4 負う者
 教皇という職業を簡単に説明すると『神様の代理人』であるらしい。
 あたし達のいる大陸には沢山の国があり、その国ごとにいろんな神様がいるのだそうだ。
 もちろん、その神様ごとに宗教とやらがあり、その宗教ごとに頂点に立つボスのような人がいる。
 例えば、うちの国にいる教皇サマとか。
 で、宗教っていうのはその国の文化とか風習を学ぶのに大事だから、最初に覚えないといけないのだそうだ。
 あたしがレメク教わった『宗教』のは、五つ。
 西方のイスカル教。
 北方のノールス教。
 南方のアスマダルタ教。
 西中央のエラス教。
 東中央のトゥーラ教。
 他に有名なのは東の国のシンタオなのだが、あっちは宿のおねーちゃんやおにーちゃんから教わったりしてたのでわりとよく知っていた。
 あの国の『格言』はなかなかに優秀なのですよ。カエルノツラニションベンとか。あたしもよく使ってはレメクに眉をひそめられています!
 ……あれ? よくない言葉なのかな?
 まぁいいや。
 さてさて。我らがナスティア王国は、大陸の西中央の国。
 手で『コ』という形を作ったときに、上側にくる指の中央部あたりがうちの国なのである。
 この周辺の国は『エラス教』というやつを信仰していて、我が国の教皇様はそのトップ。
 すごいですよ!? 他国にも影響力があるのですよ!?
 なんでそんなことになっているのかというと、この宗教を信仰している国の人々はもともとうちの国と同じ部族だったからなのだそうだ。
 四百年前の降魔戦争の後、ナスティアを筆頭に固まってできたのがうちの国。
 でも、その時に別の場所に定住しちゃった人々もいて、彼等が作った国が周辺の小国なのである。
 もともと三十もの民族が集まって出来た集団で、それぞれに広大な土地をもっていたのだから、戦争後に分散しちゃっても不思議じゃない──らしい。
 そのあたりの細々したことも教わっていますが、もちろんとっくの昔に忘れてしまいました。
 ……なんか隣のフェリ姫がすごいジト目で見てるけど、まぁそれはともかく!
 そんな風に周りの国からも『へへ〜っ』と拝まれる教皇様がいるのだから、西区の大神殿たるや凄まじい大きさと豪華さだった。
 あたしが居るのは、その王都西区、大神殿前。
 馬車でコトコト揺られて着いた、ナスティア王国における『神様のお家』である。
 本当に神様が住んでるかどーかは知らないが、街の大人達はそう言ってたから、たぶんそうなのだろう。
 実際、間近で見た大神殿は神様が住んでても不思議じゃないぐらい荘厳華麗だった。
 ちなみに、荘厳とは「おお……っ!」となる感じで、華麗とは「おお〜っ」となる感じである。
 そんな素晴らしく美しい大神殿は、一般には公開されていない。
 西区のシンボルでもある大神殿と大聖堂は、揃って西区最西端の中央にあるのだが、大聖堂がちょっと手前に建てられていて、大神殿はその斜め後ろに建てられていた。
 人々に親しまれているのは大聖堂であり、その奥にある大神殿に足を向ける者はいない。
 なぜなら、大神殿は上流階級か上級神官しか入れない建物なのである。
 大神殿前には大きな鉄格子の門があり、剣を下げ槍を手にした門兵がそこを固めている。
 門兵が羽織っている外套(マント)は青。青いマントを羽織れるのは、兵士の中でも百人以上の部下をもつ隊長さんである。
 こういう人に近づこうものなら、昔はそれこそ怒鳴り散らされたもんだった。
 それが今や直立不動で敬礼しているのだから、身分ってやつは凄まじい。
 あたしの中身は、全然変わってないのだが。
 なんとも言えない気持ちで立つあたしの前には、ドンとデカイ扉が聳えている。
 金縁、黒檀、神々のレリーフ。
 妙にわかりやすい『神様がここにいるぞ』的な扉である。
 その印象を強くしているのは、扉両横の柱にビッシリと刻まれた『祈りを捧げる聖人聖女』の彫刻達だろう。
 左右に見えるそれらのおかげで、正直、荘厳だの華美だの言う前に気持ち悪かった。
 ちょっとだけ想像してほしい。
 自分より大きな『人間そっくりの石像』が、天井から床まで、柱の形に左右ビッシリとお祈りポーズで並んでいるところを。
 なんというか、今にも彫像が動いてこちらをギロリと見つめてきそうだ。
「こちらが有名なエッケハルト・ゲルトナーの作、『祈り集う人々』ですわ」
 扉の左右に展開する、綺麗すぎて不気味な一群を紹介するフェリ姫。
 あたしはなるべく彫像達を直視しないようにしながら、フェリ姫の掌の動きにあわせて、目線を送るフリをした。
「大神殿の中は王城とはまた違った芸術品の宝庫です。神々が宿っていると称えられた素晴らしい彫像が、いくつも収められているのですよ」
「そ、そうなのですか」
 誇らしげに言うフェリ姫に、あたしは嫌な汗をかきながら相槌を打った。
 人間が石に変えられちゃったように見える彫像は、綺麗とか凄いとか言う前に恐ろしい。できればそんなモノはあまり見たくないのだが。
