エピローグ

 恋の女神が満面に笑みを浮かべ、よくやったわね、とサムズアップをしてくれているようだった。
 青々と晴れ上がった空の下、あたしは溶け落ちそうなほど頬を緩める。
 ──大好き。私もですよ。
 繰り返し繰り返し、その言葉が脳みその中で永遠のワルツを踊っている。くるりくるりくるくるりん。
 世界が輝き、その姿を変えてゆく。鮮やかに、美しく。薄いベールを一枚めくったかのように、世界が煌めきに包まれている。くるりくるくるくるくるりん。きっと頭の中で回る、この魔法の呪文のせいだ。
 あたしはニコニコと笑み崩れる。
 例えここが屋根の上で、風が出ててちょっと寒くても、そんなことは気にならない。
 ようやく裁判から戻ってきたレメクが、全力笑顔で出迎えたあたしに逃げ腰になってたことだって気にしない。あれはきっと照れ隠しだ。そうに違いないのだから。
 なにせあたし達はアイを確かめあったのだから!
 あたしはニヘラッと笑み崩れた。
 空は相変わらず美しく、雲がそよそよと遙か上空で動いている。あぁ、世界はなんて美しいの。ちょっとだけ寒いけど。
「おじ様も、照れ隠しにあたしを屋根の上に放り出さなくてもいいのに……」
 あたしはぼやく。風がソヨと吹いていった。寒い。
 あの後、レメクはあたしの「ケニードからの伝言」を聞くや否や、めくるめくアイの応酬とやらを展開することなくあっさりと神殿へ直行しやがった。なんて人だろう。せっかく、宿のおねーちゃん達が言っていた「めくるめくアイの押収(←?)」とやらを教えてもらえると思ったのに。しょんぼりだ。
 ただ、嬉しいことに、レメクは予想以上に早く戻ってきてくれた。
 あたしがとぼりとぼりとクラウドール邸に到着し(ちなみに護衛として騎士様が二名もついてきてくれました。でも顔も覚えてないです)、しょんぼりと玄関に座って一時間ぐらいで帰ってきたのだ。なんか全力で。
 ちなみにその一時間もの間、あたしがなにをしていたかというと、その後現れた孤児仲間と合流してハグしあったり、その世話に来てたお城の兵士さんやケニードの屋敷の執事さんとハグしたりしてました。玄関で。
 飛び込むようにして帰ってきたレメクは、そんなあたしを見て何故か絶句し、あたしは全力を出してレメクにハグしてもらいに飛びかかったのです。いつものごとく。ちょっと逃げられましたが。
 ……照れ屋さんなんだからッ!
 そうそう、帰ってきたレメクは、別れた時より数倍元気になってました。きっと神殿には生命力のありあまってる人がゴロゴロいたんだろう。そこから余分の元気をたっぷりもらってきたようだ。歩く生命吸引機と名付けよう。
 ……しかしその場合、あたしとレメク、どっちが一号でどっち二号なのだろうか……?
 それはともかく、元気になったレメクは、あたしの全力ハグを受けた後、なぜかぐったりしながら集められている孤児達を招集。その中で「わりと元気な男の子」だけを選出し、集合させた。そしてあたしを捕獲して屋上に放流。「しばらくここで大人しくしていてください」という言葉だけを残して家に戻ってしまった。あんまりだ。
 風邪ひいたらどうしよう。元気にならないといけないのに、これはいったい、なんの試練ですか?
 あぁでも、今のあたしには全てがアイの試練。何でもコイ。
 あたしは「うふふふ」と笑み崩れた。どこからともなく「ぎゃーっ」だの「もういいよもういいよっ」だの、ワァワァと楽しげな歓声が響いてきているが、全然気にならない。気になんかならないんだからねッ!
 あたしはぽつんと屋根に座った状態で、空を見上げた。あぁ、世界はなんて美しい。でもちょっと寒いのおじ様。人肌プリーズ。
 へっくち。
「……なんていうか、あんたの『おじ様』って、独特ね……」
 突然後ろから声をかけられた。びっくりして振り返ると、ナナリーがそこにいた。
「にゃなりーっ」
「危ないからっ! 飛びつかないでッ!! なんで屋根の上でそんなに平気に動けるの?!」
 屋根の上に上がってきたナナリーは、おっかなびっくり屋根にへばりつくようにしている。なんでそんなに及び腰なんだろう? そんなにしなくても、大丈夫なのに。
「おじ様のお屋敷は丈夫だもの。そんな格好にならなくても大丈夫よ?」
 孤児院のそれと違い、屋根を踏み抜く心配も無い。なにせすこぶる丈夫な作りなのだから!
