4 分岐点の前で

 世間のお貴族様が午後のティータイムを楽しむ頃、あたしは盟友ケニード&護衛番長のバルバロッサ卿と一緒に街へと繰り出していた。
 あの後、なぜかレメクは「時間ですから」という謎発言をして素早く逃走。捕獲できなかったあたしは、熊とマニアに慰められながら家具搬入を開始した。
 熊、大活躍。
 ほとんどバルバロッサ卿の独壇場だった家具搬入後、部屋を見渡してあたしは大満足の息を吐いた。だが、一緒に見渡していた男二人は妙な顔をして首を傾げたのである。
「華やぎが無ぇな」
「殺風景だねぇ……」
 言葉は違うが、意味は一緒だ。
 クラウドール邸の居間は、三日前と比べれば遙かに美しくなっている。
 磨きあげられた床。拭きあげられた家具。煤けていた暖炉もピカピカで、煤と埃まみれだったその中には、大きな林檎の薪が積まれている。壁も天井も綺麗に拭かれて、細かい模様を鮮やかに見せつけていた。
 だが、お貴族様出身の二人からすれば、なんともそっけない風景に見えたらしい。
 確かに、床はむき出しで絨毯が無く、テーブルの上には花どころかクロスさえ無い。壁際の飾り棚も何一つ飾られておらず、ある意味気持ちいいぐらいのすっからかん。
 素朴だと言えば聞こえはいいが、これはちょっと殺風景すぎる、というのが二人の言だった。
 もともと、かつてここで発掘された家具のうち、絨毯は洗っている最中に表面がぼろぼろと剥げてしまい、設置不可能物件として処理されることになっていた。その替わりとなる絨毯を見つけるため、レメクの許可をとってから買い物ツアーに出ることになっている。だったらそのついでに、他のものもいろいろ見てこようというのが、二人の意見なのだが……
(あの絨毯……ちょっとボロになったけど、まだ充分使えるのに……)
 どん底の生活をしていたあたしからすれば、もったいないを通り越して罰当たりな気すらする。絨毯が無くったって、ここの床は直接座ってもそれほど冷たくならないし、美しい木目も充分観賞に値すると思うのだ。わざわざ、上から上等の絨毯や毛皮を敷かなくったって、いいと思うのだが……
「……ベル。まだ拗ねてるのかい?」
 歩きながらそんなことを考えていると、ケニードがそっと声をかけてきた。
 ずっと俯いて黙っていたため、そういう風に見えたらしい。
 大きな二人に手をそれぞれ握ってもらい、連行される小動物のごとく半分飛びながら歩いていたあたしは、左隣にいるケニードの声に顔を上げた。髪を隠すために帽子を被っているので、ほとんど真上を向かないと相手の顔が見えない。
「す、拗ねてないもん。ちょっといろいろ考えていただけだもん」
 なんとなく目線をちょろちょろさせながら言うと、右隣のバルバロッサ卿が口の端をニュッと笑ませる。
「俺らよりレメクと一緒のほうがいいってのぁ、女としちゃあ当然の反応だ。が、まぁ、今回は諦めてくれや。あとちょいの辛抱だからよ」
 誤解が誤解を生んでいる。わっしわっしと頭を撫でられて、あたしは眉をきゅっと寄せた。
「だから別に、拗ねてなんかいないもん」
 ズレた帽子の中に髪をせっせと戻し、唇をとがらせて一応反論。
 別にレメクがいないのが寂しいだなんて、そんなこと、いっぱい思ってる最中であるけど今はちょっと別件というか、何というか、ごにょごにょおじ様寂しいよぉ……
 レメクのことを考えると涙が出ちゃう。女の子だから。
「それ以前に、よく時間とれましたよね、クラウドール卿。毎晩家に帰る時間とるのでさえ、大変な状態でしょう? 今」
「あっは〜。そぉりゃあ、嬢ちゃんが気がかりだからに決まってんじゃねぇか。最近の挨拶は『おはようございますバルバロッサ卿。ベルは元気そうにしてましたか』だぞ。あれぁ、絶対、俺への挨拶のほうがついでだって」
「あ、その場合僕のほうが言葉長いですね。『おはようございますアロック卿。昨日はうちのベルがお世話になりました』から始まっていろいろ聴かれますから!」
 嬉しそう。
「……あいつ、最近嬢ちゃんの寝てる所しか見てないから禁断症状でてんじゃねぇか?」
「かもしれませんねぇ。ご飯はどれぐらい食べれてたかどうかとか、着替えは一人でできてたかどうかとか、歯磨きはちゃんとしてたかどうかとか、心配してましたしねぇ」
「「どこのお母さんだ……」」
 あたしと熊さんのセリフがハモった。
「てゆか、それは禁断症状っつーより監督状況把握義務みたいなもんなのか……?」
「いやぁ、どうでしょう……あの目の真剣さはちょっとすごいものがありましたが」
 どんな表情で聞いくるんだろう。あたしも一度でいいから見てみたい。
 だいたいにして、あたしはレメクのことを知らなすぎる。家の外でのレメクなど、始めに会った時の足(限定)ぐらいしか見たことがないのだ。一度でいいから見たい。てゆか一緒にお散歩したいですしょんぼり。
「まぁなんだ、それでもあと数日でカタがつくって。ほーら、嬢ちゃん。晩ご飯はでっかい魚焼いてやっから元気だせ?」
 なんで魚限定!?
