3 賢者と愚者

 聖ラグナール。
 それは建国史に幾度と無く書かれる、偉大なる魔女と騎士の名前である。
 二人がともにラグナールと呼ばれることから、名ではなく姓であり、また彼らが夫婦であるとする説が一般的だが、それを裏付ける文書は未だ発見されていない。
 伝説とされるほどに有名な彼らではあるが、時代が詳しい記録を奪っていた。
 彼らが活躍するのは、大陸歴六百七十八年頃。群雄割拠の時代である。
 常であれば、たとえ戦乱の最中といえども、史実を残す者が多くいただろう。だが、この時代には常の『戦乱時』にはない異物が存在した。
 生き物としての異常性、生態系としての異常性、そしてその恐ろしさから人類の敵として認識された異物。
 『魔族』の来襲である。
 どこから現れ、どのようにして増え、なにゆえに生きとし生けるものに襲いかかるのか。
 なにもわからないままに、人々は戦った。
 これが後に「降魔大戦」と呼ばれる戦争である。
 出現地は、現ナスティア王国の北西。シャーリーヴィの森よりもさらに西に進んだ場所。そこにある巨大な大森林だ。
 今をもって尚「魔の森」と称されるその場所から、魔族は突然現れ、周囲の生き物を襲いはじめた。
「魔族がどこから現れたのか。また、どのような生き物であるのか。それらすらほとんどわからない状況下で、戦争が始まったのだとされています」
 あたしを膝の上にテンツクと座らせて、レメクが低い美声でそう語る。
 書物など読んだこともなく、物語とかいうものもほとんど聞かせてもらったことのないあたしは、目をキラキラさせてその話に聞き入った。
 降魔大戦当時というと、今から軽く四百年は前のことになる。
 その頃、このあたりには国というものがまだ無かったらしい。かわりに大小さまざまな部族が点在しており、それなりに豊かに暮らしていたのだとか。
 その部族の人達というのが、剛胆というかなんというか、とにかく超猛者ばっかりだったらしい。で、単発の来襲は軽く撃退できたが、時折、弱い者……とりわけ、心身が健常では無い者が犠牲になった。まだ力の弱い子供や、お年寄りも同じく、ふと目を離したすきに犠牲になったりしたらしい。
 これはいけないと危機を覚えた首領達は、周辺の他部族と連絡をとりあい、この突然の災厄に連携をとりあおうと持ちかけた。
 だが、何十もにもなる部族の頭が話し合っても、なかなか意見がまとまらない。
 それもそのはずで、狩猟関係では狩り場でもめたりした者同士なのだ。いきなり簡単に一致団結するはずもない。今ならば「同盟」と呼ぶだろうその首領達の結束も、あっという間にもろく崩れ去るだろうと当時の誰もが思っていたらしい。
 だが、その偉業を成した者がいた。
 それがナスティア。クラヴィス族の美しき女傑である。
 金の髪に、煌めく瞳。輝く美貌に、明晰な頭脳。そして卓越した剣技をもっていたという超人的なその女傑は、ウゴウゴ言って動かない男首領衆の尻を蹴飛ばして連合軍を作り、凄まじい勢いで魔物の群れを蹴散らしていったらしい。
 とはいえ、ウゴウゴ男衆がまともに動かない時期もあったのだろう。快進撃に次ぐ快進撃、とはいかなかったらしい。
 そんな時、ナスティアの助けとなったのが、どこからともなくやって来た伝説の人物。古の魔法を使う魔女と、その騎士の二人組だった。
 彼らの活躍はめざましく、襲いかかる数多の群れを幾度も撃退し、その群生地では鮮やかに殲滅していったという。
 いかにナスティアが卓越した剣士であり、強力な紋章術を行使する術者であっても、一人では全てを成すことはできない。
 また、いくら自軍に人が沢山いても、上手く連携をとりあって動ける『仲間』が少なければ、やっぱり物事は上手く動かない。
 二人の偉人は、ナスティアがそれを整える時間を稼いでくれた。
 日になり影になり彼女を支えた二人のおかげで、ナスティアは三十もの部族をまとめることに成功し、徐々に苛烈になっていく魔族との戦いでも常に優位にたてるようになった。戦えば戦うほど指導力を増していくナスティアに、他部族も次第に心酔していったらしい。
 その状況を作るのに、かの二人がどれほどの役割を担っていたか。
 彼らがいなければ、今日のナスティア王国は無かっただろうと言われる所以である。
 戦いの後、魔物が出現していたというポイント(魔穴と呼ばれるらしい)を封印したナスティアは、救国の英雄である二人を厚く遇した。だが、二人はこの国に留まることも、またいかなる金銭による報酬も受け取らなかった。
 かわりに、ナスティアにこう言ったのだという。
 孤児となった者を、保護してやってほしい、と。
 ナスティアはこれを承諾した。そして、王として最初にやった行事が、戦争で親を亡くした子供を保護し、孤児院を建設することだった。
 それが、聖ラグナール孤児院。
 偉大なる英雄の名を冠された、王国最古の孤児院である。

 ※ ※ ※

「最初に建設されたのは、現在の南区にある孤児院です。つまり、元祖と呼べる聖ラグナール孤児院は、あなたがいた孤児院のほうなのですよ」
 そう締めくくったレメクに、あたしは驚くやら感心するやら呆れるやら。なんとも複雑な気持ちで頷いた。
 そんなにすごい由来があの孤児院にあったとは。にわかには信じられない。
 だいたい、それにしてはずいぶんひどい所だった気がするのだが……?