 えへん、と我が事のように胸を張ったあたしに、ナナリーはへっぴり腰のままで叫ぶ。
「恐いのよ! 落ちたら一発でお終いじゃない! なんでそんなに平気で立っていられるわけ?! 猫じゃないんだから!!」
 ナナリーの悲鳴じみた訴えは、違う意味であたしをざくっと刺した。猫……猫なのか、なにをしてもその単語がついてまわるのか……。よろけたあたしに、ナナリーが悲鳴を上げる。おっとっと。
「危なかった。……ってあれ? ナナリー、どうしたの?」
「恐っ! 恐いわっ! もう! あんたも! この場所も! いろいろ恐いわっ!!」
 絶叫するナナリーは涙目だ。そんな恐い場所に、どうしてナナリーは来たんだろう? あたしは首を傾げ、すぐに答えに気づいた。ナナリーは、毛布を片手に持っていたのだ。
「あんたのおじ様から、これ渡してやってくれって言われたのよ。でも、渡したら、すぐに鍵閉めるようにって言われたわ。どういうこと? なんであんた、隔離されてるわけ?」
 隔離。言われてみれば、そんな感じだ。
「あの人、優しいのか優しくないのか、わけわかんないわ。てゆか、ねぇ、ハッキリ聞いていい?」
 なにを?
 首を傾げたあたしに、毛布を放り投げながらナナリーが声をひそめる。彼女は屋根にへばりついたままなので、声を聞くためにあたしはナナリーの近くにいくハメに。
 とことことこ。
「……なんで斜めの屋根で、そんなに普通に歩けるんだか……。まぁ、それはともかく、あのレメクって人……」
 レメクが?
「……黒い神官、じゃない」
 は?
 あたしは目を丸くした。
「くろいしんかん〜?」
「なにそのビックリした顔! だって! 黒い服着てるし! だ、だいたい、他の子達だってそう言ってるのよ?! てゆか、あんたと一緒の孤児院の子達が見たって言う『黒い神官』って、あの人じゃない!」
「えぇえええ〜?!」
 あたしは絶叫した。そんな馬鹿な。
「だってさぁ! あの人、ここしばらくずっと孤児院のあたりをうろついてたし! 子供攫ってたのだって、そうだったし!」
「えぁ?! おじ様が攫ってたの?!」
 あたしの声に、ナナリーは目をまん丸にした。
「ぇえ?! あんた、何も知らないの? ……って、あー。そっか。あんた、倒れるか何かして、まだ説明受けてないんだっけ? アタシらは、今朝方マロックだかエロックだかいう名前の綺麗な人から聞かされたんだけど」
 ……アロックです。
 あたしはこめかみを揉んだ。ケニード。君はなんか可哀想な名前になってるヨ。
「ぇーとぉ……あたしは、お昼前に起きて……同じ『アロック』卿にちょっぴり説明聞いたかな。孤児院の上の人が裁判をうけるってことと、孤児院の皆をうちの屋敷に集めて保護したってこと」
「うーん……微妙にはしょられちゃってる感じ? まぁ、後で説明する気だったのか、忘れてるのかは知らないけど。……あのさ、姿が消えちゃった子達って、病気だったりして、そのままでいれば危ないって子達ばかりだったでしょ?」
「うん」
 そう聞いた。
「それでね、聞いた話、その子等をそのまま放っておく訳にもいかなかったんで、先に攫って、お医者様に診せてくれてらしいのよね。今も、そのメロック卿とかいう人の所に保護されてるわよ」
 じゃ、じゃあ……!
 あたしは希望に顔を輝かせた。もしかしたら、助かってるのかもしれない。メム、メアリー、マルク。あたしの友達。あたしの仲間! ……けれど、ナナリーはどこか暗い顔をしていた。
 ……どういう、こと?