「あたし猫じゃないから! 魚しか食べないわけじゃないもん! できれば頭のついてるおっきいのが食べたい!」
「どっちだよ、と突っ込みたいが、まぁいいか。今のシーズンなら、デカくてウマイ魚っつったら、モラモラの鍋かなぁ……ありゃあ脂がのってて美味いぞぉ。もちろん頭付きだ」
 すみません。聞いたこともない名前です。
 微妙な表情になっていたらしく、ケニードが横から注釈を入れてくれた。
「モラモラっていうのは大きな海水魚だよ。ちょうどバルバロッサ卿の胴体ぐらいの大きさでね、色は綺麗なエメラルドグリーンとコバルトブルーのグラデーションだったかな」
 あたしは即座に熊の胴体のエメラルドグリーン→コバルトブルーのグラデーションを想像した。すごい不味そう。
 いや、ちゃんとした魚なんだろうけど。
「栄養価も高いから、素材としてはいいかもね。ただ、どうやって調理したらいいんだろうねぇ、あれ。僕も未だに料理したことのない素材なんだよ」
 ……どうなんだろう、そんな謎素材な晩ご飯。
 あたしは即座に想像を放棄した。考えるだけ無駄だ。まぁ、なるようになるだろう、うん。
「それより……ねぇ、絨毯って、本当に新しいのを買うの?」
 くいくいっとケニードの袖を引っ張って問うと、ケニードは「うん」とあっさりとした返事。
「あんな状態のものを、あの人の屋敷の居間になんて使えないよ。断じて駄目だね」
 ハッキリと断言。
 ファン心理は恐ろしい。目が怖いぐらい真剣だ。
「でも、あれ、あちこち剥がれちゃってるけど、まだ使えるのに……」
 ちょっとシュンとして言うと、ケニードは困り顔になった。
 バルバロッサ卿も困った感じに眉を下げている。上流階級の二人からすれば、あたしの発言は意味不明なことなんだろう。使えない、と判断するレベルがあまりにも違いすぎるから。
 そんなことは百も承知だけど、でも、どうしてもあたしはこだわってしまう。見栄えを気にしてお金を使うなんて、あたしからすればもったいないだけだ。
「あたし、床の上に直に寝るのだって普通のことだったし、石畳や納屋の隅っこで蹲って寝ることもいつものことだったから。絨毯なんて高価なもの、おじ様に拾ってもらうまで触れたこともなかったし。……あのボロくなったっていう絨毯だって、全部がボロボロじゃないし、今だって充分厚みもあるし暖かそうだから……あれがあったら、冬の間暖かいだろうな、とか思っちゃうの」
 彼らから見たらボロのようなものであっても、あたし達から見ればすごいお宝だ。きっと大事に大事にずっと使うだろう。十年二十年、ううん、もしかしたらそれよりもずっと長く使うかもしれない。そうして、すり切れすぎてもうペラペラの布みたいになっても、それでもやっぱり何かの足しにならないかといろいろ工夫して使おうとするのだ。
 あたし達は、そういう風に暮らしてきたのだ。お金を使うのではなく、お金を使わないために常に工夫をする暮らしを。
「……いや、あれ、たぶんクラウドール卿が再利用してくれると思うし」
 しゅんと俯いたあたしに、ケニードがおろおろとした声で言う。
「いきなり捨てたりするわけじゃないから」
 ぬお?