「大神殿にはめったに来られませんから、よく見ておくといいですわ。猊下がいらっしゃるのはこの神殿の奥にある『神々の間』を挟んだアルティア神殿。その道中には、それはもう他では見られない数々の彫像が」
「お義姉さま、神殿はいくつもあるのですか?」
 案内を待たずに神殿へと乗り込み、嬉々として語るフェリ姫の言葉を遮って、あたしは首を傾げた。可哀想に、案内人だろう神官さんが、慌てたようにあたし達の後をついてきている。
「ここが大神殿では無いのですか?」
「ここも大神殿ですわよ?」
「???」
 いっそう首を傾げるあたしに、あぁ、とフェリ姫は笑った。
「西区の『大神殿』は、五つの神殿から成っているのです。その全てを指して『クレマリス大神殿』と呼ぶのです」
「なんと!?」
「最奥にあるのが、『神々の王』レゼウスの神殿、その右に猊下のいらっしゃる『戦と勝利の女神』アルティアの神殿、左が『婚姻と出産の女神』ヘラテュイアの神殿。この三神殿が、大神殿区の玄関である今居る神殿『光と太陽の神』アルバストロの神殿の対にあるのです」
「それだと、全部で四つなのですよ?」
「最後の一つは神殿の間にある『神々の間』。別名を『屋根のない神殿』とも呼ばれる場所ですわ。これは実際にご覧になったほうが早いでしょうね。口では上手く説明できませんの」
 ふふふと笑うフェリ姫は、目をキラキラさせながら足を進めて行く。
「それに、この神殿に来たならばぜひ見ておかなくてはならない神像がありますの! 猊下にお会いする間に少しだけそちらに向かいましょう!」
 そう言って彼女があたしを引っ張って行ったのは、大きな扉を三つほどくぐった先、巨大な白大理石の台座がある部屋だった。
 いや、部屋というより通路だろうか?
 奥に続く大きな通路のど真ん中に、巨大な台座がある。
「ご覧なさい、ベル。あれがゲルトナーの最高傑作『太陽と光の神』アルバストロですわ」
 言われて見上げれば、やたらと高い所に裸のにーちゃんが立っていた。
 イイ筋肉のおにーちゃんなのだが、いかんせん土台の高さとあたしの身長の低さとで、顔のほうはサッパリ見えなかった。
 よく見えるのはムキッとした太腿とかお尻とかそのあたりだ。
「神々の中で最も美男と言われるアルバストロ神は、その身そのものが芸術だということであのとおりのお姿なのですわ! 素晴らしいでしょう!?」
 嬉しそうに言うフェリ姫には悪いが、やっぱり見えるのは足とか腰の部分だけだ。
 あたしはしょんぼりと周りの人を見渡した。
「あたしの身長では、お顔は見えないのです」
「まぁ! それはいけませんわ。ぜひお顔を見ておかなくては! とはいえ、そうですわね、この位置では見えにくいでしょうから、後ろに下がって、えぇと、そこのあなた、ベルを持ち上げていただけないかしら?」
「は、はいっ」
 ズンズン進むフェリ姫とあたし達に追従してきた神官さんが、突然の指名に慌てて返事をする。
 けれど、あたしは石像の前で微動だにせず頭上を見上げていた。
「お義姉さま。あたしはそれよりも、すごく気になるのですよ」
「まぁ? なにかしら?」
 あたしはあたしに見える範囲のものをじっくりと見上げ、自分の体を見下ろし、もう一度彫像を見上げて首を傾げた。
「神様の足には、見慣れないものがついているのです」
 その瞬間、
 なぜかフェリ姫が硬直した。
 ……おや?
「お義姉さま?」
 フェリ姫は彫像を見上げた姿のまま、カチンコチンに固まってしまっていた。
 見渡せば、あたしの声が聞こえたらしい辺り一面がギクシャクと強ばっている。
 なぜだろう? とりあえず、手近にいた神官さんに声をかけてみよう。
「あの神様についてるものは、なんなのですか?」
「え、ええ!? あのっ」
「あれが神様の武器なのですか?」
「ち、え、いえっ、ちがっ」
 えらい勢いで首を横に振られてしまった。
 神様というのは、ものすごい威力の武器を身につけているらしいのだが、あの裸のにーちゃんは剣も槍も持っていない。なら、神様の体についてるアレが武器に違いないのだが、どうやらそれも違うとか。
「違うのですか?」
「ち、違いますっ」
「あたしには無いのですよ?」
「そ、それは、無いです、わねっ」
 隣のフェリ姫は真っ赤な顔でギクシャクと頷いた。なんだか錆びた時計の針のような動きだ。
「神様の印なのですか?」
「いえっ、それも、ち、ちがいましてよ!? というか、もう見るのはおよしなさいっ!」
「お義姉さまがご覧なさいと言ったのです」
「いいえっ! あなたには早すぎました! 見てはいけませんっ!」
「じゃあ、あの神様についてるものは」
「考えてもいけませんっ!」
 何故だろう。フェリ姫は首まで真っ赤っかだ。
 やたらと興奮しているお義姉さまに、あたしはため息をついた。
 神様の下半身はそんなに秘密がイッパイなんだろうか?
 今度レメクに尋ねてみよう。きっと即座に答えをくれるに違いない。
「……ううっ!」
 なにやら隣で心を読み取ったらしフェリ姫が壮絶な声をあげたが、その意味は不明である。