 顔を曇らせたあたしに、ナナリーは呟くように言う。
「……全員、じゃないの。助からなかった子もいたんだよ。あんたの所の子も……メム、だっけ? あと、同じような名前の子。メアリー? だったかな。その子は、助からなかったって……」
「…………」
 あたしは大きく目を瞠り、ややあって俯いた。
 ケニードの声が頭に響く。

 全てが終わった後に、助からなかった命があったとしても

 ……うん。わかってる。助けられなかった子がいても、それはレメクのせいじゃない。レメクは、一生懸命してくれた。だから、それはレメクのせいなんかじゃない。
 けれど、ねぇ、ケニード。そのことを、仕方ない、なんて風にも思えない。もちろんレメクのせいじゃないけど、けど、仕方がないことでも無いの。
 だって、そうでしょう? そこには確かに、かけがえのない命があったのだ。それが失われたことを、仕方がないの一言で片づけられないじゃない。
 あたしは歯を食いしばった。
 悲しい。ただ、悲しい。
 助かってほしかった。生きていてほしかった。たぶん、レメクやケニードも同じ気持ちだったろう。彼等だけじゃない、ナナリー達も、皆、同じ気持ちだったろう。
 けれど、助からなかった。助けられなかった。だから悲しい。やるせない。
「……あんたのおじ様に、さっき初めて会ったけど。……助けられなくてすみません、って……頭下げられたわ。あの人のせいじゃないのにね」
 ナナリーの声に、あぁ、とあたしは吐息をこぼした。
 レメクは、そういう人だ。せいいっぱい手を伸ばして、それでも助けられなかった命に、すまないと涙をこぼすような人だ。決してそれが顔に出ていなくても、心で泣いている人だ。
 あの人は、とても優しい人だから……
「なんかさ、あの人もややこしいいろんなことがあって、自由に動けなかったんだってね。おおっぴらに助けられなくて、すまないって謝られちゃったわよ。……アハハ、なんでかしらね……アタシ達よりさ、あの人の方が泣いてそうな感じだったのよね。表情変わんないし、別にボロボロ泣いてるわけじゃないのによ? みんながそんな風に感じちゃってさ、どうしてだろうね、って話してたんだけど……アハ、結局わかんないままだわ。ちょっとしか会ってないしさ」
 ナナリーはそう言いながら、どこか泣きそうな目で笑った。
 あたしも同じような目で彼女を見返す。あたしにはわかった。レメクがその時、どんな風だったのか。……あたしには見えた。たとえこの目で見ていなくても、あの人がどんな顔で、そんな風に、どんな気持ちで頭を下げていたのか。その姿が。
(レメク……)
 優しくて誠実で、けれどどこか不器用な暖かい人。
 ねぇ、レメク。気づいてる? あなたが起こした奇跡の数々に。
 あなたがあたし達に与えてくれた、形のない暖かな尊いものに。
「……そうだねぇ……うん。あの人、優しい人には違いないんだ。どんなに変なやり方だとしてもさ、病気の連中を見るに見かねて攫って保護するだなんて、普通の人はやりゃしないんだから。……それにさ、あの人、いろんなものくれるのよ。嘘みたいだよね。メロックっていう人が言ってたわ。御飯くれて、新しい服くれて、暖かいお風呂に入れてくれて……そういうの全部、あの人が手配したんだって。名前だけしか聞かされてなかったから、どんな人なのかサッパリだったけど。なんかねぇ……最初は『嘘っ』て思ったけど、声聞いたら納得しちゃったわ。だってさ、まんま噂の黒い神官ってナリなのに、もう大丈夫ですよ、だなんて言ってくれちゃうわけよ? あたしらにさ。頭、撫でて……くれちゃったりしてさぁ! あぁ、ホント、あんたがいなきゃ、アタシが狙ってたかもね!」
 あたしはそれに対して何も言えず、くしゃりと笑った。
 困るような、嬉しいような。ほんのちょっぴり泣きたいような。あったかくて切ない気持ち。ああ、涙が出そうだ。
 どうして彼にはわかるのだろう? あたし達が欲しいものが。暖かい御飯、暖かい服。けれど何よりも欲しいのは、暖かい言葉と、暖かな手。優しく抱きしめてくれる腕と、もう大丈夫だと言ってくれる人そのもの。
 遠い昔に、あたし達が失ったもの全て。
 あたしは目を閉じた。胸がいっぱいで大声で叫び出したいような気分だった。
 悲しみはまだこの胸にある。苦しさはまだ癒えていない。けれど前へ進まないといけないあたし達には、新しい力が必要だった。前へと歩む強さ。過去を抱えながら進む強さ。後ろを決して振り向かないわけじゃない。時々は振り返ってきっと涙を零すだろう。けれど歩みを止めない。そんな強さ。
 レメクがくれるのは、その強さだ。
「あの人さ、紋章術師なんだってね。すごいね、アタシ、本物初めて見たよ! ニア達が眠った乗って、それが原因なんだって? なんか、そういう紋章使ったって。そりゃ、寝るつもりもないのに寝るはずだわ」
 苦笑したナナリーに、あたしも苦笑を浮かべる。けれどお互い、どうしてもそれが泣き笑いに似たものになってしまうのを止められなかった。
「いろいろ、聞いたよ。いろいろ他の院の連中とも情報交換もした。ネロックって人も、すっごいいろいろ話してくれたわ。一晩中」
 ……ちょいと待て。
 ケニード。君はいったい、あの生命力吸引後のヨレヨレ状態で何をやってたのだ? てゆか、その後会った君が頬ゲッソリだったのは、もしかして完徹演説のせいなんじゃ?!
