9 目覚めた朝に

 ざわめきが夜空の星々を瞬かせ、深い地上の闇へと仄かな灯りを投じさせる。
 常には静寂と闇が支配する路地に、今は煌々と灯りがともされていた。石畳を足早に駆けるのは何人もの兵士。その顔には緊張が濃く、同時に使命感に燃えているようであった。
 風は無く、夜は深く。けれど動き続ける人々の熱で、路地の中は活気に満ちている。
 路地裏の野良犬がふと顔を上げ、誰も気づかないあたしを真っ直ぐに見た。ややも警戒の色の強いその瞳が、ふと懐かしいものを見たかのように和らぐ。
(あら、ベン。そこにいたの?)
 あたしは声をかけた。やせ細った野良犬はしっぽを振った。
 彼はあたしの顔見知りの犬だった。孤児院の裏で、ともに暖を取り合って過ごしたり、同じ残飯を食べたこともある。
 ベンはしっぽを振りながらあたしへと近づき、フンフンと鼻を動かせた。
(お腹空いてるの?)
 問うと大きくしっぽを振られた。あぁ、どうしよう……
(ごめんね。あたしも、何も持ってないの)
 あたしはしょんぼりと告げる。ベンは耳を垂れて首を傾げた。困ったような顔に見えた。
(でも、おじ様なら何か持ってるかもしれないわ。……あれ? そういえば、あたし、どうしてこんな所にいるんだっけ?)
 あたしはベンと同じように首を傾げる。
 あたしは、あたしは……あぁそういえば、そもそもあたしはいったい、どこにいたんだっけ?
 馴染みの路地をぐるりと見回しながら、あたしはさらに首を傾げた。
 ものすごく乏しい記憶回路を辿る。(あたしは……)と頭を抱えたところで、巨大な美乳が浮かんだ。そうだ、アウグスタに抱きしめてもらって、レメクの匂いを嗅ぎながら幸せなスリーピングタイムに入ったんだ。あれは確か、えぇと、孤児院の一角じゃなかったっけ?
 あたしは一層首を傾げる。おかしい。どうして、孤児院の一角にいたはずのあたしが、こんな所にいるのだろうか?
(あたし、いつの間にこんな所まで歩いてきたんだろう? そ、それに、どうして誰もあたしに声をかけてくれないんだろう?)
 周りの兵士達は誰も彼も忙しそうで、あたしに全く気づいてくれない。唯一あたしに気づいてくれたのは、横でしっぽを振っているベンだけだ。
(よくわかんないけど、帰らなきゃ。またおじ様達に迷惑かけちゃうし。……孤児院は、あっちよね。ねぇ、ベン。一緒に行ってくれる? あたしの御飯分けてあげるから)
 あたしはベンを振り返った。けれどベンはあたしを見て首を傾げ、孤児院とは逆の方向へと歩き始めた。
(え。ちょ、ちょっと! 行っちゃうの?)
 あたしはしょんぼりして叫ぶ。ベンはしっぽを一振りしてから、チラッとあたしを振り返った。
 ついておいで、と。そう言われている気がした。
 あたしは孤児院の方を振り返る。兵士でごった返している孤児院を。
 もう一度ベンを見た。ベンはあたしを振り返った姿のまま、鼻をくいっと動かす。
 あたしはそろそろとベンの方に歩き、ゆっくりと歩み出したベンの横にくっついた。
(ねぇ、ベン。どうしたの? どこに行くの?)
 あたしの声に、ベンはブルルッと体を軽く震わせる。
 ベンは頭のいい犬だった。年経た者はそれだけ知恵に長けている。ベンはこの辺りの野良犬の中では最年長だった。あたしはまだ経験の浅い頃、このベンに何度か窮地を助けてもらったことがある。
 人の言葉を喋るわけではないけれど、きっとベンはあたし達の言葉を理解しているんだろう。
 あたし達は路地を歩く。その道を孤児院を振り返りつつ眺めて、あたしはハタと気づいた。
(もしかして、ベン。あたし達が戦ってた場所に行こうとしてるの?)
 ベンはしっぽを大きく振った。
 あたしとカッフェと、ナナリーとニアとミリア。あたし達が、孤児院にも入れなくて足踏みしていた場所。そしてエットーレと戦った場所。
 そして……レメクに助けられた場所。
 あたしはぎゅっと胸のあたりを掴んだ。
 冷たい痛みがそこから全身を貫いて、一瞬足がもつれる。
 ベンがあたしを振り返った。
 おいで、と。その目が言っていた。おいで。会うべき人がいるから。
 あたしはベンに導かれるようにして歩き、路地からちょっと中に入る小道へと足を踏み入れた。
 路地裏の中でも、知る人ぞ知る小さな裏道。そこは少しだけ空き地のようにぽかっと広くなっている。
 闇に半身を隠した月が、その路地を照らそうと光を投げかけていた。瞬く星々もまた、そこへと煌めきを投じようとしている。
 その中に、ひっそりと人が立っていた。
 あたしは歩みを止める。
 小さな空き地の中に、荒い筵《むしろ》を幾重にも重ねられたものが置かれていた。その下に何があるのか、あたしは知らない。それなりに大きいらしく、こんもりと盛り上がっている。
 その筵の山の前に──レメクが立っていた。
(……おじ様?)