「……あの孤児院が?」
 不審をにじませて問うたあたしに、レメクは真面目な顔でコックリ。
「ええ。あの孤児院が」
 そんなに風に頷かれれば、納得するしかない。レメクの言うことは正しいのだから。
「ん〜。じゃあね、どうして南区にわざわざ建てたの? 位置的に、中途半端な場所じゃない? それに、二つ目を作った理由って何?」
 あたしが首を傾げると、レメクは視線を前にいるバルバロッサ卿へと流した。
 紅茶をポットから豪快に飲んでいたバルバロッサ卿は、ん? という目であたし達を見る。
 ちなみに、あたし達がいるのはクラウドール邸の前庭である。
 春にはまだ早いとはいえ、昼の日差しはそれなりに暖かく、ぶっちゃけ室内よりポカポカだ。それを利用して、庭でちょっと早めのティータイムをとっているのだ。庭に未だ放置されている、あの家具達を利用して。
 カウチに座っているのはレメクとケニード。
 レメクの膝の上に、あたし。
 バルバロッサ卿は、おっきいので一人で別の椅子にデンと座っている。
 テーブルの上の紅茶はめいめい好きな銘柄だが、あたしとレメクのお茶はメリディス健康茶だったりする。
 レメクは相変わらずお疲れモードのようだ。
「まぁ、なんつーか、昔は、今の南区三番街あたりが王都の中心だったんだよな。当時は王都もこんなにデカくなかったし」
「へぇ……」
 てことは、今の王都は当初よりもずっと大きいわけだ。
「ん〜と、確か人が急激に増えたのが、建国十周年の頃だっけか? 人が増えれば街もデカくなる。当時の王宮ってのは、今の貴族の屋敷に毛が生えた程度のもんだったらしいから、その頃に王宮を新たに建設したらしい。で、それにあわせて教会の大神殿も建築。んでもって、ついでにそこに聖ラグナール孤児院も新築」
 あらら。
 バルバロッサ卿のレクチャーに、あたしは呆れた。
「じゃあ、当時の孤児院の人もそこに移動したの? てゆか、それだと移転っていう形になるんじゃないかしら?」
「いや、残念ながら『移転』じゃなく、『新たに孤児院を作った』んだよ。まぁ、なんつーか、孤児の数が年々すごい勢いで増えてたみたいでなぁ……孤児院が一つじゃ全然足りなかったらしいんだよな。で、新しく作った、と。作ったのは国で、これまた戦災孤児をひきとる為のおのだったので、同じ聖ラグナールの名を戴いた、と」
「?」
 バルバロッサ卿の言葉に、あたしは首を傾げる。
 戦争はとっくに終わったのに、終わってからもまだ孤児が増えるんだ?
「戦時中の怪我が元で亡くなる人、というのも珍しくはありませんからね。戦争というのは、終わればそれで全てが『おしまい』になるものではありません。後々まで、深刻な傷跡を残すのですよ」
 あたしの疑問にピンポイントで答えてくれながら、レメクはどこか憂鬱そうな顔になる。
「当時の詳しい記録がほとんどありませんから、少ない資料を寄り合わせての推測になりますが……おそらく、降魔大戦での死者数および大戦が原因で心身に異常をきたし、通常よりも早くお亡くなりになった方というのは、当時の全民族の半数以上にのぼるでしょう」
「そ、そんなに……?」
「ええ。少なくみつもっても、半数は堅いとみられています。もっと文献が残っていれば、詳しいことがわかったのでしょうが……」
 なんだかとても残念そうだ。
 ふぅん、と相づちを打ったあたしの横で、ケニードがちょっと遠い目になる。
「戦いに赴くのは、成人した男女だからね。彼等ないし彼女等が亡くなれば、当然残された子供は路頭に迷う。国が保護しなかったら、今頃どうなっていたか……」
「そういう意味で英雄様は名前の前に「聖」の字を入れられるんだよな。教会が正式に聖人と認めた最初の一組だ」
「その聖人様のお名前を戴いたのに、うちの孤児院は、あんなんだったわけだ」
 あたしの声に、大人三人はそろって苦笑顔になる。
「賢者はなかなか生まれませんが、愚者はいつの時代にもいるものですからね」
「なんなら、全部終わってから好きなだけ真相を聞かせてやるぜ。聞いてて楽しいもんじゃないだろうがな」
「むしろいつの時代から腐敗していったのか、記録書をチェックしたいですよね。クラウドール卿。なんとか入手できませんか?」
「院の記録書ですか……拠点に乗り込めばなんとかできますが、今の段階では、燃やされないように祈るしかできませんね」
「ということは、まだ院の中に保管されてるんですね?」
「ええ。院長の部屋からのみ通じている隠し部屋の隠し金庫、三つあるうちの一番左側の黒い金庫に保管されています。鍵は暗号タイプで、最初が119119。次が110110です」
「……どうやって調べたんです、それ」
 スラスラと言われた情報に、ケニードが呆気にとられた顔で呟く。
 レメクは苦笑して「秘密です」と答えた。
「ちなみに、院長の部屋と、その隠し部屋への通路はわかってるんですか?」
「もちろんです」
 ……もちろんなんだ。
 だが、今度もその情報を教えてはくれなかった。ただ苦笑して、期待に目をキラキラさせているケニードを見る。
「文書は、彼らを捕まえてから押収しないといけません。盗んでしまっては、後々面倒になりますから」
 途端、ケニードががっかりした顔になる。どうやらこっそり盗んでしまおうと思っていたらしい。……それも犯罪じゃないのかなぁ?