「……ついでに、なぜにナナリーはケニードの名前を必ず言い間違えるのだろう……」
「え? アタシ、言い間違えてる?」
 ありゃ。口に出して言っちゃってたか!
 ぎょっとなったあたしに、ナナリーは何故か照れ笑いをしながらパタパタと手を振った。
「いやぁ、なんでかねェ? なんか、あの人の名前エロックって覚えちゃったのよ。でさ、それは違うって言われたんで、それ言わないようにって違う名前言ってるんだけど」
「……一度も当たりが無かったわね……」
 しかも最初の方にバッチリエロックって言っちゃってたし。
 ……まぁ、いいか。
「それにしても、あんたのおじ様って、大した人みたいだね。周りの人が全員道開けて、まるで王様みたい! ……でもさぁ、普通、噂の黒い神官が、正義の味方だなんて誰も思いやしないよねぇ!」
 そう言って、ナナリーは笑った。目尻に涙をためながらも、弾けるような明るい笑顔。
 あたしはふと気づく。そういえば、彼女の笑顔を見るのは、今日が初めてだ。
「もう、最初なんかパニックだったらしいよ! アタシらは昨日の晩、他の院の連中と合流したわけじゃないか。けど、他の連中は、もっと早くにニロックって人の屋敷に集められてたわけよ。でさ、そのせいで最初の瞬間ってのは見てないんだけど。すごかったらしいよぉ。出たーっとかって悲鳴あげて逃げる子もいて! もう屋敷中大騒動! 事情聞くまでが大変だったんだってさ!」
 可哀想だ……おじ様がすごく可哀想だ……今度から黒服止めてピンクの服にすることを薦めよう。そしたら黒い神官だなんて言われなくてすむし。
 よし、と握り拳を作ったあたしを見ながら、ナナリーが顔を輝かせて言う。
「だいたいさ、なにこのオオゴト。規模が違うって! 普通、王宮の兵士が動くかい?! 騎士団まで動いたんだよ?! どんだけのことしちゃってるのよ、あんたのおじ様って!」
 アハハハと明るい笑いが弾けた。その笑顔。その声。生き生きと輝くもの。
「……あー、もう。あんたと再会したら、ぜーったいイロイロ聞いてやるんだって思ったんだよね、アタシ。あの人とどういう風に話して、こんなすごいことやっちゃったのかって……ってぇえええ?!」
 なぜか途中でナナリーの声が驚きのそれに変わった。
「な、ベル?! なんで、泣いて!?」
「え?」
 あたしはポカンとして瞬きをした。
 あ。
 あぁ、本当だ。あたし、泣いてる。
 あたしは自分の頬に手をやる。濡れる感触。でも……なんで?
 あたしは首を傾げた。なんで泣いてるんだろう? あたし。
 泣きそうだと思った瞬間も確かにあったが、今泣こうとして泣いたわけじゃない。断言してもいい。あたしは泣くつもりなんてなかった。だってもう、沢山泣いたもの。いっぱいいっぱい泣いたのに……
 あたしはやや乱暴に袖口で顔を拭った。けれどなぜか止まらない。泣きながら首を傾げるあたしに、ナナリーは心底心配そうに言った。
「どしたの? お腹空いたの? それともお腹痛いの?」
 ……何故にお腹限定なのだろう、あたしの涙は。
「違うわよ! で、でも、なんでかはよくわかんない。なんか、ナナリー見てたら……」
 明るく笑う姿を見ていたら、
「なんか、よかったなぁ、って……そう思ったら」
 涙が、零れた。
 よかった。
 嗚呼、そうか。理由なんてそれだけだ。
 よかった。明るくなった。もう辛くない。悲しくない。苦しくない。よかった。よかった……!!
 不意打ちのように襲いかかってきたものに、堪えきれずにあたしは泣き出した。熱いものが体中を巡って、目からボロボロとこぼれ落ちていく。つられたのだろう、ナナリーももらい泣きしはじめた。再会したあの時にも、いっぱいいっぱい流したけれど、あたし達の涙はそれでは足りなかったのだ。
 嗚呼、世界の全てに叫びたい。
 生きたかった。助かりたかった。けれど助かることもできず、死んでしまった命があるのだと。
 嗚呼、けれど世界の全てに叫びたい。
 それでも差し伸べられる手があり、助けられる命があるのだと。
 あたし達はずっと暗闇の中で生き、ずっとずっとあがき続けてきた。それが、やっと救われた。そう、救われるのだ。きっともう、あんな日は来ない。絶望しかないような日は来ない。あたし達は救われるのだ。これから先の未来で、どんなことがあるかはわからないけれど……それでもそれは、ただ暗闇に沈んだ絶望的な一本道ではない。沢山の選択肢があり、沢山の場所、沢山の人へと続く道のはずだ。
 あとはただ、生き続けるあたし達の努力次第。そう……努力次第で行ける場所が増える。そんな所にまで、あたし達は「救い」上げられたのだ。あのどん底から!
