なことで命を落とすのだと。
 まるで冗談のように、突如としていなくなってしまうのだと!
「レメク!!」
 あたしは叫んだ。
 けれどその瞼は開くことなく、力無く投げ出された手は、ピクリとも動かなかった。






                                  王宮編 陰謀の章へ続く。













こんな隅っちょまで目を通してくださる、そんな貴方が大好きです。
第一部の折り返し地点であり、王宮編四部作の一つ、「起」となる求愛の章、終幕となりました。
とはいえ、物語はむしろ始まったばかり。
次章、陰謀の章でお会いできれば幸いです。
そして、少しでも楽しんでいただければ……光栄です^^
前頁   次頁   小説目次頁   一次小説TOP頁
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