 あたしは声をかける。
 灯りを掲げるでもなく、ただそうやって突っ立っていたレメクは、あたしの声にどこかぼんやりと振り返る。なんだかいつもと様子が違う。不思議そうに首を傾げる仕草も、どことなくぼんやりしている。
(……ベル?)
 あたしは頷いた。駆け寄りながら、入り口付近でちょこんと座ってしまったベンに手を振る。ありがとう、ベン。レメクのことを教えてくれて。
 ベンは軽くしっぽを振った。あたしはそれに笑ってから、レメクに飛びつく。……飛びつけたと思う。けれど、暖かさやあの優しい匂いは感じられなかった。
(おじ様、これは何? それに、どうしておじ様もこんな所に?)
 あたしの声に、レメクは呆《ぼう》とした眼差しであたしを見た後、ゆっくりと視線を足下の筵の山に移した。
 どこかため息をこぼすように、声を落とす。
(エットーレですよ)
 あたしは瞬きした。エットーレ?
 でも、どうして筵をかけられて……
(……え?)
 ふと気づいたその事実に、あたしは目を瞠る。レメクは、ぼんやりとエットーレを見下ろしたまま頷いた。
(ええ。……ここにあるのは、かつてエットーレであった者です。……私が、裁きました)
 レメクが、裁いた。
 あたしはレメクを見る。
 死罪を宣告された人を裁いた。ならば、それは──
 レメクは眼差しを伏せる。深い悲しみがそこにあった。……後悔と共に。
(……罪と罰の紋章は、本来、死罪と決まった者の真実を選別するために使うべき紋章。冤罪による死を回避させるための、最後の手段であるはずだった……)
 胸の奥が冷えていくような寒さを感じ取って、あたしはレメクにしがみついた。体温は感じられなかったが、それを疑問に思わなかった。ただ伏せられた眼差しが悲しげで、寂しげで、それを取り除いてあげたかった。
(使うべきでは無かった……。例え指示されていたとしても、いつか別の時、別の場所で使わなくてはならなかったとしても……今、ここで、裁く理由などなかったのです。……分かっていました。こうなることは……。けれど、私は止められなかった。悔しかった。腹立たしかった。この男が、憎かった……)
 吐露された言葉はあまりにも重く、あまりにも悲しく、憎しみが持つどす黒い感情からはほど遠かった。
 ただ悲しい。
 ただ、辛い。
 そんな深い後悔だけが滲んでいる。
 あたしはレメクをぎゅっと抱きしめた。
 優しいこの人に、温もりを伝えたくて。
(……子供らを死においやったこの男が、憎かった……)
 悲しみを和らげてあげたくて。
(あなたを痛めつけたこの男が、憎かった……)
 その痛みを分かち合いたくて。
(……憎しみで死を与えたのです。……私こそ、最も唾棄すべき殺人者でしょう……)
 あたしは首を横に振った。
 けれど、違う、とは言えなかった。
 違うと、言ってはいけなかった。
 レメクは分かっている。例えどんな理由があったとしても、命を奪うということがどれほど、罪深いことなのか。
 あたしも分かっている。例えどんな言い訳を用意したとしても、それは本当に、ただの『言い訳』にしかならないということを。
 例え誰かにとってそれが正義でも、
 誰もにとってそれが「正しい」と言えることであっても、
 感情で命を奪う行為を、決して認めてはいけないのだということを。
 それこそが絶対の掟。生きとし生けるものが持つべき、絶対的な不文律。
 この世に生まれ生きる者が持つべき、犯してはならない掟。
(ねぇ、おじ様)
 あたしは声をかけた。この優しい人が、自分の罪にこれ以上自分自身を傷つけないように。
(正しいことでなくても、忌むべきことであっても……誰かがそれをしなければ、いけない時があるわ)
(えぇ……けれどそれを、認めてはいけないのです。認めることで、言い逃れてはいけないのですよ)
 あたしは強情なその人の掌を軽くつねる。聞き分けのない子供を怒るように。
 レメクはあたしを見下ろした。ちょっと眉が下がっていて、困った顔に見える。
(ベル。あなたは、刃を振り下ろさなかった)
 優しい手が伸びてきて、あたしの頭をそっと撫でる。
(あなたは、罪を犯さなかった)
 困った色を宿していたその顔がほころぶように笑む。
(……私には、それがとても眩しく、同時に、とても誇らしい)
 その言葉に、あたしは何と応えていいのだろうか。
 涙がこぼれそうだった。自分の罪深さを胸に深く刻みながら、他者の美徳を誇らしく褒められる、このどこまでも潔い人が、ただ愛おしかった。
(おじ様の顔が浮かんだの)
 あたしはレメクの掌に自分の頭を擦りつける。
 思いが溢れた。苦しくてせつない思いが。
 あたしがエットーレに刃を振り下ろさなかったのは、あたしが正しい者だったからじゃない。あたしがあたしを止めたわけじゃない。
(おじ様が止めてくれたの)