 あたし達は屋根の上でしっかと抱き合って泣いた。嬉しかった。その喜びは、あたしもナナリーも一緒だった。全員が救われる。そんな夢は儚く散ったけれど、全員に近い大多数の人は救われた。失われた命への慟哭は止められないけれど、それでも、助かった命への賛美も止められない。だって、普通なら皆助からなかった。いつもと同じままなら、絶対に助からなかった。それが助かったのだ。それはなんて、素晴らしい奇跡なのか。
 例え掌からこぼれ落ちてしまった命があったとしても。せいいっぱい掌を広げて、あたし達を救おうとしてくれた人がいる。動いてくれた人達がいる。今なおあたし達を守ろうと動いてくれている人達がいるのだ。それはなんて、幸せなことなのか。
 あたし達はぐすぐすと鼻を鳴らし、しゃくりあげながら空を見上げた。あぁ、本当に世界はなんて美しいのだろう。あの日々に見た空と、今の空は何一つ違っていないはずなのに、どうしてこんなにも今日の空は美しいのだろうか。涙が出るほどに。
「……ベル。ありがとうね」
 一緒の毛布にくるまった姿で、ナナリーがそう鼻をすすりあげながら言った。あたしもぐすぐすと鼻をすする。
「なにが?」
「なんていうか……結局のところ、あんたがいたから、アタシ達は助かったってことだからね」
 あたしがレメクと出会ったから……ナナリーはそう言いたいのだろう。
 けれどあたしは首を横に振った。それは、違う。違うのだ。
「違うわ。あたしなんかのおかげじゃない」
 あたしは何もしていない。何もしてやしなかった。
「おじ様がおじ様だったから、あたし達は助かったの」
 優しくて強い、あの人が手を差し伸べてくれたから。
「今、こうしていられるのも、全部おじ様のおかげだわ。だって、最初に助けられたのは、あたし自身なんだもの」
 あの時が全ての始まり。あの時出会ったのがレメクでなければ、誰もこうしてここにいなかった。
「だから、ありがとう、はおじ様に言うべき言葉なのよ。あたし達、全員」
 あたしの言葉に、ナナリーはパチパチと瞬きをし、それからなぜかニンマリとした笑みを浮かべた。
「そうだね」
 ん? その笑顔は何かとっても気になるような?
 首を傾げたあたしに、ナナリーはニヤニヤと笑う。
「うん。まぁ、顔もいいし、格好いいわよね、あんたのおじ様。ちょっと恐いっていうか、無愛想って感じだけど、あんたといる時は妙に可愛いっていうかオモシロイし」
 むむ?! ライバル宣言?!
 びくっとなったあたしに、ナナリーは笑う。
「ま。アタシの趣味じゃないけどね。他のどっかのお嬢様とかにお嫁に来られるよりは、あんたとくっついてくれたほうが嬉しいからさ。応援するわよ。未来の孤児院院長夫人!」
「そ、そう?! ……って、ええ? なにその孤児院院長夫人、って」
 唐突なその言葉に、あたしは目を丸くする。ナナリーはけらけら笑った。
「あっは! そこも知らないんだ。あの人、孤児院をソウカツ? しちゃったらしいわよ? いや、何がどうなのかはよく知らないけどさ、なんか大人達が難しそうな顔でそんなこと話してたから」
 な、なななななんですとーッ?!
 ということは、孤児院でレメクは「院長先生」?! 院長先生といえば、言ってしまえば孤児院のパパ。てことは、レメクはパパに?!
「てことは、あたしは孤児院のママに!」
 ぽわわわん。ちょっと光景が浮かぶ。「ごはんですよ」そう子供達を呼ぶレメクに、一番に飛びつくあたし。何故か即座に「あなたは保護者でしょう?!」とペイッとされるところまでリアルに浮かんだ。……嬉しくない。
「……複雑だわ。あたし、一番にレメクに飛びつきたいのに」
「……アタシも今、複雑だわ。とりあえず、あんたの脳内会議には出席できそうにないわね」
 どういう意味でしょう?
