5 分かたれた道

 華やかな港区大通りは、あたし達孤児にとっては異境に等しい。
 けれど一歩奥に入り込めば、なじみ親しんだ薄暗い気配がたちこめる。どんな煌びやかな場所にも影はあり、路地裏はいわば街の影。例えそれが王都随一の繁華街と言えども同じだった。
 建物と建物の狭い隙間をくぐり抜け、奥へと抜ければそこは裏の道。えた臭いのする路面に蹲るのは、どこか飢えた目をした野良犬と、死んだような目をした子供。子供はあたしを見ると一瞬だけ目を瞠ったが、あたしはそれを見ることなくその前を走り抜けた。
 あたしは走っていた。なじんでいたはずの路地裏の臭いが鼻につく。できるだけ息をしないように口元を左腕で覆って、その無意識の行為に驚いた。息を殺してどうやって早く長く走るつもりだったのか。無意識だからこそ情けなく、同時に悲しい。故郷のような慣れ親しんだこの場所を、臭いと思う日が来るなんて……!
 あたしは意を決して覆いを外した。空気を大きく吸い込む。確かに臭い。とても臭い。こんなに臭くてたまらない場所だとは思わなかった。普通の人々からすれば、あたし達の暮らす世界は、こんなにも汚らしい場所なのだ。だが、ああ、あたし達だって、そんなところに好きで暮らしていたわけじゃない!
 もはや元の色すらわからない茶斑の路面を蹴りつけ、あたしは細い路地を右へと曲がった。
 奥から怒鳴り声が聞こえる。
 乱れた複数の足音。小さく軽い音は子供の足音だ。
 あたしは素早く周囲を見渡し、武器になりそうなものを探す。
 千切れた布、穴の開いた調理具、折れた竿……あたしは穴の開いたフライパンを走りながら拾い、柄の部分が腐敗してないことを確かめてから力強く握りしめた。
 細い路地から開けた場所に飛び出したのは、ちょうどその時だ。
「捕まえたぜ……!」
 男の背中が見えた。
 空き地にいる人の数は、大人が二人、子供が四人。
 カッフェと他三人はどこで合流したのか。ついでに追っ手の大人はどういう人なのか。考える間などなかった。男の手はやせ細ったカッフェの腕をしっかりと捕まえている。怪我をしている腕であるため、カッフェが苦痛の声をあげるのが聞こえた。
 あたしは歯を食いしばる。
 確認している時間は無い。見知らぬ男があたしの仲間を拘束している。大事なのはそこだけだ!
「手間ぁかけさせやがって!」
 男が拳を固めるのが見えた。
 あと三歩!
 上がる悲鳴。振り上げられる拳。あたしは全力で後ろからとびかかる!
 とう!

 ズバカァーンッ!!

 なかなかすごい音がした。
 あたしは振り下ろしたフライパンを見る。いや、正確にはそれが叩いた物体を。
 あたしの前にあるのは、粉々に砕かれ陥没した路面だった。
 ……あれ? 目測誤った?
 どうやら一歩分跳躍が足りなかったらしい。寸前で男にあたらなかった攻撃に、しかし、時が止まったように全員がこちらを見て硬直していた。
 殴りかかっていた男も、拳を宙に浮かせたままで硬直中。
 ん? 結果オーライ?
 とりあえず、カッフェは殴られずにすんだようだ。
「今の内に逃げるのよ!」
 思わず手が緩んだのだろう、解放されてぼてっと地面落ちている痩せた少年──カッフェにあたしは声をかける。
 なぜかカッフェはこちらを見て顔を引きつらせていたが、即座に反応して走り出した。他の子供も一緒に走り出す。
「あ、て、てめぇ!」
 運良く攻撃をまぬがれたあの男が、微妙に青ざめた顔でカッフェを追う。もう一人の男も、どういう理由でかあたしを注視したままで後退。あたしは再度武器を振りかぶった。
「とーっ」
「ぎゃあああああッ!」
 ものすごい悲鳴をあげて男が逃げた。二人とも。
 ズガバガンッ!
 素晴らしい轟音をたてて、あたしの「破れフライパン」が路面を粉砕する。おかしい。どうしてこう目標からズレるのか。
 い、いや、今回は目標物が高速でトンズラしたからよ! 別に逃げなくても当たらなかっただろうぐらい外れてやしなかったんだから! たぶん!!
 仕方なく三度目の正直をするために武器を振りかぶる。が、そのときには大人二人は先を争うように別の路地裏へと飛び込んでいた。
 逃げやがった!?
