10 マルグレーテ

 何が起きたのか── 
 分かりきっているはずなのに、頭の中がカラッポになっていた。
 倒れている二人。
 近くで粉々になっている陶器。
 散ったチューリップの鮮やかな赤が、やけに毒々しく目にうつる。
「……け……にー……ど?」
 呟くように声を零して、あたしは一歩を踏み出した。
 今までどこに消えていたのか、ドッと音が押し寄せてくる。
 誰かの悲鳴。
 慌ただしい足音。
 人を呼ぼうとしている大人の声。
「アル……」
 あたしはさらに一歩踏み出した。
 足は止まらず、そのまま駆けだした。
「ケニード……!」
 建物側で重なって倒れている二人は、時が止まっているかのように動かない。
 彼等の肩あたりから頭のあたりまでは、水でビッショリと濡れていた。
 そう──水だ。
 あたしは嫌な予感を感じながら、必死で自分に言い聞かせた。
 あれは水だ。だってほら、濡れたチューリップが近くにいっぱい散っている。
 だから、二人が被っているのは水なんだ。
 赤いのは、チューリップの花なんだ!
「ケニ……ッ!」
 あたしは駆け寄り、名を呼びかけ──近づくことでハッキリと見た彼の姿に声をひきつらせた。
 うつぶせになっている彼の左肩がありえない形にくぼんでいる。
(なに……これ……)
 なんで彼の肩が、途中からくぼんでいるんだろう?
 普通にあるはずのものが、どうして下にズレているんだろう?
 マントが濡れているのは水のはずなのに、きっと水のはずなのに、どうして、彼の下に溜まっていく水は、赤い色をしているんだろう……?
「……っつ……く〜……ッ」
 硬直したあたしの前で、ケニードの下敷きになっていたアルトリートが身を起こした。
 後頭部を押さえているところを見ると、突き飛ばされた時に地面で強く打ったようだ。
 だが、それ以外に外傷らしいものは見あたらない。
「〜ッて……頭打ったぞ! 一体なんだって……んだ……」
 悪態づきながら身を起こし、彼はすぐ間近にいるケニードを見て声を失った。
 それはそうだろう。
 アルトリートの真正面に、問題の肩があるのだから。
「おい! あんた……! なん……だよ、この肩!?」
 真っ青になってケニードを揺り動かしかけ、その異様な体に触れられず手を止める。
 あたしは散らばった陶器の破片をよけながら、二人の傍にもっと近寄ろうとうろつき──
「アル!」
 ふいに聞こえた大声に、思わず廊下側を振り返った。
「アル! 何が……ッ!?」
 駆け込んで来たのは、アルトリートとよく似た青年だった。髪の毛がアルトリートよりもクリンクリンの……えー……
 クリ……えー……
 クリンクリンさんだ!
「なん……で……」
 クリンクリンさんは、信じられないものを見るようにアルトリート達を見ている。
 その愕然とした顔を見て、あたしはちょっと眉をひそめた。
 変な感じがしたのだ。──何かがズレているような。
「あ……ッ」
 アルトリートが何かを言いかけ、体を起こそうとした。その動作と同時に落ちかけたケニードに、彼は必死に抱き留めようと動く。
 ──パタ、と。
 その瞬間、力無く投げ出されているケニードの腕のあたりから、赤いものが零れて大きな溜まりの中へと落ちていった。
「……けに……ぃど」
 より近くへと踏み出した足が、硬いものを強く踏む。
 王宮にいる間中、ずっと履かされている硬い硬い靴の下で、それはガリッと嫌な音をたてた。
 あたしは気にせず、そのままふらふらとケニードの傍に寄る。
 彼の体まであと数歩分の距離。
 歩いて手を伸ばせば触れられる距離。
 だからもう、自分をごまかせない。騙せない。 
「ケニード……」
 あたしの鼻に、まとわりつくように鉄錆びのような匂いがしているのだから。
(ケニード……!)
 ──目眩がする。
 倒れている人。動かない人。
 こんな光景は嫌だ。もう嫌だ!
 大事な人が倒れているところなんて、もう、見たくなんかないのに!!