 首を傾げたあたしの耳に、また楽しげな歓声が聞こえてきた。
 むむむむむ。男共。なにを楽しそうな声を上げているのだ。
「おじ様、男衆を集めて、なにやってるのかしら」
「……オトコシュウ、って……。いや、いいけど……。なんかねぇ、お風呂に入れてくれてるみたいよ? 女子は昨日で、元気な連中から先に世話してくれる女の人達に入れてもらってたからさ。今日は男の番……」
 あたしは皆まで聞かず飛び出していた。
 後ろから悲鳴のような声で名前を呼ばれたが、そんなことはもう脳みそから全部閉め出されている。
 うまい具合に、屋根の上への出入り口はナナリーが開けっ放しにしてくれている。そこへ飛び込み、全力で風呂場へ!
 いささかの躊躇もなく脱衣所に飛び込み、素早くサーチ! 誰もいない! ちょうど良い!!
 あたしは大きな布を一枚ひっつかみ、素早く全ての衣類を脱ぎっぱなした。光の速さで大布を体に巻き付ける。
 GO!
「おじ様っ! あたしも洗ってーッ!!」
「服を着て出て行きなさいッ!!」
 光速でずぶ濡れの上着が飛んできました。何故?!
 びしょぬれの上着にカウンターアタックをくらったあたしは、レメクの上着に張り飛ばされるようにして転がった。レメクの上着は大きく、転がったあたしはそれに覆われてしまって身動きもままならない。まごまごと暴れていたら、即座に駆け寄って来たレメクに上着ごと拉致されてしまった。
「むにやあ?!」
 脇腹捕まれた!
 あまりのくすぐったさに飛ぶあたし。すかさず拿捕され、濡れ上着にくるまれてしまった。ぬぁああ身動きがとれない!
 あたしは往生際悪くモガモガ動く。なんとか顔を出すことに成功した!
 レメクのバディはどこに?!
 もちろんあたしを抱えているのがそうだ。あたしは素早く目をカッぴらく。全裸のガリガリ仲間はどうでもいい。むしろアウトオブ眼中。しかし、シッカと捕らえたターゲットは、
「だから、どうして服着たままでお風呂入ってるのーッ?!」
「あなたがそうやって飛び込んできそうだったからに決まってるでしょうが!」
 決まっているのか。というか、予想の範囲内?!
 あたしはその瞬間、天啓のように閃いた。
 あたしを屋上に放り出したのは、このためか!
 あああああ照れ隠しだと思ったのに! なんということ!!
「ひどいおじ様! あたしだって背中流しっこしたいのにッ!!」
「未婚の乙女の肌云々はどうしましたか! いいからさっさと出なさいッ!」
 ペイッと廊下に出された。あたしの服毎。
 どんな神業速度?!
 あたしが振り返った時には、ぴしゃんっ! と音がして扉が閉められている。ぁあああ!
「おじさまーっ」
「いいから服を着て、部屋に行ってなさい!」
 とりあえず、屋上に戻れとは言われなかった。そこはもう諦めたらしい。
 しかし、
「開けてーっ」
「開けるわけないでしょう?!」
 ガーンッ!!
 あたしはショックで半歩下がる
 どういうツンデレ?!
 扉に張り付き直して引っ掻いた。
 アイはどこへ!!
「大好きって言ってくれたのにっ!」
 カリカリカリカリ
「言ってません! 同意しただけです! そもそも、今のこれとは関係在りません!」
「うそンッ?!」
 言い逃れ?!
「おじ様ひどいッ! あたしの心を弄んだのね?!」
「人聞きの悪い言い方をしないでください! だいたい、意味分かって言ってるんですかあなたは!」
「自分の心を慰めるものとして興じる。または自分の所有物であるかのように勝手に扱う」
「……合ってます」
「ほらッ!」
「なにが『ほら』ですか!! そういうセリフは十年後に言いなさい!」
(……十年後、と)
「なんで計画立ててるんです?!」
 脳内メモをした途端につっこまれた。
「いいから早く、風邪を引く前に服を着て部屋に戻りなさい! 貴女はメリディス族ですよ?! そんな格好でうろいろして、万が一があったらどうするつもりです!」
 ん? そんな心配を?
「大丈夫よ、おじ様!」
 あたしはグッと握り拳で叫んだ。
「すでに旦那が確定してる場合は、二番目以下は全却下だから! おじ様が存命のうちは、あたしはおじ様のものよっ!! もちろんおじ様も二号さん作っちゃダメよ?!」
「なんの話です!?」
「作る気なの?!」
「そっちじゃありませんッ!!」
 扉の向こうとこちらで叫び合うあたし達。
 あたしはカリカリと扉を引っ掻いた。
「開けておじさまーっ」
 かりかりかり
「おじさまーっ」
 かりかりかり
「おじさまー」
 かりかりかり
 しつこく扉を引っ掻くあたし。
 中は何故かシンと静まりかえっている。男連中の声も聞こえない。
「おじさまー」
 かりかりかり
 ぐす、と鼻も出てきたのですすりあげる。かりかりかり。ぐすぐす。
「おじしゃまー」
 かりかりかり……あ、出てきた。
 ぎぃ〜……と、いかにも不本意そうに扉が開き、涙目で扉にすがりついていたあたしをそこから出てきたレメクが眺めた。後ろ手に扉を閉めながら。
 おじ様ーッ!
