7 物語のような王子様

 大岩を砕くときに使う危険な薬を『火薬』といい、これを革袋や樽に詰め込んだものを『爆弾』と呼ぶ。
 昔、採掘場に居たというおっちゃんから聞いたところによれば、その『爆弾』とやらは凄まじい破壊力をもつのだそうだ。
 なにしろツルハシすら折れちゃう岩盤を、一撃で砕いてしまうのだから凄まじい。一度でいいから本物を見てみたいものである。
 ただし使っている所を見る場合、必ず両耳をしっかり塞がないといけないらしい。
 なぜなら爆弾が使われる時、それはそれは恐ろしい音がするのだとか。
 噂によると、幾つもの雷が一度に落ちたかのような轟音なのだそうだ。
 ……本当だろうか?
 その真偽のほどはともかく、故に周囲の人々が仰天して大声をあげちゃうような発言を爆弾発言と呼ぶのである。
 だがしかし、世の中にはそうと呼ばれるのに相応しくない発言もある。
 あたしはぎゅむっと唇を引き結んで、ものすごーく苦い顔で前に立つ大きな熊男を見上げた。
 場所は大広間から出たところにある大きな通路。
 綺麗な中庭の一つに面しているそこは、何人もの人が並んで歩けるぐらい広々としていた。
 今は誰もいませんが。
 中庭には瀟洒な噴水もあって、やや水気を帯びた涼しい風がそよそよと流れている。
 月明かりに照らされた中庭はとても綺麗で、あたし達以外見る人が誰もいないのがもったいないぐらいだった。
 ……というか、どうせならレメクと一緒に見たかったです。はい。
「だからな! ああいうことは言っちゃイカンと言っとるんだって!」
 あたしの目の前にいるバルバロッサ卿は、それこそ苦虫を十匹まとめて噛み砕いたような苦り顔でそう言った。
 ずっと一緒にいてくれたレメクと離れ、彼と二人でこんなところに居るのには訳がある。
 あたしの発言に色めきたった紳士淑女が、矢継ぎ早にいろんな質問をあたしにしてきたのである。
 途端、レメクはあたしをバルバロッサ卿に押しつけ、バルバロッサ卿は即座にあたしを抱えてその場から逃走。
 そして今に至るというわけである。
 あたしはぎゅむむむーっと唇を一層引き結ぶ。
 突然退場させられたのも不満なら、大好き発言をイカンと言われるのも不満だった。
「なんで大好きって言っちゃいけないの?」
 ハッキリ言って納得いかない。
 大好きな人への気持ちをきっちり言っただけなのに、何故それを爆弾かつ問題発言呼ばわりされなくてはいけないのか。
 確かに言った途端にあがったどよめきは、閣下の時と同じぐらいすごかった。
 すごかったが、むしろ問題はあたしの発言じゃなく、驚く周囲の側にあるんじゃないかと思う。
 レメクぐらい素敵な人だったら、誰だって大好きになるはずだからだ。
「だから……」
 頭を掻きながら嘆息をつき、バルバロッサ卿は軽く天井を見上げる。
 探していた言葉は見つかったのか、もう一度嘆息をついてあたしを見下ろした。
「社交界っちゅーやつはな、本音をのらくらと隠しながらそれとなーく臭わせるような言葉で話すのが普通なんだ。それをズバッと本音で言うなんて……おまえさん、『はしたない』とか周りの連中に思われちまうんだぞ?」
 むぅ……!
「そ、そんな変な常識なんて、知らないもん。それに、子供が素直でどうしていけないわけ?」