「ベル!」
 フラフラと、彼らの間近に落ちている大きな破片の上に足を踏み出した瞬間、まるで引き留めるように強く名を呼ばれた。
「お……じ様ッ!」
 ドクンと心臓が大きく鳴った。フラフラだった足下の感触が、たった一声でしっかりとしたものになる。
 兵士か誰かに呼ばれたのだろう。中庭に走り込んできたレメクは、その場の状態を見るや否や厳しい顔で叫んだ。
「警備兵!」
「ハイッ!」
 ちょうど庭に駆け込んできた濃い灰色の服を着た男数人が飛び上がり、転ぶようにしてレメクの傍に走り寄る。
「この場所の上、全ての階とこの場の現状を確保しなさい。フェリシエーヌ姫の侍女を呼んで、消えている花瓶の場所の確認を。一人は陛下に報告! それと、担架はどこです!?」
「い、い、今っ、と、取りに行っていま……」
「槍とマントで作りなさい!」
 言われて、兵士達は再度飛び上がって槍を落とした。
 あたしとアルトリートは、こんな時だというのに思わずポカンとレメクを見上げてしまう。
 場を仕切るレメクというのは過去に何度か見たことがあるが、正直、声を荒げて命令している姿は初めてである。
「……おっ……かねぇ……」
 アルトリートの言葉は、おそらくその場全員の心の声だろう。
 しかし、ボソリと呟いたアルトリートはなにやら惚けた顔をしていた。
 あたしも惚けた顔でレメクを見上げていたが、首を振って慌てて叫んだ。
「おじ様! ケニードが!」
「わかっています。動かさないように」
 足下の破片に一切目を向けず、レメクは無造作にケニードの傍に膝をついた。
 下敷きになったままのアルトリートにも手で「動くな」と命じてから、懐から白い布を取り出す。
 あたし達の目は自然、その布に集中した。
 小柄なあたしなら、マントにしちゃえそうなぐらい大きな布だった。
 生地には大きくて複雑な模様が描かれている。その模様は、不思議なことにゆらりゆらりと自ら動いているように見えた。──紋様術だ!
(……あれは……)
 あたしはその紋様を見て目を瞠る。
 あんなに複雑な模様に見覚えは無い。けれど、それに似た紋様をどこかで見た気がした。
 どこかで──そう、あたしの左胸の上で。
(『闇の』……)
 レメクはその布を手早く、けれど慎重にケニードの左肩に巻きつけた。マントの上から巻いているので、下がどうなっているのか、詳しいことはよくわからない。
 分かるのは、やはり首の横のあたりから大きくくぼんだようになっているということ、そしてそのせいで腕がぐにゃりと下の位置に下がっているということだけだ。
 一見して肩が外れているように見えるのだが、場所が少し違うように見える。
 第一、そこが外れているのだとしたら──
 肩の──骨は──どうなって……?
「……な、なぁ、あんた……こいつ、大丈夫、だよな……?」
 布を巻きつけた(布は一気に赤く染まった)その上からさらに自分のマントを脱いで被せたレメクは、真っ青になっているアルトリートにチラと目を向けう。
「こんなッ、怪我……! なぁ……大丈夫だよな!?」
 アルトリートの声が今にも泣そうなのは、ケニードの怪我がとても軽いものには見えないからだろう。
 そのうえ、ケニードが怪我したのはアルトリートのせいでもある。
 なぜなら、ケニードを怪我させた茶色い物体── 大量のチューリップが生けられていた花瓶は、ケニードが庇わなければ、アルトリートの頭上に落ちていたはずなのだから。
「……。私の方では、まだなんとも言えません」
「……ッ」
「努力はします。今、処理を施せば、『命を失うほど』には至りません」
「じゃ……じゃあ……」
「ただ、彼は宝飾技師です」
 険しい顔のまま、レメクは告げる。被せたマントの上に軽く手をかざして、担架を作っている兵士達の方に視線を向けた。
「……後遺症になるかどうかまでは、私では分からないのです」
 呟きと同時、うつぶせで倒れたままのケニードの体を抱え、彼は立ち上がった。
 ぐにゃりとした左肩部分はできるだけ動かさないように。