 あたしは全力で全身ずぶ濡れのレメクに飛びついた。げふ、とか言われた。
 それには構わずすぐさま匂いを嗅ぎ、顔をすりつける。くんくんくんくん以下略。
 お湯に濡れたレメクはなんだかちょっと色っぽい。髪とか服とかへばりついててナイスな視界。グッジョブ。
 ……なんか、鳥肌たててる気がするけど。あ。寒いのね?! お風呂場から出ちゃったから!
 大丈夫。あたしが暖めてあげる! 身長差はしゃがんでカバーしてね!!
 ぐっと握り拳をつくったあたしに、何故かげっそり顔でレメクがぼやく。
「……あなたは、頼みますから、もうちょっとこう……もうちょっとだけでいいですから、何とかならないんですか?」
 もう何かイロイロなものを込めた切実なお願いをされてしまった。
 でも、言い方が抽象的すぎて、具体的に何がなんだかよくわからない。
 目をぱちくりさせたあたしに、レメクはただ嘆息をつく。
 そろそろと背後の風呂場の扉が開いて、中からめいめい孤児仲間が顔を出した。こっそりとあたし達を覗き見している。
 背中を向けているレメクは気づかないようだが、あたしは奴らにバッチリ気づいてしまった。男共はレメクに磨いてもらったのか、お肌がツルツルになっている。なんて羨ましい!
 嫉妬に燃えたあたし視界の端で、追いかけてきたらしいナナリーが呆れ顔で立ち止まるのが見えた。
「……とりあえず、ちゃんと服に着替え直してください」
 布一枚とレメクの濡れ上着にくるまっているあたしに、さらに嘆息をつきながらレメクは言う。
 あたしは微妙にもらい濡れしちゃってる自分の姿を見下ろし、さも不思議そうに尋ねた。
「背中流しっこは?」
「却下です!」
 全力の拒絶。そんな! アイを確かめあったのにッ!!
「あなたは、本当に頼みますから、もう少し自分が子供だということよくよく考えて……」
「そうよ、子供なら一緒にお風呂入ったっていいじゃない! ね!?」
「なに目を輝かせて言ってるんです?! 子供らしからぬことを考える人はダメです! だいたい、あなたも女性なのですから、そういうところはしっかりと……!」
 子供だと言ったり女性だと言ったり、忙しい人だ。
 あたしはガシッとその体にしがみついて問うた。
「おじ様はあたしを子供として見てるの、女性として見てるの、どっち?!」
 さぁ言い逃れはするな!
 あたしは全力で念じながらじっと見つめた。ゴォッと燃え立つ情熱を背負った気分。誰もの視線がレメクに向かった。衆人環視の中、さぁ答えをカモンッ!
 レメクはちょっと怒ったような顔で答えた。
 後にアウグスタ達の物議を醸し出すことになる一言を。
「どっちもです!」
「それはどう判断していいものか、ビッミョウだな」
 即座にツッコミが飛んできた。
 あたし達は全員がそちらを振り向く。
 どこから沸いて出たのかも謎なその人は、びっくりするぐらい豪奢な衣装でふんぞりかえった。
「……楽しげな光景だなァ、レメク」
 オオカミの微笑。目が爛々。女王様は今日も絶好調。
 突然現れた謎の巨乳美女に、あたしとレメク以外の面々がぎょっと目を見開いていた。彼等からすれば、突然人が湧いて出たように見えたのだろう。
 ……というか、今頃王宮(それとも神殿?)は大騒ぎなんじゃなかろうか? 門の紋章のせいでいつでもどこにでも飛んで行けちゃう女王様は、神出鬼没すぎて捕まえるのが難しい。この人に門の紋章を宿させるのは間違いだと思うのだ。未だに玄関からテクテク入ってくる彼女を見たことがないし。
 だが、今日のアウグスタはいつもとはひと味違う。あたしの知るどの彼女よりも王様らしかった。
 その身が纏うのは美しい白地のドレス。たっぷりとゆとりを持たせた絹は、流れるように滑らかにその肢体を覆っている。細かな金糸銀糸の刺繍も美しく、細かな模様をまるで光の欠片のように煌めかせている。ふんだんに使われているのは、もしかして真珠だろうか? いったいどれほどの金貨を積み上げればこの衣装が出来上がるのか。しかもその上から羽織られた深紅のマントは、貂の毛皮をあしらった豪華な逸品だ。それ自体が黄金の冠のような輝く髪には、優美なティアラまで乗せられている。
 あたしはその姿を惚れ惚れと見上げた。正直、見惚れきっていた。それほど、アウグスタは美しかった。素晴らしく美しい勇姿だった。
 ……ん? なぜ「勇姿」?