 思ってもみなかった発言に、あたしは即座にケニードを見上げた。
 我が同士殿はほんわかした笑顔をしている。
「僕だったら捨てちゃうんだけどね。クラウドール卿はそういうところ、細かいから」
「……そうなんだ?」
 あたしの声に、ケニードはしっかりと頷いた。あたしは目を丸くする。
 ……意外だ。すごい意外だ。どっちかっていうと、あっさり「使えないでしょう。捨てなさい」とか切り捨てそうなのに。
 ぽかんとしているあたしを見て、バルバロッサ卿も苦笑を浮かべた。
「まぁ、あれぐらいの痛み具合なら、まず離れの住人に渡すだろうし。んで、そっちの使い古しが余ってきたら、今度はそれを古物屋に持っていく。で、格安で売って、売ったお金で古着を買って、その古着を離れの住人に渡す。離れの住人のもっとボロい古着は、掃除用の雑巾に早変わり……って所だろうな」
「離れの住人……?」
 というと、未だ会ったことのない、あのお屋敷の敷地にいる管理者のミナサマですね?
「ああ。嬢ちゃんは会ったことねぇか。レメクの屋敷の敷地にな、じいちゃんばっか集めた小屋があるんだよ。庭とか畑とかの管理をしてくれてるんだけどな」
「うん。話には聞いたことある」
「お、そりゃ話が早い。で、そのじっちゃん達っていうのが……まぁ、早い話、嬢ちゃんみたく身よりも無くてお金も無くて、さらに年とって仕事も無いっていう人等なんだわ。で、レメクはそういう人を見つけてはあっちこっちに仕事斡旋したり、どうしても満足に他では働けない連中は、賃金は無いが衣食住だけは保証するっていうことで、庭の管理を託すっつー名目でああやって自分の所で面倒みてる」
 あたしは目を瞠った。
 レメク。あぁ、レメクが!
 あたしの、言ってしまえば先輩のような人達を、ずっとそうやって助けてくれてた。あたしを助けてくれるずっと前から、あたし達みたいな人間に手を貸してくれてたんだ。
 それはなんて、あの人らしいんだろうか。
「丁寧な仕事をしてくれる人達だよ、あそこのおじいちゃん達は。僕もね、たまに家の物持っていくんだけど、直して使えるようなものは、魔法みたいに綺麗に直してくれるんだ。元職人さんっていう人もけっこういてね。年だったり片目だったり、片足だったり……そういう、ハンデを負っちゃって普通の所では働かせてくれなくなってるけど、今だって現役で通じるぐらいの職人さん達だから。丁寧に丁寧に仕事をしてくれるよ。時間はすごくかかるけどね」
 言って、ケニードはくすりと笑みをこぼした。
「そういえば……あの頃は、僕、こうやってクラウドール卿の家に足繁く通えるようになれるなんて、思ってもみなかったなぁ」
 なにやらしみじみとした口調である。
 そういえば、最初ドン引きいたしました、あたくしも。
「俺もなぁ。あのレメクがこんな風に変わるとは思わなかったなぁ……まだたった数日……いや、十数日か? その程度だっつーのになぁ」
「人は変わるもんなんですねぇ……」
 二人とも、ものすごく感慨深げだ。
 どうやらおじ様は、ごく最近とても変化したようです。いつニューバージョンになったのかは不明ですが。
「……あたし、ここ十数日一緒にいるのに、変化なんてちっとも気づけなかったわ……」
 しゅーん、と落ち込んで呟くと、なぜか熊とマニアが目を丸くして顔を見合わせていた。
 どういう意味でしょう?