 半ば無理やりにアルバストロ神殿を駆け抜けさせられ、出た先が『神々の間』と呼ばれる大きな庭園だった。
「うわぁ……!」
 目の前に広がった大きな空間に、あたしは歓声をあげる。
 晴れ渡った空の下、地面には短い丈の芝がびっしりと生え、白い円柱や石像がズラリと並んで陽光に煌めいてた。
 やや離れて作られた大きな神殿は三つ、あれがフェリ姫の言っていたレやらヘやらで始まる三神の大神殿なのだろう。神殿の近くには大きな木があり、枝振りから察するにオレンジの木らしかった。
 どうやらうちの国は、城下町のみならず神殿の中にも果樹が植わっているようである。
 その大きな三神殿と、今居る神殿の間も『大神殿』と呼ばれているらしいのだが、見たところ屋根や壁といったものは見あたらなかった。
 野原に柱と石像だけが等間隔に並んで建っている。ちょっと不思議な光景である。
「お義姉さま! 大きい石像がいっぱいなのですよ!」
「え、えぇ、そう、ですわね」
 広々とした空間は、それだけで気持ちをスカッとさせてくれる。
 思わず大きく深呼吸したあたしの横で、フェリ姫はぜひゅぜひゅ呼吸を整えていた。
「お義姉さま、運動が苦手なのですね」
 あのちょっぴりの距離で、そこまで息切れがするとは……
「わ、わたくしのような者は、そんなに走り回ったりしないものなのですわ!」
「でも、ダンスもすごく体力いるのですよ? お義姉さま、大丈夫なのです?」
「ダンスはダンスですわ! 力の抜きどころがあって……と、ベル、あなた、もうダンスのレッスンを受けていますの?」
「まだなのです。転ばずに歩けるようになったのが最近なのですよ」
 ええ。今でもまともに歩けているかどうか不安ですよ。急ぐと速攻でスッ転ぶし。
「けれど、踊ったことがあるような口ぶりではありませんでした?」
「それはポテトさんの魔法のおかげなのです! おじ様とクルクル踊ったのですよ!」
 夢のような一時を思い出して、あたしはポワワンとつい数日前の出来事を思い浮かべた。大きくなったあたしと、レメクのダンス。あぁ……! あと何年待てばもう一度……!
「ロードの魔法で……大きく!? それは、すごく見てみたいですわね」
「すごかったのですよ! おじ様の顔がすごく近かったのです! 飛びついたら足じゃなくて首に抱きつけちゃうのですよ!」
「まぁっ!」
「でも胸はぺったんこのままだったのです……」
 ショボンと最大の欠点を述べると、フェリ姫もしょんぼりと肩を落として頭を撫でてくれた。
「あきらめてはいけませんわよ、ベル」
「あい、お義姉しゃま……」
「『婚姻と出産の女神』ヘラテュイアなら、きっとお願いもきいてくれるはずですわ。後で祈願いたしましょう」
「あい……。でも、祈る相手は愛とか美の女神では無いのですか?」
「『愛と美の女神』アウロディアよりヘラテュイアのほうが胸が大きいのですもの」
「なるほど!」
 おおいに納得して、あたしは神殿の方へと足を踏み出した。
 けれど、それはわずか数歩で止まることになる。
 大理石の階段を下り庭園の石畳を踏んだ瞬間、サワッと空気が全身を撫でるのを感じたのだ。
(なに?)
 思わず止まった足に、フェリ姫が振り返る。
 あたしはそれに気づかず、体が浮き上がるような感覚に呆然とした。
(匂いが)
 違う。
 空気がずっと全身を包んでいるような、不思議な感覚。
 水の中のそれに似た、まとわりつく何か。
 何もないのに、何かある。
 木々の姿は見えないのに、なぜか感じる濃厚な緑の匂い。
 それでいてムッとするような臭気はなく、どこか清々しくて、心地よい。
(なんだろう、これ……)
 初めての感覚なのに、どこか懐かしい感じがする。
 少しだけ首を傾げ、ややあってその懐かしさに思い至って目を丸くした。
 レメクの家だ。
 古く立派な木々に囲われたクラウドール邸。街の一角とは思えないほどの深い緑。
 この空気は、あの家の空気に似ている。
「ナスティアの聖地」
 呟いたフェリ姫に、あたしは視線を向けた。
「魔物の軍勢に立ち向かう前、全ての部族を集めてナスティアが演説したのが、この場所だとされています。だから、ここは全ての始まりの土地。あらゆる部族 がここで己の神々に祈ったのだそうですわ。その神々の似姿を建てたのがこの場所。この場所に立つ神々が、当時の人々が信仰していた神」
 見渡せば、広い空間に並ぶ沢山の神像。
 丁寧に彫られた人々の『祈り』。
「だから、ここを人々は『神々の間』と呼ぶのです。これほどの数の神像が並ぶ場所は他にはありませんの。そのせいなのか、それとも何かしらの魔術が施されているのか、この場所にはどんな嵐の時でも雨粒一つ落ちないのだそうですわ」
「雨が?」
 あたしはキョトンと空を見上げた。
 あたし達の頭上には晴れ渡った空が広がっている。遮るもの一つない空間は、雨を防ぎそうに無いのだが。
「不思議でしょう? 実際にその神秘を見ることができるのは、ごく限られた人間だけですけれど……特別な場所なのだということは人々に知れ渡っています」
《もっとも、そのせいで神殿の神聖性に拍車がかかって、一部の神官の増長を招いたりするわけですけれど》
 こっそりと心の声を送ってくるフェリ姫に、あたしは周囲を見渡してため息をついた。
 全身から伝わってくる不思議な感覚は、確かにここを『特別な場所』だと思わせるに十分だった。
 けれど、そういったものが自分の何かを偉くしたり凄くしたりするわけじゃない。
 凄いのは場所であって、そこに住む人やそこに行き来できる人では無いのだ。
 けれど、一部の神官にとっては違うらしい。
《人は錯覚を起こしやすい生き物なのだと、陛下はおっしゃっていましたわ。特別な場所に住んでいる者は特別なのだと、そう思い誤る者が多すぎる、と。…… だから、ワタクシは養女に迎えられた時、決して認識を誤らない女になれと言われました。己は『己』という身と心だけで成る者である、と。その者の評価は他 者がつけるものであって、自ら言うようなものではない、と。自分の持つモノや自分が得たモノで自らを飾ったところで、そんなものはただの『飾り』でしかな い。己の価値にはなりはしない。それを決して誤るな、と》
 フェリ姫の心の声を受け取って、あたしは並ぶ神像を見つめた。
 そこにあるはずのない、一人の姿が目の前に浮かんでいる気がする。
 並ぶ神々の像よりも美しい一人の姿が。
《名を負うということは、名に連なる全てを負うということ。その覚悟の無い者は、決して名を負うことはできない。自らの意志で『負う』ことを決めたのなら、命が尽きるまでその名を負い続ける責務をも負わなくてはならない。それが、名を負うということ》
 名を負う、ということ。
《ワタクシの名はフェリシエーヌ。フェリシエーヌ・エアハルト・リーシェ・アルヴァストゥアル。陛下の盟友(とも)にして義娘。その名を負う者ですわ》
 その名乗りに、ドクンと体の奥で大きな音がした。

