7 偽りの世界は終わりを告げ

「ベル! 起きてるな!?」
 バァン! と盛大に扉を開けて、相変わらずな女王陛下が登場した。
 ……おお……珍しい。門の紋章使わずに来ましたヨ。
 思わず感心していたあたしは、フェリ姫に肘でつつかれてハタと思い出す。
 慌てて座っていた(待ちかまえていた、とも言う)ソファから降り、チョコリと宮廷風の挨拶をした。……ぉっとっと。ちょっと体が揺れるのです。
「…………ッ!」
 何故かアウグスタがツカツカ足早に駆け寄ってきました。そして問答無用であたしを抱き寄せる。
(むぎゅむぎゅんっ!)
「可愛いじゃないかッ!!」
(息ッ! 息ッ!!)
 いつものごとく爆乳で圧迫されて、あたしは咄嗟にここにいない人に助けを求めた。!
(レメクたちけてーっ!)
 相変わらずの凄まじいムニュムニュが──
 ──?
(???)
 ……って、アレ? なんか違和感があるような……?
 あたしの感覚がおかしいのか、いつもとムッチリンの感触が違う気がする。おかしい。色彩と味覚と声は未だに元に戻ってないけど、肌に触れるモノはわかるようになっていたはずなのに。
(……なんか、もっちりしてない……)
 あたしはペチペチとアウグスタの脇腹を叩くのをやめ、かわりにエイヤッと巨乳を下から上へと押し上げた。
 ズレました。
(──!?)
 ズレました!?
 綺麗に上に移動した巨乳に、あたしはショックのあまり固まってしまう。途端、ムニ〜ッと両頬を指でつねられた!
「べぇええるぅぅ? なぁにをしとるのかなぁ〜?」
(いひゃい! いひゃい!!)
 体罰禁止ーッ!!
「へ……陛下……お胸がズレて……」
「……リーシェ。言わんでよい」
「は、ハイッ」
 思わずつっこんだフェリ姫にも、カチコチの言葉を放つ女王様。
 あたしは引っ張られた両頬をそのままに、涙混じりの目でアウグスタを見上げた。
 嗚呼、爆乳から解放はされたのは嬉しいのですが、その右のお胸がオカシナ位置にズレてるのは何故ですか?
(……なんで……なんで、胸が……?)
「おまえとレメクのせいだろうが!! あの風呂場に呼び出しおってからに……!!」
 アウグスタの声に、あたしは首を傾げ──ややあって目を丸くした。
 まさか、あの『胸がぺったんこになる呪い』とやらですか!?
「その通りだ! おまえを抱えて戻った後に気づいてな……フッ……こんなに胸が軽かったことなど、いったい何十年ぶりか……」
 ガックリとうなだれたアウグスタに、あたしはあんぐりと口を開けた。
(……ポ……ポテトさんに治してもらわなかったの?)
「あやつがこんな面白いことを治すと思うか!? 仕方なくとんぼ返りして向かったら 結界張って追い出しおったんだぞあの馬鹿たれは! 扉叩いたら『入ってます』とか言われる始末!!」
 ……なるほど。
 ポテトさんに治す気は無いようです。
「……それで、詰め物でごまかしておるのじゃな……あれほど見事な巨物が、もったいない……」
 ぼやきながらズレてしまった右のムッチリンを元の場所に直すアウグスタに、ナザゼル王妃がなんとも言えない微苦笑を浮かべた。
「アリステラ殿ともあろうお方が、呪いの解除もできなんだのかの?」
「無茶を言うな。こと肉体にかかる呪いに関して、レメクの右に出る者はおらん。おまけにこんな単純な魔術は、単純ゆえに綻びが無い」
「なるほどのぅ。つまり、それほどに強力なのじゃな。……確かに、我が『目』から見ても、綻びがまるで無い。……むしろ、これほど完成された器の状態が、たった五日で元に戻ることのほうが不思議でならぬよ」
「無期限よりも期間限定のほうが魔術は強力だからな。『元々あるべき形』を歪めるのだから、反発は必定だろう? それを押さえつける時間が長ければ長いほど、卓越した能力が必要となる。……アレは、その卓越した能力を持つ少数のくせに、わざと時間限定をかけてより強力にしおったのだ馬鹿助めぇええッ!!」
 ……なんだかすごい怒りがこもっている。やっぱりあの爆乳はアウグスタにとっても大事なものだったようだ。
「当たり前だろうが。ベル、いいか? 胸は女の武器の一つだぞ? 私のような者になればな、武器はいくらあっても足りんのだ!」
「まぁ、殿方には受けが良いからのぅ……美貌とプロポーションで虜にしておけば、後々交渉がいろいろとやりやすいのじゃ。領地問題然り、商業の問題然り……」
「それだ! ……くっ……それがこのザマだぞ。大々的な宴ゆえに賓客の数も多いというのに……!」
 握り拳をギチギチいわせるアウグスタに、あたしはしょんぼりと謝った。
(……ごめんなさい……)
「待て! なぜおまえが謝る!? 悪いのはこんな罠を張り巡らせた馬鹿助だろうが!」
 でも、そのレメクのピンチに呼び出したのはあたしなのです。
 ピスピス鼻を鳴らして、あたしはアウグスタにぎゅっとしがみついた。
(ごめんなさい……!)