「……えーと、いや……そりゃ気づけないっつーか、違う意味で気づけヨっつーか」
「あぁ、うん、たぶん、こういうところは似た者夫婦なんだろうなぁ……」
 遠いまなざしの二人。
 てゆか、いつのまにどこかのご夫婦の話に飛んだんだろうか? 不思議なまなざしの先にいるのはあたしなのに、彼等の会話は意味不明だ。
 しょんぼりと「?」を飛ばしているあたしに、二人は苦笑してぽんぽんとそれぞれ肩を叩いてくれる。慰められてしまいました。
「まぁ、いつかわかるから」
「大きくなったら、すぐにわかるぜ」
 不思議な慰め言葉をありがとう。意味は不明ですが。
「うん。がんばる」
 しっかりと頷くと、バルバロッサ卿が男臭い笑みを浮かべる。
「ま、男を変えるっつーのはイイ女な証拠だ。将来有望だぜ、おまえさん」
 これまた意味は不明だった。

 ※ ※ ※

 王都南区大通り。そこは王都最大の商業区である。
 港から上がってきた様々な輸入品は、この界隈にある大小様々な商店で売りさばかれる。中央区に近い北側に行くほど質と値段は跳ね上がり、港に近い南側に行くほどそれらは下がる。
 例外は港近辺で、この界隈は特別に「港区」と称される。ここに一番多いのは飲食店、次に宿屋。そして商会の本店だ。値段は実に混沌としていて、店構えと客層を遠目にチェックしてから入らないと、場違いさにそそくさと帰るハメになる。
 そんな遠目からでもそれとわかる一級の店の一つ。看板の文字は読めないが、店名はあたしでも知ってる。王室御用達高級店「ウィナ・レファ」だ。
「ね、ねぇ、本当にあの店に入るの?」
 そこに向かってズンズカ進んでいく二人に、あたしはちょっと尻込みしながら声をかけた。両手をそれぞれ持たれているので、ますます連行される小動物のようになる。
「うん。あれぐらいの店じゃないと、あの屋敷に入れれるような家具は無いしね」
「本来、オーダーメイドだからなぁ……既製品でイイのがあればいいんだが」
 ……住む世界が本当に違うんだなーと実感する一言をありがとう。
 一人寂しく遠い目になったあたしに、ケニードがにっこり微笑む。
「ああ、お金なら大丈夫だよ。クラウドール卿からお財布預かってるから」
 なにやら誤解されたらしい。
 しかもそう言って見せてくれたのは、どう見ても「財布」というより「荷物入れ」。
 ……どんだけ大きいんだ、お財布。
「……ねぇ、それ。全部金貨……?」
 ジャラジャラを通り越して、ジャリンという重量級の音をたてるブツに、あたしはいっそう遠い目になって言った。いくらレメクがお金持ちだからって、ははははは、まさかね?
「うん。一応、全部リメオン金貨だよ。さすがクラウドール卿だよね。普通、こんなに大量のリメオン金貨、商会の金庫ぐらいにしか無いよ」
 はははははは世界の違いをありがとう。ちくしょう。なんでだろう、涙が出そうだ。
 ぐすっ、と鼻をならしたあたしに、貴族様二人が首を傾げる。
 いいもん。貧乏だって生きていけるもん。負けないもん。
「どうしたんだい? ベル」
「腹でも減ったのか? それとも腹でも痛いのか?」
 ……腹しか無いのか、あたしが涙目になる理由は。
「えーと、ほら。何でかは分かんないけど、機嫌直して? ね? ベルが気に入った物があったら好きなように買ってください、ってクラウドール卿も言ってくれてるから、好きなモノうんと買うといいよ。ね?」
 複雑怪奇な表情でいたあたしは、一言もの申そうと口を開きかけ、
「……って、え? あたしの好みで買っていいの?」
「うん。そう言ってたよ」
 目を剥いて棒立ちになった。
 な、なななな、なんと! 
 途端、頭の中でパァッとエンジェルサービスが始まる。羽ばたく翼に、天使の輪っか。空から降り注ぐスポットライトへいカモン!
(あぁマジですかおじ様!! さすがですおじ様!! なんて素敵にカッコイイ気前っぷりなの愛してるぅーッ!!)
 もう口からハートが飛び出そうな勢いだ。
 あたしの好きに買っていい。そんな男前な一言を今まで誰かに言われたことがあっただろうか。あるはずがない。
 しかもお初の相手がレメク。レメク。ああ素晴らしい。さすがは運命の旦那様!!