 あなたが教えてくれた。あなたが語ってくれた。あなたが示してくれた。
 沢山の事。沢山の言葉。沢山のあり方。それがあたしを正しくあるべき場所へと引き留めた。罪を犯すのを止めてくれた。してはいけないと、手を汚してはいけないと、血に染まってはいけないと。
 あたしじゃない。あたしだけじゃない。あたしの手をとってくれたのは、この手の凶刃を止めてくれたのは、他ならない、この誠実な優しい愛する人だ。
(おじ様があたしを守ってくれたの)
 罪から。あの狂気から。奈落のような身の内の憎悪から。
 レメクは何も言わない。
 ただ、視線だけがあたしへと注がれる。
 あたしは微笑った。ありったけの思いをこめて。
(ねぇ、おじ様。例えあなたが罪を犯しても、あたしはその罪ごとあなたを受け入れるわ。例えあなたがあたしの罪を止めてくれても、あなたがいる場所だけがあたしの居場所だから……あなたと同じものをあたしは背負うわ)
 例えそれをレメクが望まなくても。
 例えどんなに拒まれても。
 一人で綺麗な場所になんて立ちたくないから。どんな場所でも、どんな罪でも、一緒に背負って生きていきたいから。
(よく言うでしょ? おじ様。死が二人を分かつとも、って)
 レメクはちょっと目を瞠って、それからほろりと微苦笑を浮かべた
(死が二人を分かつ『とも』ですか)
 あたしは微笑った。微笑ってレメクの手を握りしめた。
(そうよ。死が二人を分かつとも、よ)
 レメクが柔らかく握りかえす。強く暖かいその感触。暖かい。体温は感じないのに、けれど暖かいと思うその感覚。
 たぶんそれを、人は愛と呼ぶのだろう。
(エットーレを殺したのは、あたしが半分。憎しみで刃を降ろしたのも、あたしが半分。悔しかったのも、憎かったのも、恨みを募らせたのも、怒りを覚えたのも、殺してやりたいとすら思ったのも……ねぇ、おじ様、あたしと半分こよ?)
 あたしの気持ちはあたしだけのものだけれど。レメクの気持ちはレメクだけのものだけれど。足して割って二人で分かって。ねぇ、二人で分かち合いましょう。この時と空の下で。あたし達の在るべきこの世界で。
 レメクは何も言わない。ただ、けぶるように目を細めて、あたしの体をやんわりと抱き上げた。
 包み込むように。閉じこめるように。愛おしむように。
 その腕に抱かれて、あたしはぎゅっとしがみつき返す。思いを伝えるように。思いをくみ取るように。
 そうして、そっと言葉を零した。
(……エットーレは、死の旅に出たのかしら……)
 冷たい路地の筵は放置されたままで、誰も見送ったり見守ったりした形式は無い。あの欲深い魂は、ここに今も留まっているのだろうか。それとも、あの闇の中を旅しに飛び立ったのだろうか?
(……ここにはいませんよ。もう、誰も)
(……そう)
 あたしは目を伏せる。エットーレの死を悲しむ気は無いのに、なぜか胸が少し痛い。恨みも憎しみも未だ胸の奥にあるというのに、どうしてこんなに空虚な気持ちになるのだろう。
(……それが、死、というものです)
 レメクがあたしを優しく撫でながら言う。
(この世で唯一の永遠。唯一公平に与えられるもの。人が必ず行き着く場所。……故にその前にあっては、我々はただ深く頭を垂れるしかない……)
 たとえそれが、どんな悪人であっても。恨み憎んだ相手であっても。死が訪れたその後には、ただ深く頭を垂れるしかない。死を悼むことは、命ある者の絶対的な条件だから。それを冒涜することだけは、決してしてはいけないから。
(……ベル)
 レメクが呟く。あたしを抱きしめる。
(あなたは、ここにいますか?)
 小さな声で、そう問いかける。
(あなたは、ちゃんと、いますか?)
 この世界に。
 旅立つことなくこの世界の中に。
 同じ時同じ空の下の、この世界に。狭間の向こう側の、死の眠りにつくことなく、この世界で──
(……うん。ちゃんと、いるわよ)
 あたしはレメクを抱きしめる。小さな手で。せいいっぱいの力で。
(どこにも、逝ってないわ)
 どこかへ、置いて逝ったりしてないわ。
(ちゃんと、おじ様が呼び戻してくれたから)
 ねぇ、だから、レメク。そんな目をしないでね。
 あたしちゃんとここにいるから。あなたの傍にいるから。
(目が覚めた時に、あなたがいないなんてことは、ありませんね?)
 祈るように願うように、そんな風に確認をするレメク。あたしは思い出した。闇の中で、おかしな名前の「お父さん」が微笑って言っていた言葉を。
 あの子は、寂しがりだから。
(ずっといるわ)
 とても強くて、とても賢くて、とても立派で、こんなにカッコイイ大人なのに。
 あの子は、寂しがりだから。
(ずっとずっと一緒にいるわ。あなたが嫌がっても)
 これほど胸を騒がせる、あなたはなんて、愛おしい人。
(おじ様……還ろう?)