「ん〜むむむ……子供だから寛容な目で見てくれる可能性もあるが……いや、だからって軽く考えてるとデッカイ落とし穴にはまっちまうぞ。いいか、嬢ちゃん。さっきのはもうやっちまったことだから、しょうがねぇと諦める。だが、これからは言動に気をつけろ。せめて、ハッキリ名言するのだけは避けてくれ」
「……だから、なんで?」
「それがルールだからだ。ルールが守れなきゃ、どこでだってつまはじきにされちまう。そうだろ?」
 バルバロッサ卿の声に、あたしは沈黙した。
 規則ルールと言われてしまえば、それに従うしかない。例え納得できなくてもだ。
「……わかった」
 しゅんとして頷くあたしに、バルバロッサ卿は安堵のため息をつく。
 頭をガシガシと掻いて、ほろ苦い笑みを口元にはいた。
「……おまえさんが不満に思うのもしょーがねぇんだがな。オレだってあんまり納得してねぇ。けどまぁ、納得できなくても合わせなきゃならんこともある。自分のやりたいよーにやっちゃならん場所ってのは、世の中にはいっぱいあるもんだ」
 あたしは俯き、ややあって小さく頷いた。
 自分の言いたいことややりたいことが出来る場所というのは、本当にものすごく少ない。ごく親しい人達だけの間とか、家族の間とか、そういう場所だけだからだ。
 それ以外の場所で無理やり我を通せば、必ずどこかで報いを受ける。
 なぜなら、人にはそれぞれの思いや考えがあって、絶えずそれはどこかで誰かのソレにぶつかっているからである。
 こんな大きな場所の、身分も位も高い大人ばかりが集まる場所なら尚のことだろう。
 何も知らない者が知らないままに好き勝手できるわけがないのだ。
「……いや、まぁ、そんなしょげんでもな……ほら、レメクが上手くとりなしてくれるって」
 今更ながらに自分の言動への反応が恐くなったあたしに、バルバロッサ卿がフォローを入れる。
 あたしはしょんぼりと大きな偉丈夫を見上げた。
「……あたし、またおじ様に迷惑かけたのかな」
「……エーいや、なんつーか……困ってたっぽいが、あれでも一応それなりに喜んでたように見えたり見えなかったり」
 どっちなんだろうか。
 しょんぼり顔のまま胡乱な目になったあたしに、バルバロッサ卿はさらにガシガシと頭を掻く。
 せっかく格好良くまとまっていた髪が、見る間にぼさぼさになっていった。
「あいつの表情って分かりにくいんだよ。嬢ちゃんが来てからは、それなりに感情が表に出てるけどな。基本的に無表情だろ?」
 ……そうだっけ?
 あたしはちょっと遠い目になった。
 どちらかと言うと、基本『ちょっと困り顔』な気がするのだが。
 ……いや、『恐れ』とか『怯え』かもしれませんが。
「……ああ……なんつーか、そっちでは別か。だろうな……。いや、それはいいとして。俺等には基本的に無表情なんだよ、あいつ。昔なんて死んだよーな目ぇしてたしな。笑い顔なんぞほとんど見たこと無いし、いろんな意味で恐い奴だったからな」
 そうだろうか?
 あたしは一層遠い目になった。
 今はどちらかと言うと、あたしのほうがレメクに怖がられてる気がするのだが。
「喜怒哀楽ってぇのが見えなくてな。つっても、怒ってるのとかはわかるんだよ。それも冷ややかに怒るんだよコエーコエー。底冷えするような目でジローって見つめられてな。めちゃくちゃ冷たい声で怒られるわけだ。……最近どっちかって言うと叫んでるけどな」
 あたしは常に叫ぶタイプで怒られてます。
 風呂を覗こうとしてはいけません!! とか。