「盗まれた文書は、公式の情報として扱うことはできません。『盗まれた』『改竄された』『これは陰謀だ』などの言い訳を相手に用意させることになりますから、下手なことはしないように」
「……はい」
 しょんぼりと肩を落とすケニード。しょげた我が同士殿に、あたしはテーブルの上の林檎を差し出した。ケニードがちょっと笑って受け取る。
「一応、知り合いに見張りを頼んでいます。異常があれば彼らから連絡がくるでしょう。今のところ、全て順調に進んでいますから、数日後にはあなたに複写を頼むことになると思います」
「任せてください!」
 即座に復活し、ドンと胸を叩くケニード。
 あたしは目をぱちくりさせる。
「あれ? ケニードは保護管なのに、手伝えるんだ?」
「ええ。この一件は私が指揮をとっていますから。私の権限が及ぶ範囲内でしたら、どんな無茶でも通せますよ」
 ……なんか今、さらっとすごいこと言ったよ、この人。
 あっけにとられたあたしの視線を受けて、レメクが苦笑する。
「正直な話、今回の件に関しては上層部はほとんど信用できません。あまりにも利害関係が複雑で、いちいち詳しく安全を確保していては時間がかかりすぎるからです。閣下や陛下や猊下は信用できますが、あの方々はあの方々で大変な状況ですからね」
 ?《はてな》の顔のあたしに、バルバロッサ卿が肩をすくめてみせた。
「王宮の官吏に関しては、宰相の仕事。教会の神官に関しては、教皇の仕事。それらに対し一括して責任をもつのは王の仕事。今から先のことを見越して細かい計画や人事等を練っておかないと、始まってからじゃ遅いからな」
「一斉捜査、一斉検挙、一斉粛正。一気に進めるから途中で『待った! 今考え中!!』なんて言ってられないんだよね。だから、始まったら終わりまで一息に推し進められるよう、あらゆる事態を想定して計画を詰めていかないといけないんだよ」
 二人の説明に、あたしは「はぇ〜」と情けない声をあげた。
 なんとなく言ってることはわかるのだが、細かい事情とかは、悲しいかな、さっぱりわからない。
「犯罪というのは、その犯人を裁いて終わり、では無いのですよ」
 あたしの頭を撫でてから、レメクは軽く嘆息をつくように言葉をこぼす。
「裁く前に調査をし、証拠を集め、身柄を確保するのはもちろんですが、その犯罪がどうして起きたのか、どのようにして始まったのか、そしてどうすれば次に同じことが起こらないようになるのか、考えなくてはいけません」
「犯人を裁くのはその後?」
「ええ。一番最後です。犯人というのは、その犯罪に対する実行者であり、そして、次の『誰か』に対する見せしめでもありますから」
 見せしめ。
 その言葉に、あたしは背筋が寒くなる思いがした。
 あたしはレメクを見る。
 この優しい人が、それをするのだろうか?
「こんなことをすれば、こういう末路を辿る。それはある意味、次の犯罪への抑止力になります。……ただ、これは諸刃の剣です」
 体を小さくしているあたしの背を撫でながら、低い美声が語る。
「罪に対しては、どのような些細なものであれ、相応の罰というものが無くてはなりません。人は容易に犯罪に走ります。なぜなら、今の世界には未だ道徳というものが浸透していないからです。そんな中、『罪を犯しても罰せられない』という状況ができてしまうと、恐ろしいほどの陰惨な悲劇が繰り返されます。それを未然に止めるためにも、罰は必要なのです」
 けれど、それは多すぎてはいけない。
 そして、少なすぎてもいけない。
 厳しすぎてもいけない。
 かといって、甘すぎてもいけない。
「多すぎれば表だっての犯罪は減っても、水面下での陰惨な犯罪が増えます。少なすぎれば、ぎりぎりの範囲を狙っての犯罪が増えます。また、厳しすぎれば反発を招き、甘すぎれば増長を招きます。罪に対しての罰は、常に適度に、そして必ず相応のものでなければなりません」
 そ、それって、ものすごく調整が大変なんじゃ……?
