Camarade |
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劣悪な環境の船で海上を移動したのは、初めてではない。確かに通常の三倍もの速度で走る船というのは初めてだが、だからといってこの強烈な体調不良はそのせいだけではなかった。 もともと、船には弱いのだ。 「うぉぐぅっぷ」 バケツかかえて船の中央付近、通路側。できるだけ揺れが少なくて硫黄臭のしない場所でうずくまりながら、ヴォルフは吐きすぎて朦朧とする意識を必死でかき集めていた。あまりの苦しさに堪えきれなくなっている涙まじりの視界の向こうでは、カモメが気持ちよさそうに飛んでいる。 憎らしい。 「さ……最悪だ……」 「しょうがないよ、こればっかりは。どうしようもないことなんだから、気にしない方がいいよー」 すぐ真横から暢気な声がかけられる。最悪なのはこの相手がここにいることを含めた自分の現状の全てなのだが、それを言うのは憚られた。 横にいるのは、おそらく、歴代の王ですらも頭を垂れなければならない相手なのだから。 「あんまり近くを見ないようにね。遠くと見てたほうがまだ楽だよ」 双黒の大賢者。伝説とされるほどの偉業を成し遂げた偉人であり、その美貌と身に纏う希有な色は、他国の者ですらため息をつかずにはいられないほどとされている。ユーリの双黒が尊ばれるのも、ただ元々稀少な色であるということ以上に、『彼』というカリスマの存在が大きい。彼と同じ双黒ということに、意味を見いだす者も多いのだ。 渋谷有利は渋谷有利だというのに、だ。 「……まさか、伝説の、大賢者に、介抱される、とはな」 「……どうでもいいことだと思うけどー?」 皮肉を感じ取ったのか、それとももともとそういう物言いなのか、ものすごくどうでもよさそうに反論された。すぐ傍にいる実物の大賢者は、ギュンターがうっとりと語る理想像的人物(空想含む)とはちょっと、いや、だいぶ違う。 穏やかで、叡智に富み、思慮遠望にして慈悲深い偉人。……全然違うとは言わないが、目の前のいるのはもっと等身大の男だ。皮肉も言うし、揶揄もするし、不機嫌にもなるし、時々コンラートさながらの寒いギャグも言う。 (……まぁ、そういうものだろう……) 親父ギャグはさておき。 理想と現実は違う。 四千年前のことなど、誰も詳しくは知らない。肖像画と、彼の起こした偉業と、伝え聞く伝説だけで国民は英雄を作り上げた。作られた理想像と本人が違っていても、当然のことなのだ。 ……温厚で頭が良くて優しいのは、間違いではないのだが。 げぇげぇ吐いていた自分に近寄って、てきぱきと対処してくれたところからしても、それは頷ける。名も権力もある者が、吐いてうずくまる相手に自ら手を差し出すだろうか? まして初対面から、妙につかっかってきてたというのに。 「……ぅぐぅっぷ」 「……あぁ、もう吐くものがないから、胃液が出ちゃってるんだね……ほら、これで口ゆすいで。気分が少しでもよくなったら、何か持ってくるんだけど」 濡れタオルで口を拭かれ、冷たい水をあてがわれる。なんだか小さな子供のように世話をやかれている。あの大賢者に! と思うと目眩がしそうだ。 この相手のことはよくわからない。途方もない身分なのを除いても、今までとはあまりにも違うタイプの者だからだ。そういえば、ユーリのときもそうだった。 ……彼とユーリは、どこか似ている。 それもまた、気分を最悪にさせてくれることなのだが。 (だいたい、なんで二人もいるんだ‥‥?) 双黒というのは一度に二人も出てくるようなものではないのだ。世に二つ無き、と謳われるほど希有な存在であるはずなのに! もっとも、今の『彼』は目も髪も黒くはない。最初見たときは、さすがに目を疑った。あの双黒の大賢者が、金髪碧眼?? ありえない。 だが、よく見れば微妙に色がおかしい。 もっとよく見れば、髪の根本や瞳の奥に隠しようのない漆黒の色が見える。 色を変えているのだ。よくユーリが人間の国にいくときに色を染めてたりしていたように。 しかも、こちらの国には無いような、おそろしく技術の高い染めものを使っているらしい。なにせずぶ濡れになってもほとんど色が落ちない。おかげで、彼本来の色を見破られることもほとんどなかった。 さすがは大賢者といえばいいのか。それにしても、それならなぜユーリは黒色を出しっぱなしにしているのだろう? どうせなら、一緒に隠してやればいいのに。 「それは無理だよー。こっちに来る前にきちんと染めないといけないんだから。僕だって次はどうなるやら……学校もあるし、そうそうカラーリングしてられないしね」 ……どうやら思ったことが口についてでていたらしい。のんびりとした口調で言われて、ヴォルフラムは嘆息をついた。 気にくわない。この相手は気にくわない。 誰よりもユーリに近く、同じ色を宿し、おそらく同じ視線に立てる唯一人の相手。 元々の立場が違うと自分に言い聞かせるには、彼もまたユーリと同じくすぐ傍らまで来て等身大の姿を晒しすぎる。 自分も相手も変わらないんだと、恐ろしい錯覚を相手に与えさせるほどに。 背中を撫でてくれている相手を力無く覗き見ると、当人は視線を遠くへと馳せていた。その先に広がるのは無限の空と海だ。 「……‥‥」 その、怖いくらいの静謐な表情に、思わず息を呑んだ。 大人の姿で描かれていた美しい大賢者の顔と、幼さの残る今の彼の顔が、ふいに重なって見える。顔のパーツが似ているわけではない。なのに、ただ、美しいと。 そう、美しいと、素直に思う。 絶世の美女と言える母親に似た自分は、おそらく美貌という点に関しては他の誰にも負けていないだろう。だが、この相手には負けさえしなくとも勝てているとも思えない。類は異なるが、確かに彼もまた驚くほどに美しかった。 ……ユーリは全然気づいてないようだが。 「空や海の色は、変わらないのにな……」 ふと、嘆息にも似た呟きが聞こえて、ヴォルフラムははたと我に返る。隣にいる、遠い、どこか途方もなく遠いものを見ている少年の前には、薄い雲をところどころに引いた青空が広がっていた。 ……四千年前の空も、今と同じ色をしていたのだろう。 ヴォルフラムは押し黙った。遠くを見る大賢者の眼差しに、深い悲しみがあるのを見つけたからだ。呟きは、あまりにも小さく寂しそうだった。 なにを思い、なにを願い、なにを祈り、なにを欲したのか。 彼等の時代は遠く昔に置き去りにされ、今は愛すべき同胞は魔族として世界の片隅に追いやられ、必死に封じた創主の箱は人間達の手で無遠慮に使われようとしている。 決して使ってはいけないと、言ったひとの目の前で、実際に使われてしまった。 あの時代に、命をかけて戦ったひとりの前で。 「……人は、愚かだ」 ※※※※以下、同人誌へ※※※ (※以前ここは小説の全てをアップしていましたが、全文無断でコピーされましたので消去させていただきました。ご了承ください) |
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