 トイレについてきてはいけません!! とか。
 人の下着を盗ってはいけません!! とか。
 ……なぜでしょう? やっちゃいけないことばかりです。
 大まじめに考え込んだあたしの前で、バルバロッサ卿も大まじめな顔でしみじみと言う。
「なんつーか、喜んでる所とか、悲しんでる所とか、楽しんでる所とか……そーいうのが無かったんだよなぁ……。なんかいつも淡々としててな……あぁ、こいつ生きてないんだなぁ、って思ったもんだ」
「?」
 その言葉にあたしは首を大きく傾げた。
 ちゃんとそこで生きているのに、『生きてない』っていうのはどういう意味だろうか?
 けれどあたしが問うより早く、バルバロッサ卿はチラッと笑みを零す。
「けどな、おまえさんが来てから、あいつ目に見えて喜怒哀楽が出始めてよ。俺ぁビックリしたね。あいつが帰ってくると、おまえさん、全力で走って抱きつくだろ? お帰りっつって。あの時とか特に顕著なんだよ。いやもう、あぁ、こいつ今嬉しいんだな、とか思っちまうぐらいに」
 そ……そうだっけ?
 あたしは更に更に遠い目になった。
 最初にやったときは逃げ腰になられたし、一ヶ月経った頃ぐらいに諦めたようなため息をつかれ、最近になってやっと慣れてもらった感じなのだが。
 あれでも喜んでたんだろうか?
 しかし、喜ばれるようなことだっただろうか?
 もちろん、あたし自身は大喜びでやってるのだが。
 目をぱちくりさせているあたしに、熊さんはガシガシと頭を掻く。もう完全に夜会仕様から普段仕様に変わっちゃった髪型で、バルバロッサ卿はいつもと同じ男臭い笑顔を浮かべた。
「んー、あぁ、何言いたかったのかわからんようになっちまったが。まぁ、なんだ。レメクが嬢ちゃんを迷惑だって思うワケねェから。そういう心配はすんなよ?」
 がしっと大きな手があたしの頭に置かれる。いつもみたいにワシワシと撫でなかったのは、あたしの髪型を考慮してのことだろう。
「さて。レメク達が上手く応対してくれてるだろうから、その間に俺等は用を足しに行こうか」
「用を足す?」
 背中を押されて転びそうになったあたしは、相手のぶっとい足にしがみつきながら問う。
 バルバロッサ卿はきょとんとした顔になってから、ニカッと笑った。
「便所だ、便所。ちょうどそこの廊下の所にあるんだよ。大広間には無いからな。あんまりこっちに行ったり来たりすると影で笑われちまうから、この機会に行っちまうほうがいいだろ。男と違って、嬢ちゃんは茂みで飛ばすわけにゃいかんのだから」
「……バルバロッサ卿も言動には気をつけたほうがいいと思うわ」
 茂みで飛ばす、なんぞ普通に『難』だと思うのだ。
 いろんな意味で。
「まぁ、気にすんな。ほれ、行った行った。待っててやっから」
「あい」
 促す声に素直に頷き、あたしはちまちまと歩き出す。ちょっぴりずつしか進まないあたしを見て、なぜかバルバロッサ卿が「ぷ」と吹き出した。
 失敬な!!
「失礼よバルバロッサ卿! すごい失礼よ!?」
「あ、いや、悪ぃ悪ぃ! はっはぁ、なんか、よちよち歩きの赤ん坊みた……」
「失敬なーッ!!」
 ぽかすかと殴るが、大熊にはたいしたダメージでは無いらしい。あたしは口を尖らせ、バルバロッサ卿に憤然と背中を向けた。そして勢いよく歩き出す。
 よちよちよち。
「……ぶはっ!」
 背後で豪快に吹き出す音がした。