 あたしは唖然としてレメクを見上げた。
 下街に暮らす人間にも、地区によって掟のようなものがある。一族に掟があるように、限られた範囲の生活区域に掟があるように、国にとっても掟がある。
 それが法律。
 けどその法律が、そんなに細かい考えをもって作られていただなんて、今まで思ったこともなかったわ!
「裁判って、すっごい大変なものなのね」
「ええ。裁かれる罪によって、人が相応の罰を受けるのです。適当にするわけにはいきませんよ」
 いやまぁ、そうなんだけど……
 あたしはややも遠い目になってしょんぼりする。
 正直、お話が高い位置にありすぎて、ついていけないのです、はい。
 しゅんとしたあたしに、レメクが労るように背を撫でてくれた。
「そのあたりの詳しいことは、これから徐々に教えていきますよ。この国で生きる以上、知っておいたほうがいいですから。知識は力です。あなたはか弱い女性ですから、知っておいたほうがいいでしょう。自分自身を守るために」
 暖かい声に、あたしは丸まっていた背をシャキッと伸ばす。
 がんばれあたし!
 がんばりあたし!!
 せっかくの好意! 受け取らずして何が恋する乙女であるか!!
 気合いを入れ直したあたしに、ちょっと満足そうにレメクが頷く。
 そしてレクチャーが再開された。


「裁判にとってなによりも重要なこととして、決して『間違わない』こと、という大前提があります」
「間違わないこと?」
 必死に小さな脳みそに言葉をたたき込み、あたしは首を傾げる。レメクはしっかりと頷き、少しだけ時間をおいてから語った。
「ええ。犯罪の中にある真実と事実。周りの状況、心理状態、そして犯人そのもの。どれ一つとって間違うことの許されないものです。そして、罪に対し罰を与える者は、必ずあることを念頭におかなくてはなりません」
 えーと、えーと。
「あること?」
「裁くのは人では無く、あくまでも犯された罪である、ということです」
 ……どう違うのだろう?
「簡単に言えば意識の違いです。罪人だから悪、だから裁く。という考えをしてはいけないのです。この罪に対し裁きを行う。故にこの人は裁かれる。そういう形を念頭に置いておかないと、自分自身に対し『自分は人を裁く権限のある者だ』という間違った認識がうまれます。ほんの些細なことですが、その些細な意識の違いで、別の犯罪が起こるのを防げたりするから不思議ですね」
 うーん、うーん。
 あたしは無い頭を絞りに絞って考えた。そろそろ脳内回路が灼けそうだが、根性でふんばった。
「えっと、自分は人を裁ける、っていう思いこみができちゃうと、それに関する犯罪が生まれるのね?」
「ええ。いくつかあります。たいていは、そうですね……罪のない者が罪を犯した者と間違われ、裁かれる。あるいは罪をねつ造され、裁かれる。といったケースでしょうか。いずれも裁かれた相手は無実です。また、罪を犯した者の罰を、より厳しいものに勝手に引き上げられる、といったケースもあります。これらの犯罪は、上流階級や王宮の上層部などと利害関係があるのが常です。ただの怨恨のときもありますがね。所謂、裁判官の独断、もしくは他者による買収によって引き起こされる事件です」
「ちなみに、冤罪やでっち上げは、上層部がよく使う手だ。真犯人の『身代わり』に別の誰かをもってきて、利益を得たり損を免れたりする。そういった連中を取り締まるのが、これまた大変でなぁ……」
「昨日裁かれた二人の神官がそれでしたよね。あの二人、公爵家の縁でしょう? 大丈夫ですか?」
「あー、いろいろ問題はあるが……まぁ、今のところ大丈夫かな。だろ? レメク」
 バルバロッサ卿の声に、レメクは「ええ」と頷いた。
「なんとかします」
 なんかさらっと言ってる。けど、ケニードの陶然とした顔を見るに、ものすごくすごいことのようだ。
 てゆか、ケニード。
 君はマニアという前にファンなのですね。
「連中の暗躍はともかく。裁判官不正問題の再発防止策として、裁判官任命制度そのものを見直す必要があるでしょう。連帯責任制度を導入することも検討しましたが、そうするときちんとした裁判官が巻き添えになる可能性が高い……悩みどころですね」
 なんか一層小難しそうな話になってきた。
 すでに半分以上異世界会話になってるオトナノハナシアイを横目に、あたしは涙目でレメクの上着にへのへのもへじを描く。寂しくないもん。
 あ。けっこう上手に描けた。
 ふんふんふーん♪
「……まぁ、明日の会議の様子を見てから、最終案をまとめましょう」
 ぽむ、と頭に暖かい手が乗って、上向くとレメクが苦笑含みの眼差しであたしを見下ろしていた。
 あれ? 難しいお話終わった?
 にこっと笑うと、何故か怯みやがった。
 どういう意味ですか?