 これ以上ないほど丁寧に抱え、必死に即席の担架を作って来た兵士に目配せして、その上にそっと横たわらせる。
「『青の間』へ。──王女、よろしいですね?」
 その声は、あたしに対して。
 あたしは一拍おいてから慌てて頷き、レメクは厳しい顔のまま兵士に向き直った。
「出来る限り振動を与えないように、丁寧に運んでください」
「はいっ」
「それと───この場所の確保は任せました。陛下が来られるまでで構いません」
「はッ!」
 踵を揃え敬礼する兵士をその場に託して、レメクは立ち上がった。
 呆然と地面に座り込んでいるアルトリートを見下ろして手を差し伸べる。
「立ちなさい。あなたも関係者です。『青の間』について来ていただけますね?」
「……俺……は」
 無意識に伸ばした手を引っ張られ、よろめくように立ち上がったアルトリートは、白くなった顔で唇を噛んだ。
 思いつめた表情で頷く彼の頭の中は、運ばれていくケニードのことで一杯になっているのだろう。その場にいる他の者のことなど、ほとんど頭に入っていない感じだった。
 あたしは不安に走り出した鼓動を押さえて、運ばれていくケニードを見送り、レメク達を見る。
 ──レメクは、一度もクリンクリンさんを見なかった。

 ※ ※ ※

 人の肉体というのは『闇』の領域に属する。
 何か無茶をするたびにレメクから教わった闇ネタの話は、小さなあたしのノーミソにもしっかりと入っている。
 光の領域にある『魂』を闇の領域にある『肉体』が内包して、初めてあたし達のような『生命』になるのだそうだ。
 だから魂を内包しない肉体は、不死人(アンデット)と呼ばれ、『生命』もつ者とは区別されるらしい。また、逆に『肉体』を持たないものは、彷徨魂ウィルなんとかかんとかと呼ばれるらしい。
 ──ええ。長い名前は覚えられませんよ。まったくもって。
 まぁ、そのあたりの細かいことはともかく。レメクの持つ『闇の紋章』が、人体に対して凄まじい力を持つのはよく分かっている。
 なにせ本気で死にかけていたあたしを、本人に気づかせることなくずっと生かし続けていたのである。それこそ神様みたいな力だろう。
 ただ、その神様みたいな力は、いつでもどこでも誰に対しても使えるわけでは無いらしい。
 そんなことが簡単にできるなら、レメクは孤児院の騒動の時に孤児全員に対してやっていただろう。
 ──と、唯一そんなことを簡単にできちゃえそーなポテトさんが言っていた。
 そのあたりのこともあたしにはピンとこないのだが、結局、人間には『出来る時』とか『出来る事』てのがイロイロ決まっていて、それを超えちゃうような奇跡なんて、そんなに都合良く起こせるもんじゃないってことなんだろう。
「……ベル。下がっていなさい」
 青の間の一室、応接室に即席で作られた寝台の前で、レメクは静かにそう言った。
 寝台の上には、やはりうつぶせの状態で寝かされたケニードがいる。
 広くて豪華な部屋の中には、他にはあたしとアルトリートしかいない。
 ケニードを運び込んでくれた兵士さんも、駆けつけてすぐ即席の寝台を作ってくれたフェリ姫のメイドさん達も、全員部屋の外に出されていた。細かく言うなら、応接室の外、でなく、思いっきり廊下に、である。
 さらに窓には分厚いカーテンがひかれ、部屋の中はかなり薄暗くなっていた。
 厳重な人払いも、カーテンも、彼の持つ『力』が決して公にしてはいけないからである。
「…………」
 あたしは厳しい表情で立つレメクを見上げ、そろそろと数歩離れた。
 ちょっと離れた場所で棒立ちになっていたアルトリートの傍に寄り、てんつくと両足を踏ん張る。
 ──何故、あえてアルトリートだけはこの場所に残されているのか。
 その理由はあたしには分からなかった。
 確かに、ケニードの怪我は彼に原因がある。
 けれど、それだけで『秘中の秘』とかいう『闇の紋章』を見せてちゃっていいのだろうか?
(アルも一応は王族の血筋とかゆーやつだから、そのせいなのかな?)