(……名前……)

 記憶がふとその蓋を軽く開く。
 誠実な眼差し。神秘的な夜明け色の瞳。薄い唇が告げる名前。

 ───チガウ───

 パチンと、何かが頭の中で弾けた気がした。
 一瞬だけ真っ白になる光景。

 違う。
 違っていた。
 名前が違っていた。でも、なんで?

 足下の感覚がふいに消える。
 目の前にある光景が白くなる。
 見えているのは一人の姿だけだ。
 先程まで幻のように見えていた美しい黄金の女性ではない。
 あたしの大切な、誰よりも大切な人。
 レメク。レメク───

 レ  
         ン
    ド
               リ
                               ア

          レ
                             メ

               ク

    ア
                     ル

          ス
                         タ

「ベル!」
 ふいに強く体を引き起こされて、あたしはギョッと体を強ばらせた。
 目の前に驚いた顔のフェリ姫がいる。
 倒れ込むようにしてその腕に抱かれているあたしは、パチパチと瞬きをしてフェリ姫を見上げた。
「……おねぇ、さま?」
「驚かせないでくださいませ! いきなり……」
 いきなり?
「いきなり浮いて……」
「浮いて?」
 不思議なことを言うフェリ姫に、あたしは首を傾げた。
 唐突にジャンプでもしたのだろうか? あたしは。
「な、なんでもありませんわ。それより、早く猊下の所に参りましょう!」
 半ば抱えるようにして、フェリ姫があたしを連れて走り出す。
 あんまり体力ないのに、また走ったりして大丈夫なんだろうか?
 心配になって、一緒に来てくれているはずの神官さんを振り返ると、彼は愕然とした顔であたしを見ていた。見てしまった何かはそれほど強烈なモノだったのか、棒立ちになってしまっている。
(あ、あたし、よっぽど変なジャンプとかしたんだろうか?)
 やばい。
 一応、王女さまっぽく振る舞わなくてはいけないというのに!
 いや、だいぶ手遅れなような気もするけれどッ!
(はわわわわ)
 このままいけば、レメクやアウグスタにまで迷惑をかけるだろう。こうなったら教皇様の前でだけはシャキンッと変身しなくては!
 頭を振って気持ちを切り替えたあたしは、一生懸命走るフェリ姫の横顔を見て(そういえば)と首を傾げる。
(……なんか、レメクの声が聞こえた気がしたんだけどな……?)
 それは、何かとても大切な言葉だった気がする。
 けれどそれが何だったのかは、今のあたしにはわからなかった。


 女神アルティアの神殿は、先程まで居た『神々の間』とも、アルバストロの神殿とも違う造りになっていた。
 形としては、巨大な円柱に支えられた神殿、ということで『神々の間』に近い。
 アルバストロの神殿のように高い尖塔を持つお城のような造りではなく、大きな箱のような神殿だ。
 そしてその内部も、アルバストロの神殿とは違っていた。
 先の神殿が彫刻と彫像の神殿だったのなら、こちらは壁画と彫刻の神殿だ。
 その彫刻も、アルバストロ神殿の『神様の姿』を模したものとは違い、木々や花々の彫刻である。
 それ以上に印象的だったのは、その床だろうか。
 色とりどりの石で造られた床は、大きな一枚の絵になっていた。黄金の林檎を差し出す美しい女神。その右手に握られているのは剣であり、金色の髪には宝冠でも髪飾りでもなく、黄金の兜を被っている。
「女神アルティア?」
「ええ。黄金の戦女神、戦勝の光明、輝ける剣、の称え御名で知られる戦神です」
 ……そんな名前は初めて知りました。
「非常に美しい女神で、黄金の髪と黄金の瞳を持っているのだとされています。けれどワタクシ、初めて陛下とお会いした時、きっとこの方こそ女神アルティアに違いないと思ったのですわ。瞳の色は違うのですけれど」
 言われて、あたしは最初にアウグスタに会った時のことを思い出した。
 ……金色の魔女だと思ったもんです。もしくは女王様。
「ある意味そちらのほうが凄いですわよ? ベル。真なる魔女は、神々すらも滅ぼす力を持っているのだそうですから。ほら、ずっと昔、それこそ神々の時代には、神をも恐れさせた『原初の魔女』がいたと伝えられていますでしょ?」
「そうなのです? 初耳なのですが」
「あら、そこは習っていませんのね。最初にこの大陸を統一したとされる魔女は、原初の魔女最後の生き残りだそうですわよ?」
 ですわよ? と言われても、そんな大昔の話などサッパリわからない。
 何千年どころか万とかいう単位の昔話じゃなかろーか。
「いくらなんでもそんな大昔では無い……と思いますけれど。とはいえ、ワタクシもそう詳しいことは存じませんの。大昔の神話や、大陸の歴史書にはたびたびお名前が出てまいりますから、なんとなく覚えてしまったぐらいで。こういうのはアディ姉様がとても詳しいのですけれど」
 本の虫とか言われるお姫様なら、そういうのもよく知っているのだろう。
 もし会えたら聞いてみようかな。
 ──ハッ!
「そうだ! さっきの彫像のことも赤毛のお姫様なら───」
「それは尋ねてはいけませんッ!」
 ナゼでしょう。
 速攻で止められました。
「それよりも、猊下にお会いしなくてはいけませんのよっ。さっ、早く参りましょう!」
 ねっ! と言われてあたしは唇を尖らせながら頷く。
 なんというか、フェリ姫はさっきから、あたしの疑問をはぐらかしてばっかりなのである。やはりこうなったら最後の手段はレメクだ。
「くっ閣下ごめんなさいませわざとではありませんのよワタクシのせいなのかしらいえ違うと思ってくださいませ」
 なにやらフェリ姫が小声でブツブツ言っている。
 どうも誰かに対して謝っているようなのだが、フェリ姫の言う閣下って誰のことだろうか?
 小さく頭を抱えて小走りに駆けるフェリ姫に、あたしは首を傾げながらチョコチョコ走った。急ぎすぎると絶対に転ぶので、足運びにけっこう必死だ。
 ……それにしても、この神殿、他の神殿に比べてえらく人が少ないな……
 あたしは足下に注意しながら周囲を見渡した。
 美しい薔薇や百合の装飾を施された壁や柱、王宮もかくやという素晴らしい壁画。
 けれど王宮と違って衛兵達がおらず、さっきまでいた神殿のように神官の行き来もここには無い。
 ガランとした美しい箱の中にあたしとフェリ姫の足音だけが響き、それはひどく寂しいことのように思えた。
 神殿というのは、神様のいる場所だと昔聞かされた。
 神様は寂しくないのだろうか?
 こんなに静かで、人のいない場所。
 あたしは人気のない通路と、開け放たれたままの部屋を通りがけに眺め、ふと、その中の一つを前に足を止めた。
 小さな部屋だった。
 すぐ隣は大きな部屋らしく、次の扉はずっと向こうにあった。
 もしかすると、王城の大広間と控えの間のような関係なのかもしれない。
 その部屋の中に、人がいたのだ。
 あたしはずっと向こうを走っているフェリ姫を呼び止めかけ、すぐに口を閉ざす。
 そうして、部屋の方へと足を向けた。
 どうしてかは分からない。
 けれど、この前を黙って通過してはいけない気がした。
 部屋の中にいるのは、こちらに背を向けた白い髪のノッポさん。深い黄色のマントを羽織ったその人を見ながら、あたしはひっそりと足音を殺して部屋の中へと踏み入れた。
 そうして息を呑む。
 部屋の中には一枚の大きな絵が掲げられていた。
 黄金色の髪に、青みがかった紫の瞳。
 気高く美しいその顔は、あたしのよく知る女王にそっくりだった。