 暖かくて優しい、みんなの所へ。
 アウグスタ達の所に。
(えぇ……)
 レメクは小さく頷いた。
 悲しい瞳に少しだけ笑みを見せて。切ない瞳に暖かなものを宿して。
(還りましょう)
 あたし達の大切な人達の元に。

 あの時と空の下に──────


 ※ ※ ※

 ふいに名前を呼ばれた気がして目が覚めた。
 ぱちぱちと瞬きをする。
 夢を見ていた。
 あたしはぱっちりと目を開ける。
 夢を見ていたのだと、理解した。
 テントの中は淡く明るく、あたしはそれで夜が明けていることを知った。時刻まではわからない。外のざわめきは遠く、また人が多すぎて言葉を聞き取れない。ただ、クーッとせつない鳴き声をあげたお腹が、朝ご飯の時間はとっくに過ぎていることを訴えていた。
 ……そういえば、朝ご飯どころか昨日の晩ご飯も食べてません。あたし。
 いや、あの状況下で御飯も何もなかったわけですが。
 あたしは切なさを込めて前を見る。目の前のレメクはまだ目を瞑ったまま静かに寝息をたてていた。その姿を目にした途端、空腹も吹っ飛んだ。
 ちょっと耳を澄まさないと聞こえないぐらい、ひそやかな呼吸。無防備に寝こけているその姿。なんだか野生動物が眠ってるのをチョイ見しちゃったような、なんともいえない喜びがわき上がる。強い生き物の無防備な姿って、ちょっとドキがムネムネしませんか!?
 あたしはゆるゆると笑みを浮かべた。暖かいものが全身に広がって、それだけで幸福な気持ちになる。
(レメクって……)
 夢の中では、あんなに可愛らしい人なのか。素晴らしい。どうしてこう、あたしの心臓を何度も鷲づかみにしてくれるのか。どうしてくれよう。
 ふっふっふ、と笑うと、眠っているレメクがビクッとなる。どういう意味だろう。
 しばらくじーっと様子を見守ったが、起きる気配は無い。まだ眠ったままだ。このまま悪戯しちゃってもいいだろうか? 額に「お肉」の絵とか「サラダ」の絵とか描いちゃったりとか。
 そんな素敵な誘惑にかられていると、サッと眩しい光の鉄槌があたしの目を灼いた。
 眩しい!
「あ、ベル! よかった。起きた……んだね?」
 光の中で人の輪郭が喜びに叫び、ややあって声をひそめた。レメクが寝ているのに気づいたんだろう。
 あたしは突然の光に灼かれた目をしょぼしょぼさせながら、光の中の輪郭(人型)を見上げる。バサリと音がしてめくられていたテントが元に戻り、中に密やかな静寂と薄暗い明るさが戻った。我が盟友ケニードが、そそくさとあたしの目の前にやってくる。
「気分はどう? ふらふらしない?」
「ケニード……って、なにそのゲッソリ顔?!」
「しーっ! 声が大きいよベル。寝てるから!」
 ケニードの声も充分大きい。
 あたしは達は互いに「しーっ」と人差し指を唇にあて、チラッと寝ているレメクを見る。ぐっすりのようだ。
「……眼福ね」
「……眼福だね」
 思わず数秒、視線を固定してしまいました。なぜか寝てるレメクの表情が辛そうなものに変わった気がするが、きっと気のせいだろう。それか、何か悪い夢でも見てしまったのか。
 あたしは視線をレメクからケニードへと移し、その痩《こ》けた頬に眉をひそめる。
「でも、その顔、本当にどうしたの? いきなり絶食生活一週間したみたいよ?」
 いや、それでもそこまで頬が痩けるかどうか疑問だ。せっかくの美形がちょっと台無しなぐらいに窶《やつ》れてしまっている。
 ケニードは軽く苦笑して肩をすくめた。
「うん。僕も朝起きてびっくりした。どうやらこれが、生命力を分け与えるってことみたいだね」
 なんと!
 あたしはぎょっと飛び起きる。
 その劇的ビフォー・アフターが?!
「僕もよくわからないんだけどね。バルバロッサ卿もすごかったよ。きっと山の熊の大将が窶《やつ》れたらあんな感じなんだろうねぇ……今、繁華街で全店制覇を目指して驀進中《ばくしんちゅう》だけど、本当に制覇しちゃいそうな勢いだった」
 熊は失った力を食料でカバーすることにしたようです。
 ……てゆかケニード。君も意外と言いますね。むしろ『熊』は王宮の共通認識ですか?