 あたしは破れフライパン片手に追撃しようとし、ハタと目的を思いだす。
 いかんいかん。裏路地のボス争いじゃないんだから、追撃する意味ないんだった。
「チッ。運が良いわね」
 舌打ちして、あたしは仲間が逃げた方角へと視線を向ける。
 どれほど勢いよく逃げたのか、もはや孤児仲間は影も形も無かった。
 かわりに、壁の上にいた赤茶色のネコと目があう。
「……にゃあ」
 挨拶をされてしまった。
 あたしは片手を上げて挨拶し返し、武器を片手に仲間を求めて走り出す。
 そんなあたしをネコはどこか怯え混じりの目で見送ってくれたのだった。

 ※ ※ ※

「やーっと見つけたわよ」
「ぎゃあああっ!」
 あたしが逃げ延びた四名を捕獲したのは、あれから十分近くたった後だった。
 いったいどれほど急いであの場から離れたのだろう? 死にものぐるいで逃げている四人に追いついた時には、軽く区域を越えるぐらいの距離を踏破してしまった。
 どんな理由があって追われていたのかは知らないが、この逃走の必死さからして、よほどのことであるに違いない。
「た、助けてくれ! 俺らは別に、何も悪いことしちゃいねぇよ!」
 必死に言う怪我人──カッフェに、あたしは呆れて嘆息をついた。
「だから助けてあげたじゃない。なによ、その鬼でも見たかのような顔は」
 なぜかあたしを見てガクガク震えている四人。その様子に、あたしは首を傾げた。
 せっかくこうして頼りがいのある助っ人が登場したというのに、この反応はどうだろう? もしや、まだあの男二人のことを警戒しているんだろうか?
「さっきの二人なら、どっかに行っちゃったわよ? にしても、あんた、逃げ足早くなったのねぇ。ちょっと追いつくのに苦労しちゃったわ」
 笑って近づくと、ひぃっと悲鳴をあげらた。
「…………」
 ……マテ。あんたら。
 ひょっとして、あたしに怯えてるの?!
「ちょ、なにその反応!? 助けに来たっていうのに、なんで怯えられなきゃなんないのよ!」
「……ひ、ひぃっ」
 彼らが見ているのは、もっぱらあたしの右手だ。
 右手?
 ……フライパン?
「これが何よ」
「……な……殴らねぇか?」
「? だから、なんであんた達を殴るのよ? 理由が無いじゃない」
 意味がわからず首を傾げると、四人は一斉に盛大な安堵の息をついた。
 どういう反応?!
「……こ、恐かった……」
 なんかそれ、半分ぐらいあたしに対して言ってないだろうか?
 ちょっとこめかみに青筋たてたあたしに、カッフェが怖々ながら笑みをうかべる。
「と、とりあえず、助かったぜ。とんでもないやり方だったけど……」
 どのあたりが「とんでもない」やり方だったのかは不明だが、とりあえず落ち着いてくれたようだ。
「てゆか、あいつら何?」
 嘆息をついて、あたしはカッフェを見る。
「あんた、一体なにやったの?」
 ズイッと一歩迫ると、ヒィッと二歩分逃げられた。
 ……どうしてやろうかしら。
「だ、だから! 俺ぁ別に、なにも……!」
 視線を右斜めに逃がしながら、カッフェが焦った声で訴える。あたしは深々と嘆息をついた。
「……あんた、嘘つくときの癖が直ってないわよ。……悪いことはしてないけど、追われるような理由には、心当たりがあるってことね」
「……っ!」
「で、あいつらは何? 何から逃げてるの? ちゃっちゃと答えたほうが身の為よ?」
 ぶん、と右手を軽く振ると、カッフェは大急ぎで首を縦に振った。
 ……あれ? あたし、もしかして脅迫しちゃってる?
 まぁ、いいけど。
「あいつら、孤児院の連中の仲間なんだ。オレ、孤児院から逃げて来たんだ!」
「……孤児院から逃げてきた……? 意味がよくわかんないんだけど、つまり、脱走ってこと?」
 きょとんとしたあたしに、カッフェが頷く。
 あたしはますますきょとんとなった。
「なんでそれだけで、あんなに追われるわけよ?」
 孤児院は孤児をひきとって育てる場所だが、孤児のひきとりについて強制力は無い。
 むしろ唯飯食いの孤児などいてもいなくてもどうでもいい、といった感じで、時折点呼で人数を確認する以外は、頭数があわなくても放置されている状態だった。
 そんな場所から、わざわざ「逃げて」いるというのは、ハッキリ言っておかしい。だいたいにして、あの追っ手は何だというのだろう?