「ああ……くそ……えぇい! 可愛いじゃないかッ!!」
(ぐぇえ)
 即座に抱きしめられて、あたしの喉が綺麗に絞まる。
「陛下! 息! 息!! ベルが窒息してしまいますわっ!」
「相変わらずかわゆいものが好きじゃのぅ、アリステラ殿は」
「おまえもだろうが、ナザゼル。……だが、礼を言う。ベルを守ってくれたようだな」
 フェリ姫の尽力もあってヨロヨロと偽巨物から解放されたあたしは、ふいに真顔になったアウグスタに目をパチクリさせた。
 ナザゼル王妃はニヤリと笑う。
「貴殿の頼みであれば妾は何でも聞こうぞ……我が女王陛下よ。この程度の助力など、受けた恩に比べれば利子分にもならぬよ。……しかし、『姉上』は未だかの者に未練があるようじゃな」
 王妃の言葉に、アウグスタは盛大に頭を抱えた。
「……あれはなぁ……私のせいだからなぁ……」
「違うであろ。自ら選んだのは『姉上』じゃ。アリステラ殿が気に病む必要など何一つない。まして、あの恋着はもはやただの妄執じゃ。本当にどうしても欲しかったのなら、恥も外聞も無く行動すればよかっただけの話。せずに安易にプライドを満足させてくれる道を選んだのじゃから、全ては『姉上』の責任じゃ。あの時から、『姉上』の恋は終わっておったはずなのじゃ。少なくとも、そうでなくてはならぬ」
「……そうは言うがな、この手合いの話は、そう簡単に割り切れるものでは無かろうよ」
「アリステラ殿は優しすぎるのじゃ! それは悪いことでは無いが、優しいのと甘やかすのとは違うぞよ? あの『姉上』に対しては、優しいというより甘いのじゃ! そんなことでは、かの者の増長を招こうぞ!」
「……ちょっと嫉妬してないか?」
「しておるとも!」
 胸を(こちらは自前)張って言うアザゼル王妃に、アリステラは大笑いした。
「相変わらずだな! はは! しかし、今回おまえがいてくれて助かったぞ。イステルマの掌握もそうだが、何よりおまえという存在は頼もしい」
「ふふん。もっと褒めるのじゃ。妾は褒められて育つ子じゃったゆえな。……しかし、アリステラ殿もまた新たな養女を迎えるとは、相変わらずのようじゃな」
 チラと視線を向けられて、二人の会話をじーっと聞いていたあたしは目をパチクリさせた。
「……しかも、メリディス族とは、の。……ということは、ふっきれたと思ぅて良いのじゃな?」
 それが誰のことなのか……ハッキリ言われなくてもすぐに分かった。
「……あの人のことは、な……本当を言うと、とっくの昔に決着をつけてあったことだ。だが、まぁ……感傷というか、そういうのがな……」
「妾は直に件の君に会ぅてはおらぬゆえ、詳しい事情も何も分からぬが……無理に気持ちを切り替えようとしても、逆効果になることもあるのでな……時間が経って、自然に大丈夫になるのを待つのがよかろうよ」
「そういえば、昔からおまえは何も聞かなかったな?」
「なに。妾とて聞かれとう無いことは多くあったのじゃ。アリステラ殿は妾のその領域に絶対に口を出さなんだ。妾はそれを覚えておるのじゃ」
 アザゼル王妃の声に、アウグスタはくつくつと笑った。
 あたしは二人を見て羨ましく思う。
 気心が知れる者同士の、なんともいえない連帯感が二人の間にはあった。
(似たもの親子というか……似たもの姉妹って感じだなぁ……)
 すると、頭の中で声が弾けた。
(アザゼル様は、昔から陛下を尊敬していらっしゃったもの。歴代の王女殿下の中で、一番陛下に近いお方ですわ)
 フェリ姫の心話こえだ。
 あたしはしみじみとフェリ姫を見て『返答』する。
(……お義姉さまも十分アウグスタに似てるけど……)
(まぁ! それは光栄ですわ……!!)