 なんとなく眉が下がってしまう。もしかしたら神殿でも共通認識なのかも。
 ケニードはそんなあたしをしげしげと眺め、それからじんわりと笑った。
「……もう、大丈夫だね?」
「え?」
「大丈夫、だね?」
 確認するような問いに、あたしはハタと気づいた。ケニードを見つめる眼差しに、自然と感謝と謝罪が宿る。あたしは大きく頷いた。
「うん」
 ケニードは笑った。あったかいほんわかとした笑顔で。
「うん。……よかった」
 よかった、と。もう一度呟いて、ぎゅっと抱きしめられた。暖かい。
「……ごめんなさい」
「……うん」
「……ありがとう」
「うん……」
 あたし達は戦友を称え合うように背をたたき合う。あたしの腕は短いので、ケニードの横っ腹をぺちぺち叩く形になったけど。
「黙っていなくなって、ごめんなさい」
「うん。……いや本当、あれはちょっとまいったよ」
 苦笑とも自嘲とも爆笑の一歩手前ともつかない不思議な笑みで体を震わせて、ケニードが言う。
「いや、元凶の一端は僕なんだけどね。ウンにもまいったけど。洗面所借りて頭洗ってたら、店の支配人が『お嬢様がーっ』とか言って飛び込んで来たんだよ。もう頭泡だらけのまま飛び出しちゃった」
 あわわわわわ。
 あたしは慌てる。ドッと押し寄せてきた後悔は、罪悪感と共にあった。
「……事情は聞いてるよ。だから、そんなに泣きそうな顔しないで。でもね、ベル。陛下からもたっぷり言われたと思うけど、僕らはとっても心配したから。本当に死ぬほど心配したから。心配しすぎて死にかけた人がそこに寝てるぐらいなんだから。これからは、一人で走り出したりしちゃダメだよ」
 隣に転がっている人にあったかい目を送りながら言うケニードに、あたしはぼわぼわと視界がぼやけていくのを感じた。ケニード……いい人……なんていい人。レメクがいなかったら、もしかしたら惚れちゃったかもしれない。目頭と一緒に鼻頭も熱くなって、鼻水が出そうなほどだ。
「うん。……約束、する」
 ずぴ、と鼻をすすってあたしは頷いた。ケニードが微笑う。
「うん。でもよかった……無事でよかったよ」
 優しい年の離れた盟友と全力ハグを再開して、あたしはピスピスと鼻を鳴らした。レメクの超絶素晴らしい匂いには勝てないが、ケニードからも優しくて暖かい匂いがする。それはどこかアウグスタの匂いに似ていて、ついでにあたしのお母さんの匂いにも似ていた。
 暖かい匂い。あたしはなんとなく理解した。
 それの名前を愛情と言うのだと。
「よかった……。あぁ、でも、どこから、どうやって、どんな話をしようか。目を覚ましたら、怒ってやってくれって陛下に言われたんだけど、怒る前に鼻水でちゃいそうで」
 ケニードも目から鼻水が出ちゃうお人らしい。あたし達はズピズピ鼻を鳴らしながらぎゅーと抱きしめ合う。
「今はね、陛下は王宮に戻ってる。孤児院のことは、すごいニュースになってるよ。今日中に主だった関係者の処罰が下される。王宮の不正も同時に正されたけど……これは、今の君にはちょっと遠い話だから、省くね。お金を横領してた人達が捕まったんだって、それだけのことだから。彼等も処罰される。たぶん、しばらくすごくゴタゴタするよ。暗躍しようとする人も増えるだろう。クラウドール卿もいっそう大変になるけど……大丈夫だね。君もこうして戻ってきたから。だから、もう大丈夫だ」
 まるで自分に言い聞かせるように「大丈夫」を繰り返すケニードに、あたしは涙を擦りつけながら頷いた。……うん。大丈夫。
「孤児院のトップは違う人に変えられるよ。それらのことも、今日、決定するだろうね。実は昼過ぎから裁判なんだ。終わるのは日没後になると思う。だから、それまでにクラウドール卿の目が覚めないかどうか、様子を見に来たんだけど……」
 ケニードはそう言ってレメクを見る。未だ眠ったままのレメクを。
「……今は、何時?」
「十時ちょい……かな。店を出たのが十時前だったから、たぶんそれぐらい。……一時頃から始まるから、それまでにクラウドール卿が起きたら伝えて。大神殿のベラトリーテ講堂で裁判が始まるから、って。……一応、資料は全部彼が用意してくれてたから、いなくても大丈夫だけど……彼がいるといないとでは、場の空気が全く違うから。できればいてほしいらしいんだ。これは猊下や閣下からの要望なんだよ。……でも、僕としては、ちょっと休んでほしいな。ずっとクラウドール卿にばかり頼ってきたんだ。こんな時ぐらい、休ませてくれてもいいじゃないか」
 ケニードはくしゃりと泣き笑いにも似た笑みを浮かべる。
「……僕は、本当に、クラウドール卿をすごいと思うよ。その能力も、人としての潔さも、尊敬してる。ねぇ、ベル。君はもう知ったかい? 彼が持つ紋章のことを。彼の地位を。その職業を」
 あたしはケニードをじっと見た。
 彼が言っているのは、どの紋章のことだろうか。闇だろうか、それとも罪と罰だろうか。ケニードは今回、死にかけたレメクを助けるのに一役かった。そのときに、闇の紋章の話をしただろうか。あたしはそれを判断する材料をもたず、だから、ただ頷くだけにとどめた。