 王家の秘宝のことだから、もしかすると王族には見せてもいいのかもしれない。……まぁ、そのへんの事情もサッパリだが。
 あたしはいっぱいの疑問を抱きつつ、アルトリートをチラッと見上げた。
 アルトリートは表情の無い顔で、ジッとケニードのことを見ている。
 固められた拳は細かく震えていて、何かを必死に我慢しているような、祈っているような──強くて切ない思いが感じられた。
 元気づけるようにその拳をペチと叩き、あたしも並んでケニードを見つめる。
 が、レメクの長身と祭壇のように高めに作られた即席寝台のせいで、ケニードの姿はほとんど見えなくなっていた。
(……むぅ!)
 何かを始めようとしているレメクの背中を見つめつつ、あたしは何か台は無いかと素早く周りを見渡す。
 遠くに椅子や机はあるが、それだとケニードの傍にいられない。とはいえ、レメクが何かやってる間中、ずっとジャンプし続けるわけにもいかない。
 何か台は……台は台は……
 あたしはもう一度周囲を見渡し、ふと隣のアルトリートを見て顔を輝かせた。
 よじ登りました。
(あっ! ケニードがハッキリ見える!)
 なかなかイイ感じの視界である。とはいえもうちょっと高みのほうが良さそうだ。
 肩に立つぐらいが丁度いいとみて、あたしは「よいしょ」と生きた彫像の上に登りきった。絶景である。
 そのいつもと違った視界の中で、まさに今、レメクがケニードの上に手をかざす。

 ──ふわり、と。

 風もないのに、空気に肌を撫でられるような感覚がした。
 さわさわと何かが動くような感覚。世界からレメクへと収束し、レメクから周囲へと広がる何かの力──

【 闇よ 】

 一言。
 ただそれだけで部屋に光が満ちた。
 ──『それ』は黒い光だった。
 ──『それ』は複雑な紋様だった。
 光る黒というもの不思議なものだが、『それ』はそうとしか言いようのないものだった。
 基本となる色は黒。
 文字のようでもあり何かの図形のようでもある『黒』が、光ることによって複数の色を放っている。
 黒から、夜の闇を薄めたような深い蒼、濃度の淡い青、それはすぐに白くなり、一番外側となる部分では黄色に近い色になっている。
 あえて『それ』を細かく色分けするならそんな感じだ。
 『それ』はケニードの体を挟むようにして天地に展開する。その大きさは縦長のケニードがすっぽりと入ってしまうほどだった。
 レメクは最初の一言以外、何も言わない。何もしない。
 それなのに、展開した『それ』はあたかも生き物のように自ら形を変えはじめた。
 大きな円形の模様から、小さな円の集まりになり、ぐるりと回って全く別の模様になったかと思ったら、一瞬で最初の模様に戻り───
(……すごい……)
 その様子は、まるで模様がダンスを踊っているかのようだった。
 光る闇が手をとりあい、くるくると永遠のワルツを踊っている。繰り返し繰り返し、螺旋のように終わりのないダンスを。
「……  ……」
 アルトリートの口から、音のない空気が零れた。
 彼がジッと見ている先には、淡い光に包まれたケニードの肩がある。
 あたしも同じ場所を見て、大きく目を瞠った。
(戻ってる……!)
 もちろん服の上からの判断だし、さらに例の白い布が淡く光っているものだから、正味のところ、中がどうなっているのかは分からない。
 それでも、あの明らかに異常と分かるような形では無くなっていた。
(……ケニード!)
 あたしは、肩から転がらないようにと掴んでいたアルの髪の毛をギュッと握りしめた。涙が出そうだった。
(……すごい……! すごいすごいおじ様ッ!)
 何がどうなって、どういう風に治っていったのか──分からないけれど、目の前で奇跡が行われたのは確かだ。
 そして、ケニードの腕が治りつつあるということも!
「…………ッ」
 アルトリートがグッと全身の力を込める。
 ポテトさんの言うところの『なんでも本当のものが見えちゃう』彼の目には、あたしじゃわからないもっと詳しい何かが見えているのかもしれない。
 彼から感じるのは希望や熱のようなもので、さっきまでの冷たい落ち込みとは違っていた。
(アル……)
 けれど──
(……おじ様?)