「……あんた、院長か誰かの大事な物、盗ったりしてないでしょうね?」
 ビクッとカッフェの肩が揺れた。
 ……図星のようだ。
「……そりゃ、泥棒すりゃ追いかけられるわよね。気持ちはわかるけど、何盗ったのよ? パン? それとも干し肉?」
 言いながら、それでもあたしは首を傾げていた。
 正直、パンや小物程度なら、盗んでも罰は鞭打ちぐらいだ。
 泥棒は悪いことだが、空腹で生きるか死ぬかという状況も多いため、ちょっとの食料程度なら誰もがよくやっている。良いことでは決してないが、生死がかかっている時にそんなことは言ってられないのだ。
 早い話が、パン泥棒ぐらいなら日常茶飯事なのである。
 だいたい、大の大人が追いかけ回さなくても、孤児は孤児院にぐらいしか居場所がない。嫌でもそこに戻るしか無いのだから、わざわざああやって追っ手がつくのはおかしすぎる。その理由がパン一つとかであるはずがない。何かもっと、特別なものだ。
 それに、カッフェの腕には傷がある。
「ちょっと、その傷診せて」
 あたしはズカズカと近寄ると、有無を言わさずにカッフェの腕をとった。その左腕に巻かれていたボロ布をほどくと、まだ血が流れている傷口が見えた。
「なにこれ!? 刃物傷じゃない!」
 あたしはその切り傷に目を剥いた。
 ナイフとか、そういうのだろうか? 少なくとも、棒や鞭といった物でつけられた傷では無い。切り口が違いすぎる。
 ぴりぴりと、頬の辺りに小さな痛みが走った気がした。嫌な予感がする。刃物が出てくるなんて、普通じゃありえない。これはもう、体罰とかいう次元を超えている。
(なにやったのよ! 一体!!)
 ぱっくりと開いた傷に眉をしかめ、あたしはおじ様からもらったハンカチを取り出した。開いている傷口をできるだけピッタリとあわせてから、ハンカチで腕をしばる。とりあえず、まずはこの傷をなんとかするべきだろう。
 あたしは立ち上がって宣言した。
「教会に行きましょ。この怪我塞がなきゃいけないし、孤児院の誰かに傷を負わされたんなら、保護してもらわなきゃ」
「だ、ダメだ!」
 即座に反対が飛んでくる。
 なぜか顔を赤くしたカッフェが、あたしから視線を逸らして後退った。
「助けてくれたことは、感謝すっけどよ! あんたにゃ関係ねぇし!」
 ……むかっ……!
「関係ないってことは無いでしょう! 関係無いってことは!! だいたい、教会行くのに関係がどーとか、それこそ関係ないでしょうが!」
「教会はダメなの! あいつらの仲間がいるから!」
 ガーッと言い返したところで、横合いから別の声があがった。カッフェと合流して捕まえられかけていた子供の一人、同じ年ぐらいの女の子だ。
 ……えーと……誰だろう?
 うちの孤児院の連中の顔は知ってるけど、この子は知らないなぁ……?
「……あんたは?」
「……ナナリー」
 少女がちょっと目線を逸らして答える。
 ……なんでさっきから、あたし、目線逸らされてるんだろう? ちょっと気になってきたぞ。
「あたしはベル。……ねぇ、どうして教会がダメなの? てゆか、あいつら、孤児院の連中の仲間って言うけど、どういう仲間なわけ? なんか妙にガラ悪かったけど」
 あたしの声に、カッフェがぎょっとしたように顔を上げた。どの部分に反応してかは知らないが、驚いた顔であたしを見上げている。……おや?
「……ベル……?」
 ? どういう反応? これ。
 なんで幽霊でも見るような顔なわけ?
「そうよ? なに?」
「い、いや……」
 まさかな、いや、まさかな、とか小声でブチブチ言ってる。なんだろう?
 首を傾げたあたしに、ナナリーが何故か苛立たしそうな声で言った。
「教会は、孤児院とグルなのよ。だから、行っちゃダメなの。絶対捕まるわ」
「……だから、なんで捕まえられる云々の事態になってるわけ? 何やったのよ? 盗んだ物って、そんなに大変なもんだったの?」
 沈黙。
 しん、とした四人に、あたしは嘆息をついた。
「……あのね、ちゃっちゃと話してくれないと、どうにも動きようが無いでしょ? 孤児院も教会もダメって言うんなら、別の所に行かなきゃ。その怪我、全然血が止まってないじゃない。手当てしなきゃ、大変なことになるでしょ?」
 またも沈黙。だが、互いにせっぱ詰まった顔で目配せをしている所を見ると、怪我をなんとかしないといけないという認識はあるようだ。
 ただ、安全地帯がどこにも無いだけで。
(どこか、いい所……って、あるじゃない! 絶対安全な所が!)