 アウグスタ。
 そう呼ぶ相手の名前が、アリステラということを知ったのは、王宮に足を踏み入れてからだった。
 綺麗でかっこよくてちょっと変な女王様は、なぜかあたしを気に入っていろいろと手を貸してくれている。
 その理由の最たるものはレメクらしいのだが、あたしには彼女がなぜそこまでしてレメクを気にするのかは分からない。
 きっと彼女には彼女の立場や理由があるのだろう、と。その程度にしか考えていない。
 そう言えば、義理の娘になっちゃった今ですら、あたしはアウグスタのことをほとんど知らないのである。
 そんなことを思いながら眺めた絵は、ひどく美しく、そして同時に、ひどく恐ろしかった。
(……違う)
 あたしは、心の中でポツリと呟く。
(『この人』はアウグスタじゃない……)
 顔立ちだけならそっくりだ。目も髪も、鼻や唇の形もそっくりだ。
 けれど違う。明らかに違う。
 一瞬でもアウグスタだと思ったのが不思議なほどだった。
 その違いは、彼女を包む気配だ。
 その瞳の中にある意志の光だ。
 アウグスタの持つ圧倒的な強さと力と潔さが、この絵からは全く感じられない。
 絵だから、と言えばそれまでなのかもしれないが、少なくとも、あたしにはこの絵がアウグスタを描いたものだとは思えなかった。
 だってアウグスタなら、こんな他人を見下したような目をするはずが無いのである。
 ため息をついて、視線を絵から部屋へと移す。
 本当に小さな部屋だった。
 装飾過多な神殿の中にあって、その内装は驚くほど質素だ。
 円形に近い小部屋の中は全て木で造られている。
 所々に施された金と、彫り込まれた彫刻、寄せ木細工の美しい紋様。装飾といえばそれぐらいで、他の場所と比べると貧相と言えそうなほど。
 天井はまるくカーブを描き、そこも見事な寄せ木細工。自然の色を上手く組み合わたそれは、目に優しくも美しい。
 あたしはぐるりと見渡してから、絵の前に立つ人に視線を移した。
 背の高いおじいちゃんだった。
 白く長い髪に、長い髭。
 ゆったりとした黄色のマントには金の刺繍がいっぱいで、なんだかひどく重そうだった。
 中に着ている服はマントのせいでほとんど見えない。だが、きっと立派で豪華なやつだろう。
 右手には金の杖が握られていて、それ一つ売れば軽く一年は遊んで暮らせそうな感じだった。
 全部ひっぺがして売り飛ばしたら、いったい何年遊んで暮らせるだろうか?
(シーゼルの時も思ったけど、王宮とか神殿とかって、お金の塊みたいな人がいっぱいなんだな……)
 こんな人が下街を歩いたら大変である。
 きっと五歩も進まないうちに真っ裸にされちゃうことだろう。
 指輪の一個ぐらいなら、あたしでもおこぼれもらえるかな?
 なんとなくそんなことを考えながら、あたしはおじいちゃんの横に立ってみた。
「…………」
 おじいちゃんは絵を見上げたままだ。
 それを見上げ、あたしは首を傾げる。
 横から前へ回り込み、真正面にテンと立ってみた。
 肖像画に集中しているおじいちゃまには、あたしの姿は見えないらしい。
 あたしはジーッと下からおじいちゃまを見上げた。
 綺麗な顔の人だった。
 深い皺におじいちゃんらしさを感じるが、彫りの深い顔はすごく整っていて、きっと若かりし頃はとんでもない美形だったのだろうと思わせた。
 どうやら王宮や神殿の奥には、こういう年とった美形がゴロゴロいるようだ。
「……んむ?」
 そんなあたしの熱視線に気付いたらしく、おじいちゃまがひょいと俯いてこちらを見た。
 その瞳の色にあたしは目をまん丸にする。
 紫だ。
 それも、青みがかった紫ではない。レメクほど赤みがかってはないが、青くもない紫である。
「……誰だ」
「ベルです!」
 その瞳に魅入ったまま、あたしは咄嗟にハイッと手を挙げて答えていた。
 なぜかおじいちゃんが沈黙する。
「………………新しい王女か」
「そうなのです!」
 あたしはおじいちゃんの目を見つめたまま肯定する。
 あたしはこれまでの生活で、紫という色が一般的な色じゃないことを学んでいた。
 例えば、紫紺の瞳は今のところ王族の血を引いている人しか持っていなかった。
 じゃあ、紫色はどうなのか。
 このおじいちゃんの紫の瞳や、レメクの赤紫色は?
 あたしはキラキラと目を輝かせておじいちゃんを見上げた。
「……なぜ、ここに居る?」
「神殿に誰もいなかったのです。そしたらおじいちゃまの後ろ姿が見えたのですよ」
「……おじいちゃまは、よすがよい」
 小さく呟いて、おじいちゃんは嘆息をついた。
「案内は、いなかったのか」
「居たのですが、神々の間に置いて来ちゃったのですよ」
「それでは、案内の意味が無かろう。仕方のない……」
 もう一度嘆息をついて、おじいちゃんはあたしを見る。
 その瞳はひどく深い色を宿していた。
「……こうして、もう一度メリディスの娘を見るとはな……」
「ベルなのです。メリディスの娘では無いのです」
「…………」
 おじいちゃんは答えない。
 ただ、なぜか苦笑めいたものを口の端に浮かべた。
「……なるほど」
 ……なるほど?
「ベル、か。そうか……違うか。そうだな。同じであるはずがない……」
「???」