 ケニードはほろ苦い笑みを浮かべる。どこか悲しむような笑顔を。
「罪と罰の紋章は、王家に伝わる秘宝の一つ。今まで、王家の誰の手にも宿らなかった強大な紋章なんだ。その紋章を下賜され、その力を振るえたのは、歴代でも二人だけ。ナスティア王朝が始まってから、たった二人しかいなかったんだ。……クラウドール卿は、史上二人目の所有者……この世で唯一人、王をも裁く権限を持つ、断罪官なんだ」
「断罪官……」
 エットーレもそんな名を呼んでいた。
 あたしはケニードを見る。どこか悲しげなその人を。
 ケニードは、なぜかレメクを痛ましいような目で見つめていた。
「罪と罰の紋章には、いろんな曰くがあるんだ。身につけた人は、ほぼ確実に狂死するとさえ言われた呪われた紋章でもある。どうして陛下が、そんな紋章をクラウドール卿に与えたのかは知らない。僕はその当時、王宮にはいなかったから。けれど、すごい波紋を呼んだらしいことは聞いている。なにせ、その紋章を持つ者は、自分の権限だけで断罪を行えるから。証拠を揃えるとか、裁判をするとか、そんな手順を全部すっ飛ばして、ただ罪を裁くことができるんだ。……そしてその対象は、王国の全てに及ぶ。分かるかい? ベル。王ですらも、裁く権限があるんだ。陛下はクラウドール卿に、その権利を与えたんだよ」
 あたしは二人の顔を同時に思い出す。
 臣下の礼をとりながらも、王と対等に話をしていたレメク。それはたぶん、レメクとアウグスタだけがもつ何かが理由なのだ。
 あたしはその『何か』を知らない。
 けれど、その『何か』によって、アウグスタはレメクに自ら裁く権限を渡したのだ。そこには、何か言葉では言い表せない絶対的な絆があるような気がする。信頼、友情、愛情、そういったものだけですらない確かな強い絆が。
「アウグスタは、おじ様を信じたのね? おじ様の信念や、心のあり方を」
 でなければ、下手をすれば大量殺人犯になるかもしれない巨大な紋章を与えたりしないだろう。絶対的な権限というのは、持つ者によって恐るべき凶器になってしまう。
 レメクだからこそ、それが無かった。
 あれほどに自らを律し、自らの行いの全てを正当化せず、世界にとっての正しいものを常に自らに問う人だからこそ、今の現状が成った。
 それはある意味、奇跡にも似た生き方。
 アウグスタはどこまでわかっていたのだろうか。どこまで確信していたのだろうか。その紋章を与えた時に、この者ならば大丈夫と、そう思って渡したのだろうか?
 あたしは俯く。きっとそうだ、と思う反面、何かあやふやな不安を覚えた。何かを間違っている気がする。何か間違っている……思い違いをしている気がする。
 アウグスタは、信じたからこそ紋章を渡したんだろうか?
 それとも、レメクになら裁く権利があると、そう思って渡したのだろうか……?
「……ねぇ、あの紋章って、罪そのものを裁くのよね……? でも、どうやって、どういう風に裁くの?」
 首を傾げたあたしに、ケニードは「簡単だよ」とほろ苦い笑みを浮かべた。
「使えばいいんだ。ただ、それだけで、紋章は罪に応じた罰を対象者に与える。……あの紋章は、無辜の者を裁くことは無いんだ。罪を犯していなければ、その身には何の怪我も負わず、罪を犯していれば、その罪そのものによって裁かれる……そういう力をもつ紋章だから」
 それはまさに、神の如き裁き。
 故に呼ばれるのだ。断罪の紋章と。
「だから、その紋章を宿した者だけが呼ばれるんだ。断罪官、と」
 この国はおろか、世界で唯一人の存在。神の如き裁きを身に宿した人。
「でもね、そんな力を持ってるから、こんなに尊敬したわけじゃない。クラウドール卿は、自分の紋章を使うことを嫌ってるんだ。本当はね、王宮紋章術師の長にだってなれるような人なのに、裁判の手続きの手伝いとかばかりして……しかもだよ? 紋章をほとんど使わずに、自分の足で歩いて回って、証言や資料をきちんと揃えて……そんな手間なことをすごく真面目にやる人なんだ。ちっとも紋章を使おうとしなくて……偉そうにしなくて、誰よりも潔くて……」
 憧れたのは、その人の姿。
 誰にもない権限を与えられながら、それによりかからず、真っ直ぐに一人の人間として立つ姿。
 驕ることなく偉ぶることなく、誰に対しても丁寧に礼をとり、手を差し伸べるその人の姿。その姿勢。
 あたしは深く頷いた。わかる。すごくわかる。
「でもね、そんなクラウドール卿を誰もが怖がってるんだ。だって、彼は強すぎる。あんまりにも強すぎる。優しい人だから、潔い人だから、決して自分から人を傷つけようとはしないけど……けど、強すぎる力は恐怖の的なんだ。だから、恐れられてる。元々、彼はとても取り付く島が無かったし。ベル……君がいるから、君がいてくれたから、僕もこうやってクラウドール卿の傍に行くことができた。けど、君がいなければ、きっと今も僕はどこか隅っこで、遠巻きに見るしかできなかっただろう」