 ※ ※ ※

 バルバロッサ卿は大変イイ男です。
 けれど、女心をわかってはいないのです。
 レースのハンカチで手を拭きながら、あたしは盛大に唇を尖らせていた。
 あの後、あまりにも歩みの遅いあたしを見かねて、バルバロッサ卿はあたしを抱えてトイレの入り口まで運んでくれた。
 それはとても素晴らしい紳士っぷりだと思う。……ええ、笑ってさえいなければ。
 眉をギュッとしかめて、あたしは一層唇を尖らせる。
 歩くのが下手なあたしの仕草は、きっと見ていてとてもオカシイのだろう。
 笑いたい気持ちもよくわかる。だが、あんなに笑うことは無いと思うのだ!
(レメクは笑ったりしないのに!!)
 愛するおじ様はほんのり笑顔になるだけで、あんな風に笑ったりはしない。
 ほろりと口元をほころばせて、なんとも言えないなま暖かい眼差しで微笑む。あれぐらい大人な対応をしてほしいもんである!
 ……ん?
 なにか今、ちょっと心に引っかかったような?
(……おかしいわね。なんでかしら)
 あのほんのり暖かい微笑みが、今更ながらに引っかかる。
 とても優しい眼差しなのに、優しすぎる色合いが微妙な感じ。
 なんかこう……ほんのりと。
(……ま、まぁ、いいわ)
 ハンカチを丁寧に畳みながら、あたしは考えを中断させた。なんだか気づいちゃいけないことまで気づきそうで、心にそっと蓋をする。
 かわりに、丁寧に畳んだハンカチを大きく広げ直した。
 とたんに可愛らしい花畑が目の前に広がる。
 白一色のそれは、汚れ一つない艶やかな絹。
 一見するといっぱい刺繍の入ったのハンカチのようにも見えるが、実は驚くほど細かい模様の総レースである。
 丁寧に丁寧に編まれた可愛らしい花の中に、小さなベルが紛れ込んでいる。
 どこに売っている品か知らないが、とても手の込んだ代物だった。
(このベルって……あたしの名前に因んでるのかな?)
 脳裏に数時間前のレメクを思い浮かべる。
 珍しい真珠色の礼服と、濃紺のマント。金糸の縁取りがついたそれを纏った姿は、どこか物語に出てくる王子様みたいだった。
 ……ちょっと年くってるけど。
(いやいや)
 あたしは緩く首を左右に振る。
 あの風格はむしろ王様みたいだと言うべきだろう(そしたら年齢関係ないし)。
 立派な王冠と錫杖をもたせればきっと素晴らしく似合うに違いない。
 うっとり。
 せっかく揃いの服を着ているのだから、あたしも似たようなマント羽織って横に並びたいです。
 ちんまり。
 ……。
 ……あれ?
 なんでだろう……?
 ……なぜか今、心がとてもヘコみました。
(いやいや)
 あたしはもう一度首を左右に振る。今のは無かったことにしよう。
 そう、ハンカチを貰った時の話である。
 あれは家を出る直前だった。
 歩く練習をかねて玄関までよろよろと進んでいた時、あたしは見守ってくれていたレメクに呼び止められたのだ。
 振り仰いだあたしに何かを言いかけ、しばし迷い、ちょっと困ったように微笑って彼は懐からこのハンカチを取り出した。

 ──あなたの初めての夜会が、つつがなく終わりますように。

 そう言ってそれを渡してくれたレメクは、いつになく真剣な顔をしていた。
 もしかすると、このハンカチはお守りなのかもしれない。
 ハンカチ全体に花畑のように編まれた花は、あたしの大好きな蒲公英ダンデライアンだ。確か宿のおねーちゃんが、すごくイイ花言葉をもってると言っていた。
 ……忘れちゃったけど。
 それはともかく。
 真剣な顔をしていたレメクは、あたしが神妙な顔で受け取ると、どこか安堵したように微笑わらってくれた。
 あの染みいるような笑顔はとても素晴らしかった。あたしが見たレメクの笑顔の中で、五指には入る素敵さだったのだ。
 うっとり。
(それにしても……)
 あたしは手に持ったハンカチを見下ろす。
 改めて思うが、よくこんな品が売っていたものである。
 普通、レースのハンカチだったら薔薇とか百合とか、そういう高貴そうな絵柄のほうが人気だろう。
 蒲公英は野草である。そこらにちょろっと生えている花なのだ。
 わざわざそんな花を選んで作るだなんて、普通ならありえない。
(もしかして、レメク……)
 あたしは久しぶりに小さな脳みそで推理をする。
 珍しく冴え渡ったあたしの頭脳が、ピンと答えをはじき出した。
(さては特注しましたね!?)
 きっとレメクのことだ、職人街のお針子さんに注文して作ってもらったに違いない!
 この素晴らしく細かな編み目! 丁寧な仕上がり! まさに職人芸な逸品である。
 きっと作った人は名のある職人さんなのだ!
(おじ様……ッ!)
 そこまでして『お守り』を作ってくれ、さりげなく渡してくれるだなんて、嗚呼あのお人はなんて素敵すぎる人なのだろうか!!
 お手洗いの窓から見える星を見上げつつ、あたしは目をキラキラと輝かせる。そして、丁寧に丁寧にハンカチを畳んだ。
(んっふっふ。この名推理を披露して、レメクに頭撫でてもらわなくちゃ!)
 そしてお礼を言いながら、思いっきり甘えるのだ!
 よし、と気合いを入れてあたしはよちよちと歩き出した。
 と、数歩も行かない所で我に返る。
(……いや、待てよ? 確かスキスキオーラをハッキリ見せちゃいけないんだよね?)
 つい先程バルバロッサ卿から釘を刺されたばかりだ。
 それとなく臭わせるのはいいけど、面と向かって好きと言ってはいけないのである。
 ということは、もちろんハグも駄目だし頬ずりも駄目だ。
 どうしよう。
(臭わせる程度の愛情表現って……どんなの?)
 直接「好き!」っていうのがわかるのはいけない。
 でもほっぺにチューは閣下も推奨してくれた。
(ということは、お触り程度ならオッケー?)
 腰とか腰とか腰とか。
 もしくは、尻とか尻とか尻とか。
 よし、と握り拳をつくって、あたしは今度こそ出口に向かって歩き出す。
 ただ出口から出る前に、ちょっとだけ心に引っかかりを覚えて首を傾げた。
(なんか……大事なこと忘れてるような……?)
 なにかハンカチ関連で、ものすごく大事な事があった気がする。
 なんだっけ?
 あたしは首を傾げながら外に出た。
 何故かは不明だが、ものすごくもったいないことをしたような気がしました。