 それとわかるほどに頬を染めて嬉しがるフェリ姫に、あたしは首を傾げる。尊敬している人に似ていると言われて、そこまで喜べるフェリ姫がちょっと不思議だった。
(まぁ……! あなただって、クラウドール様に似てるって言われたら、嬉しいのではなくて!?)
 即座にあたしの顔がとろけた。フェリ姫が「ほらみなさい」と言わんばかりの顔になる。
(でも、あたしのは愛だものっ!)
(ワタクシのも愛ですわよ!? そりゃあ、愛の種類が違いますけれどっ!)
(じゃ、じゃあ、お義姉さまは伯爵に似てるって言われたら嬉しい!?)
 フェリ姫がどんよりと沈みました。
(……この世の終わりかもしれませんわ……)
 ……そこまで言われる伯爵がちょっと不憫だ。
「じゃが、さすがに十年近く場を離れておると、掌握しきれぬ情報が多いの。孤児院の不正がああも早く片づくとは驚きじゃが、かわりに教会内部が後回しになってしもぅておる……難題ではないのかや?」
「なに。どこもかしこも難題だらけだ。それに、命を脅かされている孤児院の方が、正直、金を貯め込むだけの教会より『急ぎ』だったしな」
「ふむ。まぁ、他国に持ち出される金は抑えねばならぬし……溜め込まれておる金なら、後ではき出させれば良いだけじゃものな」
「そういうことだ」
 何やらオトナノハナシアイに没頭している二人に、あたしは小首を傾げる。
 邪魔するのも気が引けたので、落ち込んだフェリ姫を慰めながらトコトコと移動することにした。
 壁際で、従者よろしく立ってる大小二人の殿方に。
(ケニード! バルバロッサ卿!)
 アウグスタと一緒に入室しながらも、一歩も二歩も譲って大人しく戸口で控えていた彼等に、あたしは満面笑顔で両手を広げた。
 抱っこ! 抱っこ!!
 二人が苦笑してそれぞれ優雅に一礼する。そうして、抱っこでは無くあたしの前に跪いた。
「王女殿下におかれましては、ご機嫌麗しく」
 ぉぉ。熊さんがニヒルな男前笑顔で手の甲にチューしてくれましたよ。
「殿下のご無事な姿を拝見いたしまして、我ら一同、深く安堵いたしました」
 マニアさんはなんとも優雅な手の甲チューなのです。
 なんだかお姫様になった気分だ。
 ……いや、なってたんだった。
(……でも、他人行儀なのはちょっと寂しいのです……)
 しょんぼりちんまりと肩を落とすと、二人がなんとも言えない優しい笑顔になった。
「(いきなり倒れたっつーから、心配したぞ、嬢ちゃん)」
「(クラウドール卿のことも聞いたよ。大丈夫。ロードも『もう心配ない』って言ってたから、きっと数日もすれば会えるよ)」
 小声でそう囁く二人を交互に見つめ、あたしはギュッとドレスの裾を握りしめた。
 ……駄目だ。泣いちゃ駄目だ。もうメソメソは卒業しないといけないのだ。
 けれど、そんなあたしにケニードはいつもの暖かい笑顔で言う。
「(きっと、もうすぐ会えるよ)」
 ぽろっと、目から水滴が零れた。慌てて目元をゴシゴシするあたしに、ケニードが綺麗なハンカチを差し出してくれる。
 受け取ったあたしに、二人が微笑わらう。隣のフェリ姫もニッコリと微笑んだ。
「ベルにとっての本題を、陛下でなくあなた達からお聞かせ願えるとは思いもよりませんでしたわ。……本当に、大人の方は難しいお話を先になさるのね」
 ちょっぴり皮肉が混じってる。
 慌てたように大人の話し合いをしていたアウグスタがあたしの元にやって来た。
「いかんな。祭りの間はどうも頭が戦略脳になってしまう」
「数年もすればフェリも妾等と同類になるぞよ? 今からでも参加してはどうかのぅ?」
「それよりも、最初に言うべきことがあると思いますわ。言葉も失ってしまいましたよの? ベルは」
「ん〜〜。ベル。オカアサマと言ってごらん?」
 オカアサマ。
 あたしは口を動かした。ヒュコーココ、という音が漏れた。
「……まぁ、聞こえなくもないが、言葉では無いな……」
「身体の異常では無いのであろ? ならば、やはり精神的なことじゃな。妾も、一族郎党を皆殺しにされた時は声を失ったものじゃ」
 なんかすごいことサラッと言われた!!