 それぐらい、レメクは人にとって「近寄りがたい」人だったのだという。
 あたしは首を傾げる。その感覚はあたしにはピンとこない。こんなに暖かくて、世話焼きのお母さんみたいな人なのに、どうして近寄りがたいのか。
 ケニードはあたしを見て微笑った。
「君が来てからだよ、ベル。きっとこれからもっと変わっていく。……人と人の出会いっていうのは、きっとそういうものなんだろうね。互いに影響しあって、互いに変わりあっていく。……素敵だね、ベル。君がいるから、今の皆がいるんだ。クラウドール卿も、僕も、バルバロッサ卿も、陛下も……。ねぇ、ベル。僕はね、断罪の紋章を持つことは不幸だと思う。とても辛いことだって思ってる。けど、君が傍にいてくれるなら、きっとクラウドール卿は大丈夫だね」
 あたしはそう言って微笑うケニードを見上げた。
 不思議だと思う。
 ねぇ、レメク。不思議だわ。あなたの周りにいる人は、こんなにも優しくて綺麗な人ばかりなの。
 ねぇ、レメク。アウグスタもケニードも、とても綺麗な顔をするのよ。とてもとても綺麗な微笑みを。
 ねぇ、レメク。素敵ね。きっとそれは、あなたが本当に素敵な人だからね。だからこんなに、綺麗で素敵な笑みを浮かべられる人が、集まってくれてるんだね。
 あたしは胸がいっぱいになって、その思いのままに微笑った。
 ありがとう、と告げたかった。何故かはわからない。けれど、ありがとうと言いたくなった。ケニードの全てに対して。彼が言ってくれた言葉全てに対して。彼がレメクに向けてくれた、ありとあらゆる優しいものに対して。
 ありがとう、と。
 ケニードは微笑う。そうして、ハタと我に返ったような顔で照れながら、ごそごそと背中に負っていたらしい雑嚢をあたしに渡してくれた。
「えぇと、それで、君のお友達達、というか、孤児院の子達全員なんだけどね、今は王宮と教会がそれぞれ保護してるから。クラウドール邸で」
 なんで?!
 さらりと言われた場所に、あたしは思わず目を剥く。ケニードは晴れやかに笑った。
「あそこが一番安全なんだよ。ほら、最強の人のお家だから、誰も手が出せないから。離れ小屋のおじいちゃん達や、おじいちゃんの仲間達が世話してくれてるよ。あの子達に同情してくれた貴婦人の方々からのお心付けも大量に届いてるから、食料とか物資の問題も、今のところいけそうだし。下街の人もね、手伝ってくれてる。僕の屋敷に君が来た時、クラウドール卿が引き連れてた兵士達を覚えてる? 彼等が、王宮代表で屋敷の警護……というか、半分ぐらい子供の世話にまわってる。うちの爺や達もね。あぁ、そうそう。君にとても会いたがってたよ」
 あたしはカッぴらいた目を元のサイズに戻しながら、あぁ、と不思議な笑いの衝動に包まれるのを感じた。
 くすくす笑いはじめたあたしに、ケニードは首を傾げる。
「どうしたの?」
「ううん。あのね、ケニードってね、なんだかとっても不思議だなって思って」
「僕が?」
 きょとんとしたケニードに、あたしは微笑う。
 ケニードは不思議だ。だって、いつだって、心が温かくなるニュースをもってきてくれる。ほっとするような、そんな情報を与えてくれるのだ。
「君ほどじゃないと思うけどなぁ」
 なぜか釈然としないような顔でケニードが言う。けれどその顔はどこか笑み含みで、あたし達はしばらく二人でくすくす笑った。
「さて。僕はそろそろ行くよ。ベルはどうする? お腹空いてるだろう?」
 腰を上げたケニードに、あたしはちょっと微笑って首を横に振った。
「お腹は空いてるけど、ここにいるわ。おじ様が目を覚ました時に、一番におはようって言いたいの」
 ケニードは何故かとびっきりの笑顔で頷いた。
「うん。そうだね。そう言うと思って、その雑嚢の中に食べ物いっぱい入れてきたんだ。ゆっくり食べて、付き添ってあげてね」
「うん!」
 ありがとう、と。今度こそあたしはケニードに言った。ケニードは輝く笑顔で言う。
「僕こそ、ありがとう! だよ、ベル」
 テントの端が大きくめくられて、ケニードの笑顔を一層輝かせる。それは差し込んだ外の光のせいだったかもしれず、彼のもつ光そのものだったのかもしれない。
 いずれにしろ、その言葉を残してケニードは立ち去り、テントの中にはあたしとレメクだけになった。
 それにしても、どうしてケニードのほうからも「ありがとう」が返ってきたのだろうか?
 あたしは首を傾げながら、もらった雑嚢をあさる。水筒に、美味しそうなパンがいくつか。小麦パンには炙った肉や野菜が挟まれており、たいそういい匂いがする。思わず半開きになったあたしの口から、よだれが零れ落ちかけた。危ない危ない。
 ケニードに感謝の祈りを捧げ、あたしは勢いよくそれにかぶりついた。美味い。この、トマトをベースにしたソースがまたなんとも言えず香ばしくて……
 そんな風にテント中に良い匂いを充満させながら食べていると、匂いに誘われたのか、隣のレメクが身じろぎした。
「ももままっ?!」
 あたしは思わずレメクの顔面前にスタンバイする。もぐもぐごっく、んがぐぐっ!