 おじいちゃんは呟きと同時にため息をつき、そのまま絵を振り仰ぐ。
 同じようにして絵を振り仰ぎ、あたしはおじいちゃんのマントをきゅっと握った。
 すると、何故か驚いたような顔で見下ろされる。
「?」
「……いや」
 首を傾げてみせると、おじいちゃんは戸惑ったような目であたしを見つめ、あたしの手を見てから、もう一度壁にかかる大きな絵を振り仰いだ。
「娘」
「ベルなのです」
「……いいから、娘。この絵の女のどう見る?」
「怖そうな女王様なのです」
 忌憚無く言うと、ぶくっ、と変な音をたてられた。
「怖そう、か」
「怖そうなのです。アウグスタのほうがカッコイイのです」
「……アウグスタ、はよすがよい。それは、あの娘を揶揄する言葉だ」
 おじいちゃんはちょっと眉を顰めて言う。
 あたしは首を傾げて言った。
「アウグスタがそう呼べと言ったのです。それに、アウグスタなら今にきっと、誰もにそう呼ばれる凄い人になるのですよ」
「……どういう意味かな?」
「だって、アウグスタは強くて大きくて格好よいのです。あのお城は綺麗でおっきいけど、アウグスタの前には霞むのです」
 そう、春の大祭の初日、舞踏会場であの二人を見た時に思ったのだ。
 なんて美しいのだろうか。なんて強いのだろうか。
 圧倒的な存在感と美しさで、全ての人の視線を攫っていった二人。寄り添う光と闇の化身。
 あの場には沢山の人がいて、そんな人達を収容できる城は確かに大きくて───
 けれど、足りないと思ったのだ。
 足りない。まだ足りない。もっと多く集められるはずだ。もっと多くの人が集うはずだ。
 倍でも足りない。さらに倍でもまだ少ない。
 初めて見る素晴らしく美しい光景のはずなのに、なぜかいつかどこかで見たことがあるような気がして、だからこそ妙に「少ない」というヘンテコな感想を感じずにはいられなかった。
 もっと沢山の人に囲われた二人を見たことがある気がするのだ。
 もちろんそんなのは錯覚だと思うのだが。
「ポテトさんだって傍にいるのです。もっとこう、それこそ見渡す限りの全部使うぐらい、ババーンッと大きくて強そうなお城のほうが相応しいのです」
「……恐ろしいことを言うな」
 口の端に苦笑をくっつけて、おじいちゃんはあたしを見下ろした。
 両手をイッパイイッパイ広げて言ったあたしは、その言葉に首を傾げる。
 何か怖いコトを言っただろうか?
「すると、娘」
「ベルなのです」
「おまえはあの娘に、世界を手にしろとでも言うつもりか? 見渡す限りの全ての土地を。あの娘はそれを望んではいないが」
「アウグスタが欲しいものは、アウグスタにしか分からないのです。それに、ポテトさんが言っていたのです。世界を欲するような者は世界の制することはできないと。得ようと思って得られるもんじゃないって言うなら、得ようと思ってないアウグスタの方が得られるのですよ」
「……おかしな理屈だな、それは。得ようと思わずして得られるものでもなかろう」
「それでも得ちゃったら、それはもう運命ってやつなのです」
「……運命か」
 口の端を歪めて、おじいちゃんは眦を下げた。
「運命か……そういうことか……そうであるのなら、嗚呼……納得するしか、あるまいな」
「?」
 小さくそう零して絵を見上げるおじいちゃんは、ひどく遠い目をしていた。
 それは、いつか見たアウグスタの目に似た色の瞳だった。
 その瞳自体がもつ色ではなく、そこに宿る感情の色。
 どこか悲しい、思い出を振り返るような───
「誰もを巻き込み、翻弄するものが運命という名の化け物だ。ならばせめて、名を負う覚悟のある者に、儂は道を指し示すとしよう」
「運命は化け物なのですか」
「そうであろう。人であれ何であれ、それの前にあっては塵芥と同じよ。道理も何もなく、人の意志や心など無視して、全てを力ずくで押し切ってしまうのが運命というものだ。あれほどおぞましく、無慈悲で恐ろしい力はあるまい」
「…………」
 どこか乾いたおじいちゃんの声に、あたしは寒々とした冬のことを思いだした。
 お母さんが目覚めなかった朝のことを。
 あたしが街角で死にかけた雨の日のことを。
「……でも、運命を切り開く人もいるのです」
 例えば、あたしを助けてくれたレメクのように。
「切り開く時、運命は大きな代償をその者に課すだろう。何の対価も無く運命を変えられるものなどいない。人の世の理に反した者ですら、それはできぬものだと言っていた。それができるなどというのは、ただの夢幻にしかすぎぬ」
「じゃあ、何かを引き替えにして、別の運命を望むことはできるのですか?」
「…………できるであろうな」
 ポツリと呟いて、おじいちゃんはあたしを見下ろした。
「おまえが今ここにいるのも、あの『人ならざる者』がこの地に戻ったのも、おそらくそういった力の成したものであろう。……娘よ」
「ベルなのです」
「おまえは何を望む。この地で」
 ……このおじーちゃんも、人の名前を覚えない人だな……
「おじ様と一緒にいられることを望むのです」
「………………なんと?」
 怪訝そうな顔になったおじいちゃんに、あたしは胸を張ってみせた。
「おじ様と一緒にいられれば、それでいいのです。おじ様しか望まないのです」