 さすがにぎょっとして振り仰ぐと、異国の美妃はニッコリと色気満点の笑みを浮かべた。
「んふふふ。妾はもともとイステルマの隣にあった小国の王女でな。アリステラ殿の機転で命を救われたが、故郷も家族も喪った者なのじゃ。苦労話なら掃いて捨てるほどあるゆえ、いくらでもして進ぜよう。……声はな、きっかけがあれば戻るのじゃ。無理に急ぐでないぞ?」
 笑顔の中の真剣な眼差しに、あたしはしっかりと頷いた。
 王妃様は満足そうに微笑む。そうして、フェリ姫にニッコリと微笑みかけた。
「ちなみに、さっきは妬いておったんじゃろ? フェリよ」
「存じませんわ」
 プイッと頬をふくらませてそっぽむくフェリ姫。態度でバレバレだ。
「ふふふ。アリステラ殿よ。一癖も二癖もあった『我ら』と違って、最近の『王女殿下』はなかなかに愛らしいのぅ」
「おまえ達もそれぞれに愛らしかったと記憶しているがな。まぁ、なんだ。おまえのような百戦錬磨の盟友というのは珍しかったな」
「したが、我が『お母様』よ。我らはもともとそのような契約であったであろ? 若干、違うのもおるようじゃがな」
「……あいつはなぁ……」
「一の姉上様には、少し己の立場を考えてもらったほうがよかろうよ。このままでは、末の妹姫に何をするかわからぬ」
 末の妹姫……ってことは、あたしか。
 二人の美女に頭をかいぐりかいぐりされているあたしは、目をパチパチさせながらフェリ姫達を見た。
 美少女と熊&マニアという異様な三人組は、なんともいえない微苦笑を浮かべてあたしを見ている。
 その半笑いは何でしょう?
 そしてオカアサマとオネエサマよ。無意識のかいぐりかいぐりのせいで、あたしの頭が今すごいことになりつつあるのですが。
「レメクが戻れば決着はつくだろうが……。あの歪みようからして、別の問題が生まれそうだな」
「頭の痛いことじゃな」
「全くだ。……あぁ、そうだ、ベル──ぉお!? なんだそのボサボサ頭は!?」
(……オカアサマ達にやられたのですが?)
 撫でくりまわされて滅茶苦茶になった髪のまま、あたしは二人に抗議の視線を向ける。二人がそわそわと体を揺らした。
「い、いや。可愛いぞ? 可愛いが、なんだ。おまえ達、ちょっと直してやってくれ」
「う、うむ。可愛いぞ、姫よ。その、変な方向に吹っ飛んだ髪留めも」
「お二方とも。それよりも先に、言うべきお言葉があると思いますが」
 笑ってごまかす大人二人に、フェリ姫が冷ややかにつっこむ。
 二人はしょんぼりと頭を下げた。
「すまん」
「すまぬ」
 ……なんでしょうね。子供に窘められる大人というのは。
 フェリ姫は二人の謝罪にコックリと頷いた後、それはそれは美しい微笑みをあたしに向けた。あたしの両手をとり、クルリと二人に背を向ける。
「さぁ、ベル。陛下達はお国のことでお忙しいようですから、ワタクシとお庭に遊びに参りましょうね。クラウドール様のことは、アロック様や大神官殿からお聞きいたしましょ」
(はーい)
 とことことこ。
「ちょ……! 待て待て待て! 分かった! 私がわりと悪かったッ!!」
 慌てて飛んでくるオカアサマ。あたしを奪うように抱きかかえて、フェリ姫をメッという目で見つめた。
「おまえまでレメクみたいな物言いをせんでもいいだろうが!」
「クラウドール様のご指摘は、いつも的を射ていると思っておりますもの」
「くっ……! あの馬鹿助め。朴念仁のくせに人の心を掌握しおってからに……ッ!」
「乙女心の不理解と、道理は違いますわ。……それよりも、陛下。ベルはずっと、陛下のお言葉を待っているのですよ?」
(いるのですよ)
 キラリと目を光らせたあたし達に、アウグスタは苦笑する。
 そうして、あたしの頭を優しく撫でた。
「ベル」
(あい)
「レメクは危機を脱したぞ」
(……あい)
「おまえの声は、届いたぞ」
(……あい!)