 あたしはふと首を傾げる。
 レメクから感じられる気配が、最初からまるで変わっていかなった。
 安堵も、希望も……そこからは欠片も感じられない。
 ケニードは治っているように見えるのに──
 不安がじわじわと増してくるのを押さえ込み、あたしはジッとレメクの背中を見つめた。
 それと同時に、フッと周囲に展開していた光が消える。
「「!?」」
 一瞬で薄暗がりに戻った部屋に、あたしとアルトリートが息を呑んだ。
 シャッと音がして光が差し込み、そちらを見ると、いつのまに移動したのか、カーテンを開けたレメクが疲れた顔で立っていた。
「……怪我は、これで治っているはずです」
「!」
 あたしとアルトリートは無言の歓声をあげる。
 思わず同時にケニードを見て、ホッと安堵のため息をついた。
 けれど、
「折れていた骨も、寸断されていた筋肉も治しています。ですが……」
「「……『ですが』……?」」
 ふと言葉をきったレメクに、あたし達はそろって再度レメクを見る。

「「「…………」」」

 沈黙。

「「「…………」」」

 さらに沈黙。
 レメクは唖然とした顔だ。
 ナゼ?
 あたし達は二対一で熱く見つめ合う。
「……どういう格好ですか……それは」
 唖然とした顔のまま、レメクがそう呟くように問うてきた。
 ──って、ん?
 視線、あたし限定?
 呆然と唖然を足して二で割ったようなレメクの様子に、アルトリートもハタとあたしの存在に気づきやがった。
「って! ちみっちょ! おまえ、なんで俺の肩の上に立ってやがる!?」
「んにょあ!」
 のっぽさんの右肩に右足を。左肩には左足を。
 てんつくと乗せたままでいたあたしに、ブンブンと勢いよく頭を振りだすアルトリート。ぬぉおお!?
「お、ま、え、は! どーしてそう、王女様らしくないことばっっっかりすンだよ!?」
「のぁーっ」
「普通、肩に乗るっつったら肩車じゃねェのか!?」
「ぬぉーっ」
「つーか、いつのまに俺の上によじ登ってやがった!?」
「もぎょーっ」
 あたしを振り落とそうとするアルトリートと、頭にしがみついてガッツリ離れないあたし。
 レメクが額を押さえて嘆息をついた。
「ベル。こっちに来なさい」
 喜んで!!
 ビョンッと振り飛ばされる勢いのままにレメクに向かって飛ぶと、何故かギョッとした顔で避けられた。
 どゆこと!?
 そのままポーンッと空を飛ぶあたし。
 涙も空を流れます。
「ッ!」
 あわや即席寝台上のケニードにアタック! というところで、慌てたレメクがあたしを空中捕獲。
 ──ギリギリで。
「あなたは……!」
 そのまま同じ目線の位置に持ち上げられたので、窘める目のレメクに負けじと恨みを込めて目を光らせてやった。
(こっち来なさいって言ったのにっ)
 ぷらんぷらん。
(言ったのにっ! 言ったのにっ!)
 ぷらんぷらん。
「…………」
 ぷらんっ。
 ……何故だろう。
 レメクが非常に困った顔であたしを抱っこしてくれた。
 ぴすぴすぴす。
「……なぁ……この、肩の。治ってるんだよな? ───だよな? そこのバカップル」
 今、アルトリートがイイコトゆった!
『一つも良い事は言ってません』
 ……なんかわざわざ心の声を送ってくる人が一人。
「断裂した肉や血管、折れた骨が元通りになったかどうか、という問いでしたら『はい』と答えれます」
 前置きみたいな返答。
「しかし」
 キタ!
「私が出来たのはあくまでも治癒であって、それ以外の奇跡ではありません。怪我を負った、という現実を消したわけではないのです」
 レメクの声に、あたしは鼻をひくつかせながら首を傾げた。
 ぴす? ぴすぴす?
「肉体にも記憶というものがあります。負った怪我を『無かったこと』にできない以上、彼の体は覚えているわけです───自分が大怪我を負ったのだ、ということを」
 ぴすぴすぴす?
 サッパリだという意味で匂いを嗅いでいると、レメクはあたしをジッと見て言った。
「例えば、あなたがいつものようにアロック卿に飛びかかるとします」
 ……飛びかかるとは失礼な。
「すると、おそらく彼の体は、一瞬恐怖に強ばるでしょう」
 さらに失礼な!