 ※ ※ ※

 大きな大きな大神官様は、聖職にいらっしゃる方ですが男性です。
 男性だということは、女性用のお手洗いには入れないということです。
 お手洗いから出たあたしは、近くにいるはずのバルバロッサ卿を探してきょろきょろと周囲を見渡した。
 出入り口近くで待っててくれているはずの相手は、けれど目に見える範囲には居なかった。
(……あれ?)
 あたしは首を傾げる。
 慣れない靴とドレスのせいであたしの歩みは亀より遅い。
 だからお手洗いにもすごく時間がかかったのだが、バルバロッサ卿はだからと言ってどこかに行ってしまうような人では無い。
(何かあったのかな……?)
 あたしはもう一度周囲を見渡す。
 小波のように寄せては引く、どこか遠い大広間の音楽。
 人々の笑い声も話し声もひどく遠くて、あたしはじわじわと不安が増してくるのを感じた。
(……どこ行っちゃったんだろ……?)
 黙ってどこかに行ってしまうような人では無い。
 もし何かあったなら、例えマナー違反だろうとお手洗いの中のあたしに声をかけていくはずだ。
 それすらも無かったのだから、もしかすると退っ引きならないことがあったのかもしれない。
 けど、こんな場所で……?

 ──王宮とは魔窟です。

 ふと、耳の奥でレメクの声が響いた。

 ──本来なら、あなたを連れてくるべき場所ではありません。

 王宮が魔物の棲むという場所ならば、棲んでいる魔物はどこにいるのだろうか。
 あたしはもう一度周りを見渡した。
 心臓がトクトクと忙しなく鳴っている。
 どこからともなく耳鳴りがして、唾を飲み込む音が体中に響いた気がした。
(……レメク)
 あたしは魔法の呪文をそっと唱える。
 頭の中にその人が鮮やかに浮かんで、不思議とその瞬間だけは鼓動も落ち着いた。
(……レメク)
 あたしはもう一度周囲を見渡す。
 バルバロッサ卿は何処だろう。
 早く合流して、レメクの傍に帰らなくては。
 あたしはもう一度周囲を見渡し、
(…………)
 ある一点で硬直したように動きを止めた。
 一瞬だが、呼吸も止まったような気がする。
 廊下を見たあたしの目が、そこに立っている少年の姿を捕らえている。
 いつからそこにいたのか、
 いや、
 いつのまにそこに現れたのか、
 あたしにはよくわからなかった。
 年の頃はあたしより少し上か。一目で上物とわかる贅を凝らした衣装に、品良く整った可愛らしい顔立ち。
 それこそ物語に出てくる王子様のようなその少年は、あたしを見てにっこりと笑った。

「初めまして、藤の花の姫君。僕の名前はシーゼル。……君の名前を教えてもらってもいいかな?」


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