 違う意味で涙が出そうになりながら、あたしはぐっと握り拳を固めた。空の上で太陽が煌めいている。この空の下にいるおじ様よ、あたしの声が届くでしょうか!?
(おじ様! 夢にまで見た総フリル総レースのお姫様みたいなお部屋にしてもいいのですね!? 一緒にウフフアハハな世界を作ってくれちゃったりするんですかおじ様ーッ!!)
「……嬢ちゃん。言ってとくが、あんまりファンシーな部屋にしちまうと、レメクが出入りしなくなるからな。ほどほどにな」
 ガーンッ!
 陶酔してる所に横合いからミラクルパンチが飛んできた。あたしはよろよろぱたん、と地面に倒れ込む。頭の中の素敵空間がバレたことよりも、「レメク出入り無し」の一言のほうがショックだった。
 ぅぅ……ウフアハな世界は遠いのね……
「ま、まぁ、ほら、えーと、屋敷に合うようなのを探したらいいよ、うん。それにほら、クラウドール卿に似合いそうな内容にしてみてごらん、いろいろ楽しいから」
 楽しい……?
 涙目でケニードを見上げると、同士殿は輝く笑顔でサムズアップ。
「考えてごらん? そこでくつろぐクラウドール卿。それを想像すれば……!」
 あら不思議!
 なぜか気分が急上昇!
「黒ね! 黒で決まりだわ!」
「だよね! そしてゴシック調で!」
「金とか銀とか、ものすっごく高いんだけど、カッコイイの揃えてもいいのかしら!?」
「いいと思うよ! あ、あと剣とか盾とかの飾り物とか!」
「ああああ! いい! タペストリーとかも欲しい!」
「それであの礼服着てくれたら……もう!」
「おーい、おまえら、モトの世界に帰ってこーい。俺様がちょっと寂しいだろーがよー」
 心の対岸で熊が寂しげに遠吠え。
 手に手をとって目をキラキラさせていたあたし達は、輝く視線を熊へと向けた。
 熊がなぜか半歩退いた。
「「バルバロッサ卿」」
 ハモるあたし達。今、あたし達の心は一つだ。
「……いや、だいたい何言いたいかはわかるんだが……。なぁおまえさん達。ちょっと考えような? 好きなもの買っていいっていうのは、おまえさん達のモラルを信用してくれての発言なわけだ。それでそんな趣味丸出しの部屋なんぞコーディネイトしてみろ。二度と信用してくれなくなるぞ」
 ぐさっ!
 クリティカルヒットをくらって、あたし達はパタンと路面に倒れた。石畳が冷たい。
「ぅぅ……でもでも、好きなの買っていいってー……」
 ぐすぐす。
「素敵で無敵な永久保存写真が撮れると思ったのにー……」
 えぐえぐ。
 地面に転がるあたしとケニードを見下ろして、熊さんは大変困った顔で肩を落とす。
「ええから、早よ立ち上がれや、おまえさん達。俺ぁ、一緒にいてここまで恥ずかしいのは初めてだぜ」
 人垣ができる前にと注意されて、あたし達はしょんぼりと立ち上がる。あたしは我が同士を振り仰ぎ、
 ぎぇえええ?!
「ケ、ケニ、ケニード! うん付いてる!」
「うん?」
 倒れた場所に先客もとい「落とし物」があったらしいケニードに、あたしは仰天して飛び上がった。大あわてで布きれを探し、周囲をぐるぐる回りはじめる。
「おーい、嬢ちゃん。迷子の子猫みたいな動きすんなって。帽子がどっか飛んでっちまうだろ? ……てゆか、ウンってなんだウンって……ウンついてる!!」
 熊、遅れてブツを発見したもよう。
 慌てて未だきょとんとしているウン付き貴族を引っ張った。
「ちっと店の洗面所借りるぞ! ケニード、おまえさん、なんでよりによって先客のある場所に倒れるんだぁ?」
「先客?」
 まだ気づいていないらしい。
 ああああ、いっそ気づかないまま事が終わったほうがいいんじゃなかろうか。いくらなんでも、お貴族様の頭にワンコのウンチっていうのはどうかと思うのですよ、はい。
 あたし達は目指していた店に全力で飛び込み、出迎えの店員に詰め寄る。有無をいわさぬ迫力で了承をとり、紳士ご用足しの場へとレッツラゴー!