「明日の会議かぁ……もめそうだねぇ」
 む。終わってなかったのか。
 会話を引き継いだケニードに、あたしはしょんぼりと俯く。
 すぐに暖かい手が頭を撫でてくれた。おっおーぅ♪
「揉めるでしょうね」
「揉めなかったら、お前さんが爆弾投下させて揉めさすんだろ?」
「ええ。この機会に裁判官の顔ぶれも一新したいですから。自己満足のための裁判や、強制自白のための拷問など、目に余る所行が多すぎます」
「奴らの体にゃ痛みを感じる機能がついてねぇからなぁ。いっそ自分が体感すれば、悔い改めるかもしれねぇが……」
「無駄でしょう。与えられた痛みを他者への憎しみに変換するだけです。それでも、多少の効果がありそうでしたら、精神に直接痛みのイメージを送る案を採用しますが……」
「……何気にイタイからやめてやってくれねぇかな、アレ。見てるほうが恐ろしい……」
 頭の上で飛び交うオトナノカイワ。なんとか自分の興味のあるところだけでも拾って、もはや容量オーバーを起こしている記憶回路に無理やり詰め込む。
 よーしよしよし、これで一人遊び『楽しいレメクの正体推理』ができるぞー、と。
 未だに裁判がどーたらと長々話している三人の会話を余所に、あたしはヒート気味の脳内情報を整理した。
 レメクは紋章術師としてよりも、裁判関係のお仕事のほうが多いっぽいようだ。
 あたしが発見されたのが原因なのかもしれないが、この件に関してはボスっぽい発言といい、まるで裁判官であるかのような仕事ぶりだ。神官じゃないのに、どうしてだろう?
 だいたい、紋章術という特殊技能の持ち主なのに、それっぽい仕事を見たことがない。もしかして、闇の紋章という、あの特殊すぎる紋章しか持ってないんだろうか?
 紋章術師の仕事というのがどういうものなのか、実のところはよくわからない。けれど、そういう魔術師系の人なら、例えば地下に籠もってせっせと新術編み出すとか、得体の知れない儀式をするとか、いろんな紋様やら紋章やらを書きためてみるとか、そんな摩訶不思議な異常行動があって然るべきじゃないんだろうか?
 そう、衣装も専用の特殊な服とかあってですね……
 地下に籠もるレメクの図を鮮明に想像したところで、頭を撫でてくれていた手がワシッと掴みに変化した。
 イタイ。
「……ベル。私は黒マントだけを着用するというおぞましい趣味はありませんから」
 ぎゃーッ! 想像図がリアルにレメクに流れてた!!
 ぼそりと呟かれた声に、あたしは思わず飛び上がる。
 そう!! 忘れていたが、闇の紋章とやらのせいで、あたしの考えは筒抜けだったのです!
 それはつまり、あんなことやこんなことやそんなことやムッハーンなことも全部筒抜けということで!!
「…………」
「…………」
 ……あれ? なんかレメクが額押さえてぐったりしたよ?
 どういう理由でかほどよく青白くなってしまったレメクは、俯いたまま視線を地面に固定している。なんだろう。何が彼をそこまで追いつめたんだろう?
 やっぱり裸エプロンはいけなかったですか、旦那様。
『……ベル』
 その瞬間、唐突に脳みそのあたりで声が弾けた。
 慣れ親しんでいないその新感覚にビクッとなると、状況がわからない他二人がきょとんと首を傾げた。……裏事情を知ってる熊はすぐに納得顔になったが。
『とりあえず、妄想の類は打ち止めにしていただけますか』
 妄想と言われた。失礼な。
 ちょっとお茶目で可愛い想像なのに。
『男の裸エプロンや裸マントのどこが可愛い想像なのですか即座に想像しないでくださいおぞましいッ』
 レメクの顔がますます青い。
 未だお風呂を覗けてないので細部まで綺麗に想像できなくてすみませんってどうして掴む力が強くなるのですかイタイイタイ!
「に……にぎゃー……ッ」
 ギューと鷲づかみにされた頭の痛みに顔をしかめて両手をつっぱねる。
 即座に痛みが緩和されました。
『猫では無いと怒るのに、どうしてあなたはそう猫のような仕草を……』
 あ。
 『声』が途切れた。
 なんでだろう? さらなるダメージを受けたような顔になってる。
 とっさに想像した猫レメクがそれほどダメだったんでしょうか、ってどうしてあたしを掴んでバルバロッサ卿に差し出すのーッ?!
「すみません。しばらく捕獲していてくださいますか。今、精神衛生上、かなり厳しい状況ですので」
「……おまえさんをそこまで追い込むたぁ……いったい……」
 巨熊にぷち悪魔でも見るような目で見られてしまった。
 ぷらーんぷらーんと両手両足をぶらつかせながら、まるで小動物のごとく巨熊に押しつけられるあたし。いやーっ! ご主人様のところに返してーッ!!
 じたばたじたばた。
「はーはっはっはっは、そーら恐くない恐くなーい。おじさんはとっても恐くないぞー? ちっこい子猫みてぇだなぁ、おい。はっは、飼い主さんよ、これぁどうやって懐かせたらいいんだ?」
「御飯です」
「……エサかよ」
 ガーン!
 乙女心を餌付け成功と勘違いされている?!