 あたしは自分で首を傾げる。優美な、とか、豪華な、とかそう表現してもいいはずなのに、どう見ても「美しい勇姿」にしか見えない。何故だろう。戦う女は美しい。そんな感じ。
「未来の妻を半裸で抱きかかえるとは、なかなかやるじゃないか。エェ?」
 そんな戦う女王様は、一歩踏み出して戦闘開始を宣言した。
「……陛下」
 嘆息混じりのレメクの声。やる気満々のアウグスタに反して、レメクはただただため息をついて肩を落としていた。戦う前から終わってる。なぜだろう? なんか弱みでも握られた?
 きょとんとしたあたしは、レメクの声で周囲がぎょっと身を引く様をハッキリと見てしまった。まぁ、当然だろう。王様だなんて、物語にしか出てこないような「遙か雲の上」の住人だし。
 おまけに今日のアウグスタは飛び抜けて美しい。言ってしまえば絢爛豪華な白金孔雀。あのモザイク水着や胸元半見えのキワドレスなら尊敬も半減だが、今日だけは違う。典雅で優雅な、素晴らしい女王だ。
 ……いつもこんな格好なら、そんけーできたのに……
「……何しに来たんです? あなたは。いろいろ忙しいはずではありませんでしたか? まさか閣下に追い出されましたか? それとも、猊下に追い出されましたか?」
 丁寧ながらも失礼なことを言う。愕然とした周囲に反して、アウグスタはニヤリ笑いでレメクの問題発言をスルーした。
 まぁ、この二人の間では、こんなやりとりは普通だ。
「なに。おまえのおかげで裁判が超絶早く終わったからな。さっさと問題を片づけることにしたわけだ。……ベル」
 ん? あたし?
 名を呼ばれて、あたしはきょとんとアウグスタを見上げた。
「喜べ」
 なにを?
「罰ゲームだ」
 なにを喜べと?!
 疑問、期待、驚愕と変わったあたしの表情に、アウグスタは心底嬉しそうな顔をする。
 どんなドエスですか?!
「あぁ、誤解するな。おまえには楽しい内容のはずだ。なぁ、レメク」
「……嫌な予感がいたしますね」
「そうかそうか。ふっふっふ。聡明なおまえにこれをやろう」
「いりません」
 何をとも問わずに速攻でレメクが拒否をした。アウグスタは気にしない。腰をひねるようにして両肩をクイックイッと揺らすと、巨乳の間から二つの手紙がニョキッと出てきた。
 異次元ポケット?!
「受け取るがいい。招待状だ」
「ですから、いりません」
 なま暖かい手紙二つをジト目で見て、レメクがあたしを抱えたまま一歩後ろに下がる。アウグスタは獲物を追いつめる肉食獣の笑みで笑った。
「いぃやぁ? 拒否はできんなぁ、レメク。なにせお前、ベルを助けるために我々に大変な恩をうけたはずだ。違うか? ん〜?」
 くっ! 卑怯なッ!
 そんな感じの気配がレメクから漂ってきた。ああ、レメクがアウグスタに一歩引いてたのは、そのせいだったのか。あたしは申し訳なさを込めてレメクを見た。あたしが馬鹿だったばっかりに、レメクにまで罰ゲームが……
 ……ん?
 レメクとあたしのセットなの?
 きょとんとしてアウグスタを見ると、女王陛下はニンマリと笑った。
「おまえ達は私に借りがある。そうだな? 馬鹿夫婦。故におまえ達にこれを拒む権利は無い」
 スッパリと言って、黄金の女王様はあたしとレメクの間に二つの手紙をねじ込んだ。
 あたしは半濡れの指でそれをつまむ。
 それは綺麗な金箔を押した、美しい招待状だった。
「王命だ」
 歌うように楽しむようにアウグスタは言う。唇には悪戯な笑みが張りつき、パチンと瞑った片目にも楽しげな思いが濃く浮き出ている。
 なのに、なぜか、もう片方の目だけが、恐ろしいほどの真剣さを湛えてこちらを見ていた。
「アウグスタ……?」
 目を瞠ったあたしに、アウグスタは告げる。厳かな声で。
「汝等二名に、王宮の夜会への出席を命ずる」


 ──どこか遠くで、未だ知らぬ世界の扉が開かれる音がした。


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