 四人の様子に眉を寄せていたあたしは、ハタとそのことに思い至って顔を輝かせた。
「いい所があるわ! おじ様の所で手当しましょ!! おじ様ならきっと、なんとかしてくれるから!」
 レメクに迷惑をかけるのは心苦しいが、この際四の五の言っていられない。あんな場面を見た以上、早く安全園に行かないといけない気がするのだ。
 本来なら教会のほうがいいのだが、その教会がダメだと言うのなら、もう後はレメクを頼るしか無い。レメクならきっと誰が来ても大丈夫だと思う。なにせ女王様とタイマン勝負しちゃうような人なんだから。
「……おじ様、って……あんた、俺達を助けてくれるのか?」
 あたしの提案に、唖然とした顔でカッフェが呟いた。
 あたしは首を傾げる。なんでわざわざそんなことを訊くのか、その理由がわからなかった。
「さっきだって助けてるじゃない。だいたい、怪我してたら普通、手当するでしょ? 今までだったら、そんなツテなかったけど……今はおじ様がいるもの。なんとか頼んでみるわ! いざとなったらあんたの怪我の治療代、あたしの借金に上乗せしてもらうから、お金のことも心配しないで!」
 この際一人分の治療費が上乗せされたところで、あたしの借金の総額からすれば微々たるものだろうし。
 そう思いながら言いきると、四人が非常におかしな顔になった。
「……ツテ……?」
「借金?」
 なんだか猫がいきなりしゃべりだしたのを見たかのような顔だ。
「そうよ。あたしも死にかかってた所を助けてもらったクチだから。その治療費とかがね……ふふふ……あれいったい、金額に換算したらどれぐらいなんだろう……壁も壊しちゃったし……絶対リメオン金貨百枚ぐらいいくわ……」
 思わず遠い目になる。
 そんなあたしに、ナナリーが恐る恐る声をかけた。
「まさか、あんた、アタシ達の仲間? 養子縁組か何かで、貴族になったの?」
 不思議な誤解をされている。あ、いや、そうか。あたし、今、レメクの買ってくれた服を着てたんだった。
 ハタとそのことに思い至って、あたしは自分の服を見下ろしてから慌てた。
「うん。えと、孤児仲間かっていうなら、そうよ」
「うそ……え、どこの孤児院から? 本当に貴族の子になった人いるんだ! アタシ初めて見たわ!」
 え。ちょっと待って。こ、ここここ子供ですって?!
「あ、あたし別におじ様の子供になったわけじゃないわよ! 養子縁組だなんて冗談じゃないわ!!」
 レメクが「お父さん」!?
 そんなの絶対に嫌だ!!
「あたしがなりたいのは、おじ様のお嫁さんなんだから!!」
 堂々と宣言したあたしに、四人があんぐりと口を開ける。
 ナナリーがまじまじとあたしを見てから、何とも言えない顔になった。
「えーと、その、も、目標は高いほうがいいわよね? うん」
「そうよ! てゆか、なんでそんな慰めるような目で言うの!?」
「えーいや、だってさぁ、普通ありえないじゃん。アタシ達みたいなのが、貴族のお嫁さん? 無理無理。せっかくそんな洋服着せてもらえるぐらいかわいがってもらってんならさぁ、子供になって、そこからいい嫁入り先探しなよ」
「い、嫌よ! おじ様のお嫁さんになれないなら、一生独身でいるわ!」
「……え。そんなに素敵な人なの?」
「もちろん!!」
 全力で頷くあたしに、ナナリーの顔にほのかな赤みが差した。口元がゆるゆると笑む。
「ね、ちょっと、どんな感じ? どんな感じなのよ!? 貴族って、嫌な感じじゃないの?」
「おじ様は全然そんなんじゃないわよ! って言っても、正直どんな階級の人かさっぱりわかんないんだけどね! あのね、ものすごく格好良くて、頭も良くって、強くって、優しくって、足長くって、胸板厚くって、いい匂いがして、ものすごくいい匂いがして、格別にいい匂いがして、さらに美味しい御飯作ってくれるの!」
 あの匂いを思いだすだけでうっとり。思わずよだれが出そうなほど。
「……な、なんか、いろいろ予想と違うわね……」
「それでね! それでね!! ……って、こんな素敵話してる場合じゃないじゃない!」
 ハタと途中で我に返って、あたしは慌てて「素敵おじ様披露講演」を切り上げた。本当なら五時間ばかり蕩々とうとうと語りたかったのだが……!!
「とりあえず、おじ様の所なら安全よ。あたしが保証するわ。だから、そこに行って手当てしましょ。で、行きながらでいいから、パパッと状況説明してね。なんで追われてるのか、とか……って」
 そこまで言った時、あたしはとある「盗まれたら追っ手さしむけちゃうだろう孤児院の大事なブツ」に思い至った。
「まさかカッフェ! あんた、院長が大事にしてるって言う悪趣味全開な裸金無垢像盗んだんじゃ……!?」
 あたしの名推理に、カッフェが目を剥いて怒鳴る。
「誰があんなもん盗むかーッ!! てゆか、なんであんた、俺の名前知ってんだよ?!」
「はぁ?! あんた何言ってんのよ! 知ってて当たり前でしょうが! 何年一緒にいたっつーのよ!」
「!?」
 カッフェが驚愕の目であたしを見る。だからその反応は何よ?!
 あたしは握り拳で文句を言おうとして……ふと、気づいた。
 も、もしかして……?