「彼の意志ではありません。体が『覚えている』からです。『何か』に『強打されて』『大怪我を負った』という記憶を」
「…………」
「火傷を負った人が火を怖がるようなものです。……下手をすれば、頭上にある『物』に対して恐怖を覚えるようになるかもしれません」
 言われて、あたしは部屋の上を見上げた。
 綺麗なシャンデリアがキラキラと輝いている。
「……もしかして……アレも?」
 あたしの指さす物を見てから、レメクは憂鬱そうに目を伏せる。
「可能性はあります。……どんな風になるのかは分かりません。それに……一番考えたくないのは後遺症です」
 レメクの声に、ケニードの傍に立ったアルトリートがビクッとなった。
「怪我は治っています。けれどそれは、日常生活に支障をきたすことの無いレベルにおいて、です」
 ?
 それじゃイカンのだろうか?
「……つまり、技師なんつー特別繊細な指を持ってるヤツの、普通に過ごす分にゃ分からないけど、細かい作業レベルの違和感とかは、どうなるのか分からねェってことだな……?」
 あたしと違い、アルトリートは一足早く駄目な理由を理解したらしい。
 硬い声でそう問うのに、レメクはやはり疲れた顔で頷いた。
「そうです。……どなたか、実例をご存じですか?」
「存じるも何も……いっぱいいたからな、レンフォードの土地には」
 小さく唇を噛んで、アルトリートは何かを否定するように首を横に振った。
「怪我で指が動きにくくなったってぇのは……何度も聞いた。怪我は治ってるのに、指が動かねぇって……」
 ケニードの肩にかかっている布に───色が赤黒く変わっている───触れかけ、痛みを堪えるような顔で手を止める。
「あの土地じゃ、人を蹴落とすために……職人同士でつぶし合いすンのは珍しいことじゃねェからな。何人も見てきた……」
 けど、と呟いて、アルトリートは強く唇を噛んだ。
「けどよ……こいつは……違うだろ!? なんで俺の前で、あんなッ……! 俺……庇って……!」
 血の臭いを感じたのは、おそらく気のせいでは無いだろう。
 唇を噛み切るほど強く噛んだアルトリートは、悲痛な声を絞り出す。
「だいたい、どうして! あんなモンが落ちてくるんだよ!?」
 そう。それはあたしも知りたいことだった。
 あの時、ケニードがアルトリートを突き飛ばすまで、あたしはあんなものが落ちてきていたなんて気づかなかった。
 割れる前の姿はハッキリと見えなかったが、落ちてきたのはかなり大きな花瓶だったのだ。割れた破片もかなりの量散らばっていたし、なにより、中に入れられていただろうチューリップの量が凄かった。
 あの量から察するに、たぶん、あたしの体がすっぽり入っちゃうぐらい大きな花瓶に違いない。
 そんなものが普通、空から降ってくるはずがない。宿のおねーちゃんが窓際でチューリップを一本育ててるのとはわけが違うのだ。
 誰かが──それもおそらく複数の人間が──持ち上げ、移動させ、落とさない限りは。
「……私はそれよりも、あなたがこの部屋を出る理由となった、レンフォード家からの手紙のほうが気になりますが」
「手紙?」
 きょとんと聞き直したあたしに、レメクは頷く。
「えぇ。ベル、あなたとアロック卿が退室してから、すぐのことです。レンフォード家からの手紙が彼に届いたのは。その後すぐ、急用が出来たと外に出られ……」
 言葉を句切って、彼はアルトリートの方を見つめた。
「その後起きたのが、あの騒ぎです」
「……ッ!」
 アルトリートの顔が真っ青になった。
 言われた言葉の意味に、先程まで以上に打ちのめされた顔だ。
「……待てよ……なんだよソレ。つまり、なにか? あいつが呼び出したから、こんなことが起きた、ってのか?」
(……『あいつ』?)
 無意識に後退るアルトリートに、あたしは眉をひそめた。
 あいつって、誰だ?