 あたしは初めて知った驚愕の「レメク的事実」に、打ちのめされた。
「おお。大人しくなった」
「……というか、クラウドール卿。何気に今の台詞はひどいですよ……」
 我が心の友だけが、この悲しみをわかってくれているようだ。
 ケニードいい人……複写紋章術会得後には、ぜひ入浴中レメク写真をあなたに進呈させていただきます。
 できれば全身図で。
「……何故でしょう。今、壮絶に鳥肌が立ったんですが」
「おかしな邪念でも受信したんじゃねぇのか? どっかから」
 レメク。そこであたしを見るのは何故ですか?
 しゅーんとした顔のあたしをじっと見つめていたレメクは、はぁ、とため息をついてから手を差し出した。
「ベル。いらっしゃい」
 喜んでーッ!!
 即座に復活。素早く脱出。そしてその胸に華麗なダイビング!
「げふ」
 レメクが変な呼吸をした!
「い、今、まともに胸部に全身攻撃ボディアタックがいきませんでしたか?!」
「あれほどの攻撃は俺様でもできねぇ……」
 ラブアタックを物理攻撃のごとく扱う失礼男二人。彼らを尻目に、あたしは数十秒ぶりに帰還することのできたマイベストポジション(胸)に「ただいま攻撃」を開始した。
 すりすりすりすりくんくんくんくん(以下略)。
「ああ、なんだな。嬢ちゃんのそれは、もう、反射的行動なんだろうなぁきっと。……レメク、黄昏れるか、諦めるか、喜ぶか、どれかにしろや反応は。……あぁ、悪ぃ、全部か」
 なんか気になる単語があった気がするけど、匂い嗅ぐのに忙しくて耳に残らなかった。
 なぜだろう。とても残念なことをした気がする。
「まぁ、こんな長閑な昼下がりに花咲かせるなら、血なまぐさい裁判系よりも、可愛い未来のレディのマーキングの話のほうがいいわな」
「さて、その裁判の話ですが」
 光の速さで話を戻すレメク。
「……どうしてそう不得意分野から逃げるんだ、おまえさん」
「裁判は大事な話ですし、時間もそうありませんから」
「目がちょっと必死なのはなんでだろうなぁ、レメっち。……いえ、はい、真面目な話をしますごめんなさい」
 スーッと体感温度が三度は下がった不思議な気配に、即座にバルバロッサ卿が謝る。どういう理由でか、真向かいにいたわけでもないのにケニードも青い顔になっていた。
 そんな顔面蒼白二人組を見て、あたしはしぶしぶ匂い吸引を終了する。この変な気配を消すのは、第三者であるあたしの役目だろう。
「おじ様」
「どうしましたか? ベル」
 あたしの真面目っぽい声に、レメクもすぐに反応する。
 視界の端で、男二人がそれぞれ胸をなで下ろしているのが妙に印象的だった。
「あたし、ずっと不思議に思ってることがあるんだけどね。孤児院のことは、大変な不正問題で、裁判官に裁いてもらわないといけないのよね? なのに、裁判官だっていうバルバロッサ卿より、おじ様のほうが立場が上っぽいのは、どうして?」
 あたしの問いに、男三人が思わずといった形に顔を見合わせた。
「ベル……本当に、クラウドール卿のお仕事のこと、何も知らないんだね」
 ケニードの唖然とした声に、バルバロッサ卿も顎を撫でながら「あー」と声をあげる。
「俺様より上っていうか、まぁ、なんだ。どう説明するべきかな……裁判が始まったら俺様達裁判官のほぼ独壇場なんだが、それまでは担当官吏の独壇場なわけだ。……てか、この説明でわかるか?」
 微妙。
 情けなく眉を下げたあたしに、熊さんも一緒に眉を下げる。
 脳みそが小さくてごめんなさい。
「ベル。あなたのいた区域には、もめ事があったときに出てくる顔役達がいますね?」
「え? うん。いたわ」
 しゅんとしたあたしに、レメクが唐突に話を変えてきた。
「その中には、事情を詳しく調べてもめ事を調停する者がいるはずです。裁き云々の前に」
「えーと……うん」
 話が変わりすぎて理解がおいつかないが、確かに、もめ事が起きた時には、それをちゃんと調べて仲直りをさせようという人がいた。
「簡単に言えば、それが、今回の件に関しての私です」
 話、変わってませんでした。
 ……例えだったのですね。あぁ、でも、ちょっとだけわかりやすい。
「もっとも、今回はあなたという証人を私が保護したので、私が陣頭指揮をとることになってしまっただけですが……。本来なら、これもきちんとした専門の官吏が行うべきなんですよ。孤児院に関しては、衛生課と福祉課と管理課と教会が権限をもってますし、そこに保護機関が微妙にからんできているはずですから」
「「お手数をおかけしてすみません」」
 教会の熊と保護官のマニアがそろって頭を下げた。
 それにしても孤児院て……あちこちに権限持ってる部署があるんだなぁ……。どこがメインで受け持っているのだろうか?