「……アレか。あの………………なにかそのへんでいつのまにか死んでそうなあやつのことか」
 ……なんか誰かさんと同じこと言ってるよ……
「昔のおじ様のことは知らないのです。今のおじ様は、目を離すと何か無茶をしそうで危ないけど、そのへんでいつのまにか倒れてそうな気は……するようなしないような……」
「微妙な答えだな……。しかし、相変わらずの無気力者、というわけでは無いのか」
 なにか呆然とした顔で呟いて、おじーちゃんは嘆息をついた。
「……知らぬ間に、いろいろと動いていたのか。あの者達が来たように、この国はまた大きく動くというのか……」
 なにかぼやいているが、言葉の意味はサッパリだ。
「娘よ」
「……だから、ベルなのです」
「おまえのことは、アリステラから聞いておる。……孤児であったな」
 いきなり話がこっちに来た。
「そうなのです」
「……恨んでいるか?」
「『何を』ですか?」
 首を傾げて問い返すと、細い目が大きく見開かれた。
 あたしはもう一度首を傾げる。
「おじ様も同じ事をあたしに尋ねたのです」
 そう、レメクも前にあたしにそれを尋ねてきた。
 最低最悪な孤児院を粛正した後のこと───
 建物は古く、環境も劣悪ではあったが、歴史だけはあった孤児院をあっさりと潰し、彼はそこに新しい孤児院と、あたしの仲間達のお墓を作ってくれた。
 教会を兼ねているそこで、生き残った仲間達は今、のびのびと暮らしている。
 丸太で作られた一風変わった孤児院は、明るいうえに暖かく、木のいい香りがした。
 庭の一角に作られたお墓の前には祭壇があり、事件のあらましと一緒に『二度と同じ過ちを繰り返さぬように』という文字が刻まれている。
 祭壇には花の苗がいっぱい植えられていて、今頃綺麗な花を咲かせているだろう。
 ……見せてあげたかった。
 あたしの大切な仲間。友達。
 ああ、プリム達に見せてあげたかった。
 泣くあたし達を抱きしめ、慰めてくれたレメクは、その日の夜、ポツリとため息を零すようにしてあたしに問うたのだ。
 国を恨みますか、と。
「恨んで友達が戻ってくるなら、あたし、いくらだって恨むのです。考えるたびに、悔しくて、お腹の中がグラグラして、頭がカッカするのです」
 でも、一番恨んでいた相手はもう処罰されている。
 なら、それ以外に……誰を、何を恨めばいいのか、わからない。
「……エットーレ達と一緒にお金を奪ってたっていう、悪い人達は全員許せない。みんなの命を返してって言いたい。あいつらを放置してた人達にも言いたい」
 ……でも。
「でも、アウグスタは、頑張ってたの。いっぱいいっぱい、頑張ってたの。エットーレ達のことはすごく恨んでる。でも、あの人もこの人もって、どんどんその先にいる人を挙げていったら、最後には王様のところまでいっちゃうの。アウグスタのところまでいっちゃうの」
 それは駄目だと、そう思った。
 理由はわからない。
 ただ、そこまで次々に恨む人を増やしていっては、いけないと思った。
「どこまで恨んでも、気持ちは全然晴れないの。スカッとしないの。恨んでもプリムは帰って来てくれないし。どうしてって、どうしてこうなったのって、そう叫びたいけど! でもそれしちゃったら、アウグスタはきっと悲しむの。おじ様もきっと悲しむの。それは嫌なの」
「……だが、国のことで責任を負うのは、国王の役目だ」
 静かに言ったおじーちゃんに、あたしはギュムッと唇を引き結んだ。
 おじーちゃんは眼差しをあたしに向け、表情の見えない声で言う。
「同じく、儂の管轄下の者の不始末は、儂に責任がある」
「…………」
「娘。おまえには、儂を恨む権利がある。なぜあのような神官をのさばらせていたのかと、なじる権利がある」
「…………?」
「儂がもっと目を光らせていれば、下の管理を徹底していれば、少なくとも悪辣な神官がいなかった分、おまえ達の暮らしはまともになっていたはずだ。ならば、それが出来なかった儂もまた、おまえの友達を『殺した』者だ」
「……おじいちゃんが?」
「……『おじいちゃん』か。ベラあたりが聞いたら、大喜びで笑う台詞だな」
「ベラ?」
「弟の子だ。……フン。儂より若いくせに、病なんぞで先に逝きおった。あの大馬鹿たれが今ここにいれば、もう少し世の中は楽であったであろうよ」
「弟さんの子供?」
「おまえは、ベラの養子と婚約したのであろうが」
「おじ様のこと?」
 じゃあ、ベラっていうのは、ステファンおじーちゃんのことだろうか。
「ステファン・ベラトリーテ・ベネディクトゥス・アルヴァトゥアル。クラウドールの名で言うなら、ステファン・ベラトリーテ・フォン・クラウドールか。……ベネディクトゥスの名は、嫌っておったな」
「……おじ様も、好きじゃない名前がいっこあるみたいです」
「フン」
 小さく鼻で笑って、おじーちゃんは口元になんともいえない微苦笑を浮かべた。
「アレの名前か。……嫌っているのは、目を背けているからであろう。確かに、嫌いにならざるをえん名前であろうが……負う気が無いから、余計にであろうよ。今まではそれもよかろうと思っていたが、あのような輩が出るようでは、今までのようにはいくまい」
 ため息を零すようにして言うおじーちゃんに、あたしは首を傾げた。