「あいつがこんなことしたって言うのかよ!?」
「『あいつ』というのは、どなたのことです?」
「ッ!!」
 レメクの静かな声に、アルトリートは息をつめた。
 握りしめた拳がギチリと音をたてる。
 何かを堪えるようなその軋みに、あたしは二人の男を見比べた。
「私は、あなたがレンフォード家の手紙を見て出て行った、ということしか知りません。差出人の名前はあなたしか見ていないのです。誰があなたを呼び出した のかを知っているのは、あなただけでしょう。……その人物があなたがここにいることをどうして知っていたのかは……まぁ、うちの義父が関係しているようで すが」
 ……そーいや、お義父さまに連れられてあちこちぐるぐる回ってたんだったな……
 それじゃあ、辿って行けばこの部屋に着くってもんだろう。
「指定された場所に行ったら、死ぬかもしれない怪我を負いそうになった。……普通に考えて、偶然では無いでしょう」
「けどよ……!」
「理由が無いのでしょうか。それとも、信じたく無いというだけなのでしょうか。いずれにしても、向かった先であなたが危険な目にあったという事実は認めなくてはいけません。自分の身を守るためにも──周りの身を守るためにも」
「…………ッ」
 こういう時のレメクは容赦がない。
 押し黙ったアルトリートは、唇を噛みながらケニードを見た。
 痛みを堪えるようなその瞳に、あたしはレメクを見上げる。
 レメクもケニードを見ていた。その瞳には、深い陰りがある。
「……おじ様。ケニードはいつ起きるの?」
 あたしの問いに、レメクは小さく嘆息をつく。
「……一番強く強打されたのは肩ですが、大きさが大きさでしたからね……頭も強く打っています。少なくとも、すぐに目覚める、ということはないでしょう」
「「!?」」
 ギョッとなったあたしとアルトリートに、レメクは目をわずかに伏せた。
「脳は正常ですし、内部で血管が切れているようなこともありません。強打したであろう場所で少し血が溜まっていましたが、それも治しています。……ただ、目覚めてみないことには、詳しいことはわかりません」
 聞けば聞くほどひどい状態だったらしいケニードに、アルトリートの顔がますます蒼い。
 あたしも人のことは言えない顔色だったのだろう。レメクは慰めるようにあたしの頭を撫でてくれた。
「おじ様……」
 その服をギュッと掴んで、あたしは唇を噛む。
 言わなければいけないことがあった。
ケニードが怪我をした時から、ずっと嫌な感じに気になっていたことだ。
「……あの場所にね、クリンクリンさんが来てたの。気づいてた?」
「…………。それはもしかして、『クリストフ』と言いたいのですか?」
 そんな感じの名前でした。
「気づいてた?」
 細かいことは無視して重ねて問うと、レメクは深い眼差しで頷いた。
 あたしはその無言の答えにきゅっと唇を引き結ぶ。
 ……レメクは気づいていたのだ。
 気づいていて、無視したのだ。『彼』という存在を。
「……気になっているのは、それだけですか?」
 胸の中のモヤモヤが増しているあたしに、レメクの方から問いかけてくる。闇の紋章で繋がっているから、こちらのモヤモヤは筒抜けなのだろう。
「もう一個あるの」
 言うと、眼差しだけで促される。
「あたしね、アルが危ない時、全然それに気づけなかったの」
「……それは仕方のないことです」
「でもね、ケニードは何かに気づいたみたいなの。先にアルに向かって行ったあたしの後ろから、『やめろ!』って言って、アルに走っていったの。あたしを追い越して」
「……『やめろ』?」
 ふと眉をひそめたレメクに、あたしは頷く。
「うん。『やめろ!』って言ってた。……おじ様。ケニードは、あの大きいのが上から落ちてくる前の瞬間を見たんじゃないかな……?」
 レメクは眼差しを鋭くする。
 そうして、弾かれたようにあたし達を見ていたアルトリートに視線を向けた。
「あなたを呼び出した手紙を見せていただいてもかまいませんか?」
 アルトリートは一瞬顔を歪めたが、懐から一枚の封筒を取り出してくれた。
 赤い封蝋のついた綺麗な封筒だ。
「お借りします」
 受け取って、レメクはその封筒に書かれている文字を目で追う。
 その眉が一瞬、ピクリと動いた。
 あたしも一緒に覗き込んで、必死に文字を解読する。
 レメクの注視する場所、差出人のところにはこうあった。
 
 マルグレーテ・ジークリンデ・フリーダ・ファラ・レンフォード───と。
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