「街や人を衛生的な状態にする、という意味でしたら衛生課。恵まれない者に手を差し伸べる、という意味でしたら教会と福祉課。建造物とその住人という意味でしたら管理課。特定の保護指定を受けた『誰か』が関わったときは保護機関。といった具合に、それぞれ分野分けをしているようですね。結局の所、自分の所の管轄では無い、と言い訳して押しつけあってるのですが」
「「……返す言葉もございません」」
 大小の大人がそろってしょんぼり。別に彼らが悪いわけではないのだが。
「ただでさえそんな風に複雑な様相を呈してる『孤児院関連』の事件である上に、上層部と教会の腐敗を示す『不正』が加わり、公金横領という『大罪』が加わっている状態です。裁くのも、そのための資料を整えるのも、けっこうな手間なんですよ。……私が話をもっていったときの、陛下と閣下の表情が未だに頭から離れません」
「獲物が自ら飛び込んできたって感じ?」
 宰相閣下は会ったことがないので、表情なんて想像もつかない。が、アウグスタだけはリアルに思い浮かべれる。きっと口の端をにゅっと引き上げて、目をキラキラさせたに違いない。
 面倒事を押しつける人が、自ら面倒事を見つけてきたのだから。
「調査するのはかまいませんし、不正者を摘発するのもけっこうです。ですが、裁判に関しては一歩引かせていただきたい」
 そう言ったあと、憂鬱そうなため息をつく。なんだか一層疲れたような顔だ。
 それを見やって、バルバロッサ卿がなんとも申し訳なさげな笑みを浮かべた。
「できるだけ、善処する」
「頼みます」
 短くそう言って、レメクはカウチの背もたれに深く背を預ける。
 本当に疲れてるんだ。そして、本気で裁判そのものに関しては関わりたくないと思ってるんだ。
 確かに、レメク達が言っていた小難しそうな話を(あんまり覚えてないが)まとめると、ものすごく面倒で大変そうだ。だいいち、喧嘩とかと違って、プレッシャーが違う
「人を裁くのって、とっても大変なのね」
 孤児院の仲間で喧嘩したら、仲裁したりするのは年長者の役割だ。居丈高に怒鳴るだけの人もいたが、一生懸命話を聞いてじっくり話し合ってくれる人もいた。後者の人は、いつも大変そうだった。
 孤児院の喧嘩でさえそんな感じなのに、国規模の、しかも大の大人が憂鬱そうにするほど大変な事件の裁判なら、いったいどれほどのプレッシャーなのだろうか。
「ん〜まぁ、だからこそ、人を裁くのは神の代行者の仕事ってぇことになってるんだよな。裁判官が全員神官なのも、そのためだ。人を人が裁く時には、相手や、相手に関わったあらゆる全ての物事に対して、一定の責任を負わなくちゃならねぇ。責任がもてないなら、裁く権限は無い。だがな、神官には後ろにどえれぇお方がついている」
「誰?」
 あたしの問いに、バルバロッサ卿は自分の後ろをくぃっと指し示して笑った。
「神様さ」
 熊の後ろにカミサマの姿は見えなかったが、その近くの木の枝に赤茶色のネコは見えた。
 あ。爪といでる。
「神様は人間のことは全てお見通しだ。その神様の代行者として、裁判官は罪を、そしてそれを行った人を裁く。まぁ、もっとも独断じゃあ裁けねぇがな。常に三位一体で、原則は全員一致であること。ただし、判決がバラバラで、あんまりにも長引くようなら多数決だ。そうやって裁判を行う。そして、できるだけ判決は厳しいものでなければならない」
「……見せしめだから?」
「そうだ。だが、厳しいからといって、残酷であっちゃならねぇ。それなら、犯罪者とやってることは変わらないからだ。裁判で最も厳しいのは……」
 そこまで言って、バルバロッサ卿はふいに口を閉ざした。あたしをじっと見て、次の言葉を迷う。
 あたしは理由がわからずに首を傾げる。
「最も厳しいのは、死刑。つまり、ギロチンの刑ですよ」
 そのあたしの後ろで声がした。レメクだ。
 バルバロッサ卿がちょっと渋い顔になり、それであたしは彼が言おうか否か迷った理由を知った。死刑という言葉をあたしに聞かせたくなかったのだ。
「ベルは、本人自身が死の傍まで行った子供です。死という現実から目を背ける子ではありません。……罪に対する罰として、死が存在するのはどこの国でも同じです。ただし、死罪というのはよほどの場合のことと、覚えておく必要はあります」
 ぽん、とレメクの大きい手があたしの頭の上に乗った。
 あたしは撫でてほしくて自分から頭を擦りつける。
 レメクがちょっと苦笑わらったのが見えた。
「人は人を恨みます。心の底から憎み、時にはその存在を消し去りたいと思うこともあるでしょう。ですが、安易に人の死を願ってはいけないのです。それがどんなに、憎い相手であっても……」
 どんなに憎くても。
 どんなにひどいことをされても。
 あたしはじっとレメクを見た。
 今のあたしにとって、一番『ひどいこと』は、目の前のこの人を失うことだ。それを思うと、目の前がいきなり赤黒い闇に塞がれたような気持ちになる。
「おじ様……」
 あたしは声を零した。情けないことに、ちょっと肩が震えた。
「ものすごく、大事で大好きな人がひどい目にあっても、ひどいことをした人を『死んじゃえ!』って、思っちゃいけないの?」
 レメクはあたしをじっと見つめたあと、ほんのわずかに目元を和ませてから、首を横に振った。
「……思うこと自体は、止められません。それはごく自然なことですから。大事だと思うその気持ちが、そのまま裏返るのです。思いが深ければ深いだけ、それは恐ろしいほどの憎悪になるでしょう。相手の死を願うほどに」
 けれど、安易に相手に死を与えようとしてはいけない。
 その手に刃を持ってはいけない。
 なぜなら、誰であっても命はたった一つしかなく、それは必ずいつか尽きるものだから。
「人は、決して一人では生きられません。誰かにとっては死を願うほどの悪人でも、別の誰かにとっては尊敬する恩人、というのはよくあることです。誰もが死を願うほどの絶対悪というのは、そうそう存在しませんから。……例えて言いますと、そうですね……私などは、多方面から死を願われるほどに憎まれています」
「えっ?!」
 あたしは仰天してレメクにしがみついた。
「おじ様が?!」
「ええ。大変恨まれています。それこそ、年をとって体が不自由になったら、これ幸いと刃物片手に押し寄せてきそうな方々が……軽く数百名ほど」
 軽く数百名?!