「……まさか、あたしが誰か……わかってなかったとか……?」
「ま、ままま、まさか?!」
 カッフェはまさに幽霊を見た哀れな通行人Aのような顔になる。ぎょっとしたようにのけぞり、それから素早くあたしの前に立って真っ直ぐあたしを見た。あたしはくいっと目深く被っていた帽子の先っちょを上げて見せる。……髪は隠したままだが。
 思った通り、カッフェの顎がガクンと落ちた。
「べ、ベル?! 本当におまえか?!」
「やっぱり気づいてなかったわけ!?」
 い、いや、そりゃ確かにこんな格好じゃ気付っつっても無理かもだけど!
 元孤児仲間とか、名前とか、そういうので気づかなかったんかい!
「お、おま、なんでそんな貴族みたいな……い、いや、それよりも、生きてたのかよ!?」
 ちょい待て!? まず生死レベルなの!?
「生きてるに決まってるでしょ!? 勝手に殺さないでよ!!」
「いや、だってよ! あの雨ん時からずっと、どこにもいなかったし! 誰も知らなかったし……だ、だいたい、なんで今まで連絡一つよこさねぇんだよ! 孤児院の連中だって、お前は死んだもんだと思ってるぞ?! 登録も消されたし!」
「なんですってーッ?!」
 登録というのは、孤児院の名簿のことだ。孤児院に保護された時に名簿に名前が登録され、死亡ないし誰かに引き取られた時に登録が消される。
 てゆか、いや、まぁ、おじ様に引き取られてるから、登録は消されて当然なんだけど……。
 って、いや待て待て! 今、死んだものと思われて登録消されたって言わなかった?!
「死亡登録されちゃったの!? あたし。嘘でしょ?!」
「嘘なもんかよ! お前、今、幽霊だぞ!」
「嘘ぉ?!」
 冗談じゃない!
 死亡による登録消去と、引き取りによる登録消去は全然別だ。
 孤児は、孤児院に入っている間は「身元は孤児院にある」として戸籍が与えられる。だが、死亡登録でそれが消去されると、戸籍も末梢されることになり、今後の人生はまさに幽霊のごとく真っ暗闇になるのだ!
 なぜなら! ちゃんとした職につくためには! 戸籍が必要だからである!!
 例え「孤児院出身」という戸籍であっても、在ると無いのとでは雲泥の差が出る。あたしは真っ青になった。
「じゃ、じゃあ、あたし孤児院にも籍が無い状態で……や、やばいわ! 早くなんとかしなきゃ……!」
 いかん。混乱してきた。と、とりあえずここは一度、孤児院の大人と話し合いを……
 あわあわと孤児院に走ろうとしたあたしの両手を、カッフェとナナリーが慌てて掴んだ。
「ば、馬鹿! どこ行く気よ!?」
「ちょい待て! ベル!! お前、孤児院に行くな!」
 ものすごい勢いで止められた。
「なんで?! って、カッフェ! あんたその腕で掴んだらダメでしょうが!」
 カッフェは右腕を押さえて悶絶中。馬鹿者ーッ! その怪我で腕を使うようなことするなーッ!!
「だ……ッッ……だから! 今!! 孤児院はヤバイんだって! だいたいお前、その格好なんだよ! どっかの姫様みたいな姿しやがって!」
「え。お姫様みたい? マジ? そう見える?」
「うわ! てめぇなに幸せそうな顔してやが……ッ! 服がそう見えるってだけだよ!」
「わかってるわよ! きっちり指摘されなくても!! ちょっとぐらい夢見させてうれたっていいじゃない! おじ様にもそう見えてるかなーとかイイ気分を一瞬だけ味わいたかったのにーッ!!」
 乙女心のわからない仲間のせいで、夢見気分も一瞬で台無しだ。わかってるもん。どうせお姫様みたいにはなれないもん。
 キーッと怒ると、ナナリーが複雑そうな顔をした。他二人はぽかんとこちらを見ている。「けっこうそれっぽく見えるけど」というナナリーの呟きが謎だ。
「というか! 順番に話してよね! なんで追われてたのか、とか、ナナリーやこの子達のこととか! 孤児院や教会がヤバイ理由も!」
 あたしの声に、カッフェは一瞬押し黙り、
「……わかった。けどよ、とりあえず、場所変えねぇか?」
 どこかおどおどした顔で周囲を見渡しながらそう言った。

 ※ ※ ※

 カッフェは、言ってみれば孤児院での先輩のようなものだった。
 先輩とは言っても、孤児院に入ったのが早かったというだけで、年は一緒だ。お互い気が強くて手が早かったこともあり、早い内から喧嘩仲間となって、今に至る。
 カッフェは喧嘩っ早いが、実のところ喧嘩には弱い。かわりに足がすこぶる早く、おまけに器用で頭も良かった。
 それに、喧嘩っ早いが男気はそれなりにあり、弱い者いじめはしなかった。そういう意味では気があって、あたし達はよく喧嘩に助太刀をしあったりと、なかなか良い協力関係を結べていたのである。