 一人で納得してないで、こっちにもイロイロ喋って欲しいってなもんです。
「娘よ」
「……いいかげん、名前を覚えてほしいのですよ」
「おまえ、名を負う気はあるか」
「その名前をまず覚えてほしいのですよ」
「アルヴァトゥアルの名だ」
 ……話聞いてないな、このじーちゃん……
 あたしはブスッとして唇を尖らせた。
「アルヴァトゥアルなんて名前、知らないもん」
「おまえが此度得た名前だ。王族として」
 思わず振り仰いだあたしに、おじーちゃんは真っ直ぐな目を向けて言葉を紡ぐ。
「名を負う覚悟はあるか。王族として、あの不肖の子供と一緒に、その身をとりまく全てから目を逸らさず、不条理でおぞましい運命というものと向き合う覚悟が」
「それがおじ様と一緒なら、どんな覚悟だってするのですよ」
「できぬ覚悟まで含めずともよい。だが、これだけは明確な覚悟を必要とするぞ、娘」
 ……だから……
「ベルなのですってば!」
「あの者のためなら、世界を敵に回す覚悟はあるか?」
「あるに決まっているのです!」
 反射的に叫んでから、軽く目を瞠ったおじーちゃんに「むふんっ」と鼻息荒く腕組みした。
「見損なってもらっちゃ困るわ、です! そりゃあ、あたしはちっこいけど、おじ様のためだったら誰が相手でも立ち向かってやるのです!」
「……それが、おまえを娘としたアリステラであってもか」
「そんなことはさせないのです!」
 ビシッと指をつきつけて、あたしは目をギンギンにつり上げさせた。
「大きな道には、抜け道だっていっぱいあるのです! なんでもかんでも真正面からぶつかればいいってもんじゃないのです! 敵に回す覚悟があっても、敵に回したくない人からは逃げるのです!」
「……微妙な答えだな、それは」
 なんとも言えない顔で笑ってから、おじーちゃんは軽くため息をついた。
「……だが、考え方はわかった。……なるほど。あの馬鹿たれが選ぶのは、おまえのような娘か」
「?」
 その生ぬるい笑みはどういう意味だろうか。
 そしてその『馬鹿たれ』というのはレメクのことだろうか?
「あれも存外、育て親に似ているな。それとも、こういうのも母親依存症というのか? あれの母親は、実質あの娘だったようなものだからな……」
「おじーちゃんは、もう少し一緒にいる相手のことを考えて独り言を言うべきだと思うのですよ」
「おじーちゃん、はよすがよい。儂にもアルカンシェルという名がある」
「あたしにもベルという名があるのですよ、おじーちゃん」
「弟の息子の息子の嫁か……長生きはするものだが、いささか長生きしすぎた気がするな」
「……ちょっとは人の話を聞くのですよ、おじーちゃん……」
 ぺち、とおじーちゃんの足を叩いて注意を促すが、おじーちゃんは変な笑みを浮かべるだけでこちらの言葉には答えてくれなかった。
 やれやれである。
「だが、そうだな……少しは、楽しくなってきた。これなら、あともうしばらく、長生きをしてみたいと思えるであろうよ」
「長生きするのは良いことなのですよ、おじーちゃん」
「ならば、あの馬鹿たれにもそれを言うがよい。……あぁ、おまえの連れが呼んでいるようだな」
 苦笑して、ふとおじーちゃんは顔を上げた。
 耳をすませば、なるほど、あたしを呼ぶフェリ姫の声が聞こえている。
「ぁっ。お義姉さまとはぐれたままだったのですよ」
「あぁ、こら。急がずともよい。どうせ用は済んだのだ。ゆったりと構えるがよい。おまえ達は、とかくせっかちでいかん」
「おじーちゃんはのんびりしすぎなのですよ。探してる人がいるのです。こっちもおっきな声で返事するのが礼儀なのですよ」
「そんな礼儀は初めて聞くな」
 苦笑を深めて、おじーちゃんは悠然と足を運びはじめた。
 その動きはとてもゆっくりで、ふとあたしは不安になる。
「おじーちゃん、服が重いのではないのですか?」
「ああ、この年になると、堪える重さだな」
「脱げばいいのですよ。無理はイカンのです」
「だが、それがこの名の重みでもある。負えなくなった時が、退く時だ」
「負う重み? なのですか?」
 首を傾げるあたしに、おじーちゃんは頷いた。
 そして、静かな眼差しであたしに告げる。
「娘よ。あの馬鹿たれに……おまえの夫になる男に、伝えておくがよい。名前から逃げようとすることに意味は無いのだと。名を持たぬ者が名乗りをあげ、名を 持つ者が彷徨うような世の中だ。嘘はやがて己の身に返ってくるであろう。……名を負う覚悟ができたのなら、早めに儂を尋ねて来るがよい。全てが手遅れにな る前に」
「手遅れ?」
 薄く笑って、おじーちゃんは細い目をいっそう細めた。
 深い皺を刻む顔が、どこか悲しげな笑みを浮かべる。
「運命は動き続ける」
 あたしの名を呼ぶ声が近づいてくる。
 フェリ姫以外にも、沢山の足音。
 神官さん達も一緒に探してくれていたのかもしれない。
 おじーちゃんと一緒にゆっくりと歩くあたしの頭の上に、どこかため息にも似た声が落ちた。
「名を負う覚悟のない者は、ただ淘汰されるだけだ」
 アントワールのようにな、と。



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