 あたしはギュッとしがみつく力を強くした。
「私の近くにいると、そのとばっちりを受ける可能性もありますからね」
 なんと!
「だから、できるだけあなたも」
「大丈夫よ!」
 何かを言いかけたレメクの声を遮って、あたしは力一杯宣言した。
「あたしが守るから!!」
 ぶぽっ!
 あたしの横とか後ろとかで、いい年した大人二人が口を押さえてブルブル震える。
 吹き出しやがったな?!
「ケニードもバルバロッサ卿も、何その反応!?」
 失敬な!!
「ご、ごめ、ごめんょ、ベル〜ッ」
「ぷ、ぷぷぷぷぅぶはッ、うわははははは!」
 それでもなんとか謝るケニードと、もう謝罪すら思い浮かばないぐらい腹かかえて笑っている熊。あたしはブルブル震えながら違う意味でプルプル震えている二人を睨みつけた。
「わ、笑うなぁーッ! おじ様とあたしの年齢差考えたら、おじ様がヨボヨボのおじいちゃんになっても、あたしはまだそこそこ若いはずなんだから! 足腰弱ったおじ様の代わりに、悪漢を撃退しちゃえるんだからねッ!」
 渾身の叫びは、しかし、かえって爆笑を誘ってしまった。二人ともそれぞれのカウチをバンバン手で叩くほどのはしゃぎぶり。
 ますますもって失敬な!!
「おじ様! おじ様からも何とか言って!」
 あたしは最終兵器、もとい最愛のおじ様を振り返り、
 絶句した。
 なんと、レメクは目をまん丸にしたまま、ぽかんと口を半開きにしていた!
 その呆けきった顔は、半開きの口に干し杏を放り込んでも気づかないんじゃないかと思うほどだ。久々に見る、両頬紅葉事件なみの顔である。
「おじ様?」
 あたしの呼び声に、レメクはハッと我に返ったあと、明らかに狼狽する。
「い、いえ。それには及びません。いえ、断じていけません。できるだけ巻き込まれないよう、あなたは無関係を装うべきです。今からでも遅くはありません。そうです、手遅れにならないうちに、早く」
 なにか不思議な台詞を自分自身に言い聞かせるようにまくしたてるレメクに、あたしは渾身の力で抱きついた。
 ぎくっとしたレメクに、輝く瞳で宣言。
「手遅れだから」
 ニッコリ。
「…………」
「手遅れ、だから」
 二度言ってやった。
 レメクはなぜか汗っぽいものを顔中に浮かべて、
 あっ!
 目線逸らしやがったッ!!
「おじ様男らしくないーッ!」
「お、男らしか否かという問題ではありません! あなたはまた、何故いつもそうやって、命を投げ出すような方向にばかり飛びかかるんですか?! 少しは危機を回避しようと動くとか、危ないものには近寄らないとか、しなさい!」
「そんな無理なこと言われても!」
「何が無理ですか! 賢く立ち回りなさいと言っているんです!! だいたいですね、あなたは危機管理能力が無いというか、感知能力が無いというか、むしろ全力でそっちに走っていく暴走傾向があるというか……!」
 途端にわぁわぁ叫びあうあたし達の前と横で、熊さんとマニアさんが揃って微笑ましそうな目になった。
 熊がぽつりと呟く。
「まぁ、なんだな。賢者の理も、愚者にならんとする恋する乙女には敵わんってところだな」
 そしてマニアは相変わらず、羨ましそうに「いいなぁ」と呟いた。

前頁   次頁   小説目次頁   一次小説TOP頁
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送