 孤児院という所は、ある意味最悪の空間ではあるが、それでも気の合う仲間がいればそれなりに暮らしていける。仲間同士で連携をとりあい、互いに支え合えば生きていけるのだ。
 あたし達「年少組」は、そういう意味ではよくまとまっていたと思う。
 年長組はまとまりのあるグループとそうでないグループがあったし、あんまり面識も無いからよくは知らない。だいたい、年少組と違って働きに出ることの多い年長組は、孤児院にいることが少ないのだ。それに、年長組は入れ替わりが激しい。だから、あたしも「孤児仲間」と呼べるのは年少組だけだった。
 その年少組に異変が起きたのは、あの寒い雨の日からだったという。
「……あの日がはじまりだったんだ」
 入り組んだ路地を縫うようにして走り、さらにあの場所から遠ざかった所にある空き地。
 路地裏に転々とあるその空白地帯の一つで、であたし達は情報交換をした。
 といってもあたしの方は、死にかけたところをおじ様に拾ってもらって以下略、で終わったんだけど。
「あの日、院に帰って来れたのは、十五人だけだった」
「……十五人……?」
 あたしは掠れた声で呟く。
 あたし達がいた院には、少なくとも五十人以上の孤児が収容されていた。
 覚えている。あの日、雨を理由に院に居残っている者もいたが、春の祭りをひかえた時期だったため、出稼ぎに行く者も多かった。たぶん半数以上は街に出たと思う。
 それなのに、帰ってきたのが十五人。
「年長組も含めてだぜ? 俺はたまたま仕事が休みで、あの日は院の床磨きをさせられてた。居残ってたのは、年長組が……えーと、七人、だったかな? で、俺達の仲間が俺を入れて八人。あの日ってさ、朝からずっと雨だったろ? おまけに寒かったしよ。で、昼前あたりからぽつぽつ出払ってた奴らも帰ってきた。商売にならないってんで、仕事先から院に帰されたんだよな。けど、それが、夜まで待って全部で十五人。……へっ……全員ずぶ濡れでさ、中には質の悪い風邪ひいてたヤツもいてよ……」
 その声に血の気が下がるのを感じた。。
 孤児院で質の悪い風邪を引くということがどういうことか。そんなこと、嫌になるぐらいよくわかっている。
 あたしは強ばった顔でカッフェを見た。
 まさか、という思いがあった。そして、それが外れてない予感も。
 カッフェは暗い目をしたまま頷く。
「……『誰』が?」
 あたしの問いに、カッフェは三人の名前を挙げた。
 メアリー。メム。マルク。
 あたしは目を瞑った。
 なにか形容のし難い、嵐のようなものが胸中に渦巻く。
(…………!)
 とっさに歯を噛みしめなかったら、思わずその場で泣いてしまっていただろう。だが、今は泣いている時では無い。まず、安全な場所に行かなくてはいけないのだ。泣くための体力なんて、今はこれっぽっちも無い。
(……!!)
 あたしは渾身の力で荒れ狂う気持ちを抑えつけた。
 落ち着け。まだ泣けない。ここじゃ泣けない。せめて……せめて、レメクに会ってからだ。
「……あの日帰って来なかったのは、おまえを含めて二十八人だ。……プリムは」
 ぽつりと呟かれた名前に、あたしは顔を上げた。プリムは同じ年の女の子だ。足が速くて、よく追いかけっこをした。
「……路地裏で見つかったけど、な」
(……路地裏……で……)
 見つかった、と言った。まるで落ちていた物を言い表すが如くに。
 その言葉の意味は、一つしか無い。
 頭を殴られたようなショックというのは、きっとこういうのを言うのだろう。信じられなくて、あたしはよろめいた。
 プリムの顔が脳裏に浮かぶ。ダメだ。涙が出る。
「おまえも戻って来なかったから……皆、てっきり……」
 あたしは歯を食いしばった。零れそうなモノのを寸前で押しとどめた。
 あたしも……同じ運命だった。
 あの日あの時あの場所で、おじ様に出会わなければ、同じように路地で冷たくなっていただろう。
 あたしとプリムに違いがあったのは、そこだけだ。そして、それが命運を分けた。
「……あたしが倒れたのは、大通りだった……」
 そして、そこにおじ様が通りかかって……
「……へへ……運が良かったんだな」
「……そう、ね」
 運が良かった。ただ、それだけで命が救われた。
 本当に、それ以外の何物でも無い。
 あたし達の命運を分けるのは、本当にそれだけしか無いのだ。たったそれだけで、これほどに違いがでてくる。
 命すら左右するほどの違いが。
 だけど、
 あぁ、だけど!!
(プリム……!)