「嬢ちゃんは入ったらあかんだろ!」
 即座につまみ出されました。
 えー。未知の領域に潜入できるとちょっと心トキメかせてたのに。あの、壁一面に水が流れてる場所はどういう場所なのか、とかとかとっても気になるのー。
 とはいえ、レメクが中に入ってるわけでもないのだから、ドアに張り付いてまで知りたいというわけでもない。あたしは仕方なく、トイレの近くでちょろちょろすることにした。
 それにしても、さすがは一流の高級店。客用の便所なんて、普通の店には無いのに、ここにはちゃんと専用の場所がある。これは驚嘆に値する事実だった。
 なにせ、排泄場所、いわゆるトイレ関係は、お金持ちの北区以外ではかなり大変な問題になっているのだ。
 トイレというのは、個人で設置するとものすごくお金がかかる。なにせ汚水を排水溝に流すための工事からはじめないといけない。なので、普通は作らない。壺とかに入れてポイか、街の共同物(別名、公衆便所)を利用する。
 だが、王都という巨大都市ともなると、公衆便所では人の多さに対応しきれない。下手するといろんなものが溢れてる。
 また、「トイレいきたくなったなー」と思うや否や、そこらの陰でこそっとする連中もいるもんだから、路地裏などまさに地獄絵図だった。もちろん、臭い消しなんて高級なものは無いから、その悪臭も凄まじい。
 あまりにもそれがひどくなると、住民もそこに住んでいられない。そこで、孤児院のあたし達が狩り出されて、汚いソコをゴシゴシと掃除することになる。
 ただこの仕事、井戸から水を汲んできて路面に流し、ブラシで擦ってはまた水を流し、という重労働を繰り返さないといけないので、範囲によってはあたし達子供には手に負えなかったりする。ぶっちゃけ、ちょっぴりの報酬では釣り合わない。あたし達がもっと大きくなったら、ずっと楽にできる仕事なんだろうけど……
 だいたい、掃除のための用具だってボロボロなのだ。ほとんどブラシの部分がすり切れたデッキブラシなど、木の板で擦ってるのと変わらない。そんなので、せっせと汚れを落としていたあたし達も、掃除してる間にものすごい悪臭を体に纏うハメになって……
 い、いかん……だんだん気分が滅入ってきた。
 あたしは落ち込みはじめた気分を上向かせるため、レメクのことを考えた。レメク、レメク。あぁ不思議だ……なんだかほんわかした気分になってくる。
 レメクの所のトイレは素敵だった。そう、何気にトイレまで完備なのです、あの屋敷。素晴らしい。王宮よりすごいんじゃなかろうか?
 案内された時には驚いた。屋敷の中では一番小さな部屋がトイレ。壁も床も大理石で、石畳の一角がぽっこりと開いている。その遙か下はなんと常に水が流れてる場所で、つまり、そこにむかって用を足すのだ。素晴らしい。ウンちゃんもなんもかんも全部流れていってしまうわけですよ。おまけに底がよほど深いのか、排泄後に「お返し」を返されることもない。誰が造ったのかは不明だが、よほど考えて造ってあるようだ。
 街の公衆用トイレも似たような作りだが、あれは排水溝が詰まると逆流してくるというビックリ箱のようなモノで、おまけに綺麗に使用されてないので汚い汚い。
 ……いや、路地裏よりはまだマシだけど。
 ああああ、いかんいかん。また暗い記憶が蘇ってきた。だいたいトイレのことを考えるからいけないんだ。別のことを考えよう。レメクの匂いとかレメクの腹筋とかレメクの胸筋とかレメクの太股とか。
 ……ん? 太股?
 あたしは首を傾げた。そこはまだ未体験だ。
 宿の知り合いのねーちゃんは「女の魅力は胸尻太股よ!」と宣言していた。きっと殿方の魅力も同じ場所だろう。いや、個人的にそこにレメクの腹筋を追加したいが、それはともかく、だ。
 今のところ、黄金の三カ所のうち、頬ずりできてるのは胸筋だけだ。満足しちゃって他二カ所は未だに未クリアなのである。これはいけない。早速今度頬ずりしなくては! あぁ、早く夜にならないかな!!