 水! 水ッ!!
 あたしは大あわてで水筒のコルクを外し、勢いよく水を飲み干す。
 し……死ぬかと思った……
「…… ……」
 水を飲み干し、半泣きでレメクに視線を戻すと、嗚呼! もうすでにうすぼんやりと目を開けてしまったレメクがそこに!!
 目覚める瞬間を見逃してしまったあたしは、ショックでガーンッとそのまま硬直してしまった。
 ぼんやりと目を開けたレメクは、そのぼやぼやのままであたしを目にとめる。
「…… ……」
 声のない声で何かを呟いて、レメクが緩慢な動きで手をあたしに向けた。
 差し出されたその手に、あたしは一瞬、迷う。
 水ですか? 食い物よこせ? それともあたし?
 迷いながらも期待を込めて顔を寄せる。レメクの手がのろのろとあたしの頬を撫でた。万歳。ペイッとやられなかったということは、これが正解だったのだろう。よっしゃあ!!
 あたしは思った。時よ止まれ。世界よ、おまえは美しい、と。
 レメクの手が確認するようにあたしを頬を撫でる。くすぐったい。そしてつねられた。イタイ。
 何故デスおじひゃまっ?!
「ベル……?」
 そうですとも。あなたのベルですとも。
 ムニムニと頬をつねられながら、あたしはしっかりと頷いた。つねられていることに対して言いたいことがいっぱいあるが、ここは根性の見せ所だ。あたしは気合いを入れた。
 決めていたのだ。目が覚めた時には、必ず傍にいようと。
 傍にいて、一番に微笑って言おうと。
「おひゃひょう、おびひゃま」
 ……様にならなかった。
 しょんぼりだ。
 それでも根性で気合いの入った笑顔を浮かべていると、ぼんやりと瞬きをしたレメクがちょっとだけハッキリとした目であたしを見上げ、
「……ぷっ」
 いきなり吹き出しやがった!
 どういうこと?!
「おじひゃまっ?!」
 レメクは声もない。あたしの頬から手を離し、転がってブルブル震えている所をみると、よほど可笑しかったのだろう。てゆか、笑いを堪えるレメクを見るのは二度目だが、どこでどんなツボにストライクしまったのかが未だに謎だ。
「なんで笑うのーッ?!」
 あたしは悲痛な叫び声をあげる。
 ここはほら、メロメロでキラキラなドラマチックを展開するはずではないだろうか?! 生死の境を彷徨った二人! 夢の中でもご対面! そして目覚めた朝に、こう、ムッチュ〜とくるような展開があってもいいんじゃないの?!
 あたしの半泣き抗議に、レメクは目尻に笑い涙のようなものまで浮かべながらこちらを振り返り、転がったままの体勢で手を伸ばした。む。またつねるつもりですか?
 そうはなるかと避ける前に、綺麗な指があたしの口の横を軽く擦った。その指先が赤くなっている。
 ……あれ?
「すごい顔ですよ、ベル」
 ガーンッ!!
 あたしはショックのあまり硬直した。なんということ! せっかくのメロドラマをぶち壊しにしたのは、何のことはない、あたしの口の周りのトマトソースだったのだ!!
 レメクの指がゴシゴシとあたしの口の周りを拭いてくれる。あたしは顔をくしゃくしゃにしながらレメクを見た。それがよほど情けない顔だったのだろう。レメクは笑いを堪えるような顔で身を起こした。そして軽く手を引かれる。上半身を起こしたレメクに、あたしは突撃した。おじしゃまーっ!!
「……ベル」
 しっかりとあたしを抱き留めて、レメクがあたしの名を呼ぶ。
 ぎゅっと、強い力で抱きしめながら。
「ベル」
 あたしの名前だけを呼ぶ。
 あたしはそれだけで胸がいっぱいになって、ぐりぐりと顔をレメクの胸に擦りつけた。もしかしてトマトソースもついちゃったかもしれないけど、そのことはもう考えないことにした。
「よかった……」
 心を零すような声が、あたしの頭に落ちる。レメクの顔が、すぐ近くにある。
 腕の中にあたしを抱きしめて、しっかりと逃がさないように閉じこめて、レメクが囁く。
「……目が覚めた時に、あなたがいなかったら、どうしようかと……」
 そう言って吐息を零す。
 あたしはぎゅっとレメクにすがりついた。
 この上ない極上の匂いがする。目眩がするほど幸せな匂いが。
 あたしの心を攫ってしまう、魅力的な匂いが。
「ここにいるわ。おじ様」
 思いの丈をこめて、その胸に顔を埋める。
「おじ様がダメだって言ったって……傍にいるんだから」
 どんな時。どんな場合でも。
 ずっと傍に。
 あたしは大きく息を吸い込んだ。イッパイイッパイ腕を伸ばして、せいいっぱいの力でレメクを抱きしめる。
 暖かいものを、レメクに伝えるために。
「おじ様、大好き」
 そう伝えるために。
 ギューッと抱きついたあたしを抱き留めて、レメクがあたしの髪に顔を埋める。優しい声が、すぐ近くでした。
「……私もですよ」


 ──なんですと?!

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