 蜂蜜色の髪を覚えている。笑った顔、怒った顔、一緒に悪巧みをした時の顔。プリムだけじゃない。メアリーにメム、それに年下でちょっと気の弱いマルク。皆、あたしの大事な友達だった。同じ場所で、必死に生きた仲間だった。
「……ひでぇよな。他の連中が言う『運が良い』とか『悪い』とかってよ……命なんか、かかってねぇのに……」
 けれど、あたし達のそれは直接命に関わってくる。それぐらいいつも綱渡りなのだ。
 あたし達は視線を地面に落とした。互いの顔なんて見ていられなかった。涙は簡単に伝播でんぱする。泣き出したら止まらなくなる。だから皆が泣くのを堪えた。
 けれど、それでもこぼれ落ちるものがある。
 止められないものがある。
 瞬き一つ分の沈黙の後で、鼻をすする音が聞こえた。
「……アタシん所の院でも、いっぱい人が死んだわ」
 ぽつりと、涙と一緒にナナリーが呟く。彼女達は、別の孤児院の子供だった。
「嫌な雨だった……寒くて寒くてさぁ……。他に着る服も無いし、かぶるような布も無いし、皆で体寄せ合って眠って……そしたら、横にいた子がさ、あ、朝、冷たくなってて……」
 後はもう言葉にならない。そっくりな顔立ちをした他の二人が、慰めるようにナナリーの背を撫でた。
「に、荷物みたい、に、裏に埋められて……! で、でも、まだ、院の中にお墓あるだけ、マシかもしれない、わ。だって、消えた子達なんて、いったいどこに、行ったのか……!」
「消えた……子?」
 ぐずぐずと鼻をすすって、あたしは問うた。涙は堪えきれたというのに、この馬鹿鼻! なんでこんなに熱くなって水が出そうになってるのよ!!
 あたしは一度大きく鼻を吸い込んで、改めて問い直した。
「人が、消えるの?」
 四人は一斉に頷く。
 答えをくれたのは、ナナリーと同じ孤児院の二人だった。
「あの日からずっと、人が何人も消えてるんだ」
「人が消えるのは前もよくあったけど、ここ十日ばかりそれがひどくて……!」
 ニアとミリアという名の双子は、あたしと同じ年ぐらいの男女だった。汚れてはいるものの、柔らかそうな髪は触ると気持ちよさそうだった。
 カッフェと合流したこの三人は、東区の孤児院の子供らしい。あちら側には行ったことが無いので、見覚えがなくて当然だった。それにしても、いったい、この四人はどういう風に知り合ったのだろうか?
「ベル、覚えてるか? 黒い神官の噂ってやつ」
 内心別のことで首を傾げていたあたしに、カッフェがそう話をふってきた。あたしは目を丸くする。
「『黒い神官』?! ……あの、人を消しちゃうっていう噂の?」
 あたしの声に、四人はぎょっとなって「しぃーっ!」と口に指をあてた。
「でかい声出すなって! 大声で呼んだら、呼び寄せちまうって噂なんだぜ!?」
「嘘じゃないんだから! マジで出るのよ!?」
「ここ十日ばかり、目撃情報が絶えなくって……! おまけに、めちゃくちゃな人数が消えてるの!」
「あいつが浚って行ってるんだ! 絶対そうだよ!!」
 口々に言う四人に、あたしは絶句して棒立ちになった。
 黒い神官というのは、言うなればあたし達孤児の「天敵」だった。
 誰もハッキリと見たことのない「死神」で、孤児院に入ると年長組から「噂」として真っ先に教えられる。
 曰く、悪いことをすると、黒い神官にさらわれてしまうぞ、と。
 浚われた子供が戻ってくることは無く、大人は一切真面目にとりあってはくれない。
 そいつが出たと聞くと、子供は無意識に体をすくめて恐怖に震える。そんな、絶対的な恐怖の対象。
「だって、あんなの……孤児院の連中が口減らしのために作った、ただの嘘じゃ……」
 あたしはそう思っていた。実際のところ、それに間違いは無いだろう。
 孤児院は決して安全な場所では無い。そして、孤児院の中で子供が消えることなど、ごく普通に「よくあること」なのだ。
 例えば、顔立ちの綺麗な子。
 例えば、髪の綺麗な子。
 例えば、とても健康そうな子。
 そんなちょっと目立つ子は、孤児院に来たと思ったら数日後には消えていた。子供を亡くした貴族に引き取られるとかならまだいい。だが、そういった幸福なケースでは無い「院内での行方不明者」は、たいてい悲惨な運命をたどるのだ。
 あたし達は知っている。
 孤児院の大人が、子供を売買していることを。
「その孤児院の連中が、大慌ててバタバタしてたんだよ!」
 あたしの声に、カッフェが勢いづいて反論する。
 子供を内緒でさらって売りとばしていた孤児院の連中が、子供がいなくなったことに慌てる。それは確かに、連中のせいじゃないという証拠になる。