 うっとりと気分が上昇したところで、コホン、という咳払いの音が聞こえた。音のほうを振り仰ぐと、一人の紳士が困った顔で立ち往生している。
 ああああ大変ごめんなさいっ。
 あたしは慌ててその場を離れた。ついでに、ぎゅっと帽子を深くかぶる。ケニード達がいない間は、いつもよりも注意して髪を隠さないといけない。この髪は見つかっちゃダメだと、レメクに再三どころか再十ぐらい注意されたのだから。
 こそこそとトイレ前から店内へ移動すると、待ってましたとばかりに店員さんに捕獲された。にゃ、にゃにごとッ!?
「お嬢様、よろしければこちらの品などいかがでしょう?」
 輝く造り笑顔で綺麗なブローチを差し出された。真ん中に大きな宝石があしらわれている。思わずつばをのみこみそうなすごい品だ。ど、どうしよう、たぶん、あたし、これ、一生働いても手に入れれないようなシロモノなんですが!?
「それとも、こちらの品のほうがよろしいでしょうか? お嬢様の金色の瞳には、大変お似合いかと存じますが」
 今度は綺麗なピアスを持ってこられた。これまた、あたしの人生が何回も買えそうな逸品である。
 あたしは「あうあう」と意味不明な言葉を呟きながら、あたふたと周囲を見渡す。ケニード、バルバロッサ卿。早く出てきて。てゆか、助けてレメク。あたしここでどうすればいいの?
 だいたい、こんな高級な店の立派な店員から、ここまで低姿勢に物を言われたことがない。いつもなら絶対摘み出されている。なのに、貴族のお嬢様のように膝を折って接せられるのだ。ある意味恐ろしい。なんの拷問だろう、これは。
「ああ、申し訳ありません、お嬢様。不躾なわたくしをお許しください。ただ、せっかく美しいお洋服を召されておいででしたから、お嬢様のお美しさが引き立つよう、これらの品もご利用いただければと思った次第でございます」
 慇懃に礼をとりながらのスラスラとした口上。レメクのくれた服は確かに素晴らしいが、宝石とかはついてない。だから薦められた、ということなんだろう。
(……というか、そうか、この人達は、服であたし達を『見る』んだ)
 この人は、あたしの顔を見ていない。見たらきっと、あたしが下層の人間だってわかるはずだ。おじ様に保護されてからだいぶマシになってるとはいえ、未だにあたしの体はガリガリのボロボロなのだから。
「お嬢様?」
 反応をかえさないあたしを訝しく思ったのか、店員さんが顔を覗き込んでくる。
 逃げるように慌てて視線を転じると、ガラスを使ったドアが視界に飛び込んできた。
 すごい。透明度の高いガラスはものすごく高く、また割れやすいこともあって、ドアにまでそれを使う店はほとんど無いのに。
 さすが王宮御用達、と思わず眺めていると、そのガラスの向こう側に、ふと、見知った人影が現れた。
 あたしは目を瞠る。自然に呼吸も止まっていた。
(カッフェ)
 懐かしい、そう思ってしまうほど、どこか遠い記憶の中にあるその人の姿。あたしの家族。孤児院の仲間。その彼が、
(怪我、して、た)
 左腕に巻いた布には、明らかに血が滲んでいた。足取りもおかしい。どうして。だいたい、なんであんな所に。
 あたしはよろめくように歩く。こちら側と、あちら側を隔てるドアの前へ。
「お嬢様? どうかされましたか?」
 店員が、不思議そうに声をかけてきた。あたしは振り向かない。けれど走り出そうとして、一瞬だけ店の奥を振り返った。
 ケニード。バルバロッサ卿。
 レメクの頼みで一緒にいてくれる、今のあたしを支えてくれる人達。
 けれど。
 ああ、けれど……!
 あたしは息を吸い込んだ。足が動いた。行くべき場所へ。
「お嬢様?!」
 驚いた風の店員の声。
 派手に開いたせいで鳴るドアベルの音を最後に、あたしは街へと飛び出した。


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