「うちの孤児院じゃ、俺が最初に気づいたんだ。……メム達がさ、寝込んじまっただろ? その看病してて……夜、寝る時まではちゃんと部屋にいたのに、朝起きたら、あいつら全員いなくなってたんだよ! 最初、オレ、あいつらが死んじまって、孤児院の連中が埋めちまったのかと思ったんだ。それで問いつめたら、あいつらのほうがビックリしやがってよ……。ふざけるな! って殴られて……でも、部屋に戻っても、メム達はいないし。そしたら……」
「そしたら!?」
「アンナが、黒い神官が来たんだって騒ぎ出したんだ。なんか、外からこっち伺ってたって言い出して。オレは見てないから知らないけどよ、エマやサン達も『そういえば』って、どこで見たとかどうとか言い出しはじめたんだ。オレもな、最初は『そんな馬鹿な』って思ってたんだ。けど、アンナやエマ……てゆか、女達がワァワァ泣きながら騒いでる横で、いつもなら怒鳴り散らしてオレ等を黙らすあの院の連中がだ、真っ青になって震えてたんだよ。なんか、あいつらの方がずっと怖がってる感じでさ」
「あいつらが?」
「そうなんだよ。ありえねぇだろ? あの強突張りで地獄の鬼みたいな奴らがだぞ? もう顔なんか死人みたいになってさ、顔見合わせて『そんな馬鹿な』とか、『ありえない』とか呟いてんだぜ? むしろ、あいつらのほうが今にもさらわれちまいそうな顔っつーか……」
 カッフェの言に、あたしは信じられない気持ちで呟いた。
「……あいつらが……」
 あの、人を人とも思っていないような連中が。
「なぁ、おかしいだろ? だいたい、病人をさらうってのが変じゃねぇか。だから……だから、本物の『黒い神官』が出たんじゃないかって噂になったんだよ。おまけに、それ以降もどんどん人が消えていくしよ……」
 最後はかすれた声で呟いたカッフェを見て、ナナリーが後を引き継ぐ。
「アタシの所も同じだよ。もともとうちの院長も、あんたらの所と同じでさ。最低のクズ野郎なんだ。あんな雨の日だってのに街に働かせに行かせて、戻ってきたら鞭打ちなんだよ? ひどいなんてもんじゃなかったよ。布一枚よこしゃしないしさ。風邪ひいた連中は、あっという間に具合が悪くなって……。薬も食べ物もなくてさ、もうどうしようもないじゃないか……。食料庫に忍び込んで、連中の美味いメシでも盗んで喰わせてやろうって……そう思って、こっそり忍び込んで……帰って来たら、病人が全員いなくなってた」
「あ、あたし、その時お留守番だったの」
 ナナリーの声に、ミリアが声を上げる。
「ニアと一緒に、看病に残ってたの。だけど……なんでかいきなり眠くなって、帰って来たナナリーに起こされたときには、寝かせてた場所からみんな消えてて……」
「言っとくけど、僕もミリアも、眠るつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ。僕達だけじゃない。他の同じ部屋にいた連中も。なのに、全員眠ってたんだ。あんなの、普通じゃないよ」
 語られる言葉に、あたしはゾッとした。
 普通じゃない状態で消えていく子供達。
 そのことに子供以上に怯えている院の大人達。
 ……これはいったい、どういうことだろう?
「何が起きてるのか、わかんねぇんだよ。……院の連中はピリピリしてるし」
 小さく吐き捨てて、カッフェは俯いた。
 あたしは唇を引き結ぶ。
 二の腕に寒気を感じた。ざわざわと得体の知れない何かが押し寄せてくる。
 体を覆い尽くすような、
 押しつぶすような、
 体中の温もりを奪っていくような『何か』。
 それはおそらく、罪悪感という名の恐怖。
(……レメク)
 心に名前が浮かぶ。たった一つ、あたしが持つ宝物。あたしだけが与えられた、罪深いほどの僥倖ぎょうこう
(レメク)
 体が軋むのを感じた。目の前が霞む。ちりちりと指先が痺れ、膝から力が抜けてゆく。
 なにも知らないままに、なにも気づかないままに、あたしは今日まで生きてきた。
 のうのうと暖かい庇護下に逃げ込んで。一人だけ幸福な夢を見て。
 あの日、分かたれた道の片方で、苦しんでいる仲間を見殺しにして。
 こんな状況に、気づくこともしないで!

(……   ……)

 視界がかげる。
 闇が降りてくる。
 あたしは空を見上げた。頭上にあるはずの空を。
 けれどその色が何色なのか、今のあたしにはわからない。奇妙に暗い視界の先にあるのは、白と黒の二色だけだ。
 唇が動いて、何かを呟く。誰かの名を。けれどその名前をあたしは呼べなかった。
 ただ、心が軋むのを感じる。
 どれほどの罪だろう。他者を顧みず、安穏を貪ることは。
 ゆっくりと降りる夜の帳と同じ速度で、深い闇が降りてくる。

 今日初めて、あたしは無恥と怠惰の罪を知った。


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