 キュッと唇を引き結んだあたしを、アウグスタは優しく抱きしめる。
「……よく、頑張ったな」
 あたしはギュッと目を瞑った。
 頑張った、と。褒められるようなことをあたしはしていない。ただ一人でメソメソしていただけだ。周りの人がいなかったら、未だに暗い気持ちの中で、周りを見ることなくジメジメしていただろう。
 頑張ってくれたのは、周りにいる人達だ。ポテトさんや、フェリ姫や、シェンドラおばちゃまや、いろんな人があたしを助けてくれたのだ。
「ベル」
 アウグスタが優しくあたしを呼ぶ。顔を上げると、優しい笑みがそこにあった。
「今度のことでおまえが得た、その何物にも代え難い沢山の思いを……決して忘れるんじゃないぞ」
(あい!)
 あたしの頷きに、アウグスタはいっそう笑みを深める。
「少し、大きくなったな……ベル」
 その笑みは、まさに女神のように美しかった。

 ※ ※ ※

 アウグスタの計らいで、その日は他の訪問客は全て『お断り』させてもらうことになった。
 何の前触れもなく突然『王女』になったあたしだ。人の多い春の大祭時期とはいえ、そんなあたしの元に客など無いだろうと思ったのだが……なんと、実に二十を超す人々から面会の申し出があったらしい。
 世の中には、不思議なお方が沢山いらっしゃるようである。
 けれど、その人達とあたしは会うことは無かった。
 アウグスタの指示を受けた女官達が扉を守り、時折忙しい時間を縫ってやって来る女官長が目を光らせ、フェリ姫とそのメイドさん部隊がつきっきりで傍にいてくれているのである。顔はおろか声も知らないままで終わったのだった。
「今はまだ体調が良くないのですもの。疲れる面会は、後々にしていただきましょう」
 そう言ってニコリと微笑むフェリ姫は、なんとも頼もしいことに来た人のリストと簡単な紹介文まで書いてくれたのだった。感謝である。
 アウグスタとナザゼル王妃は他の面会のためにあの後すぐに退出し、お見舞いに来てくれていたケニードとバルバロッサ卿も、しばらくしてから帰路についた。沢山話したいことはあったが、あまり無理をするといけないから、ということらしい。
 気遣いはとても嬉しいが、王宮に残る身としてはちょっぴり寂しかったりする。
 フェリ姫はずいぶん長い間あたしの傍にいてくれたが、夜も更けてくるとさすがに留まることはできなくなったらしい。ゆっくり一人で体を休めるのも大事だと言って、彼女もまた帰ってしまった。
 結果、今、あたしは広い部屋にぽつんと一人でいるのである。
 大きすぎるベットに入ると、無意識に手がいない人を捜してわさわさ動いてしまう。大きくて立派なベットは、いつものレメクのベットに似ていて──けれど、一番大事なものが一つ欠けていた。
(……レメク)
 あたしはベッドの中に潜り込む。そこで丸まると、自分の体温が布団の中に籠もって少しだけ暖かかった。
(……レメク)
 目を閉じて心に思い浮かべる。
 その人はほんの少し困ったようないつもの笑みで、じっとあたしを見下ろしていた。
(あのね、レメク。いろんなことがあったの)
 ツンツンしていたフェリ姫は、どうしてかものすごく優しくなっていたの。
 彼女の連れていたメイドさん達は、全員すごい美人で、おまけに行動が綺麗に揃っていて面白かった。
 女官長のシェンドラや、料理長のおじちゃんは、忙しいのに度々あたしの所に顔を出しては、なんだかすごく嬉しそうにあたしを見てまたどこかへと行くのだ。彼等とは面識は無かったはずなのだが、いったいどうしてなんだろうか?
 ナザゼル王妃はとんでもなく綺麗な色っぽい王妃様で、アウグスタの親友という感じで頼もしかった。
(それにね、それに……レメクの昔の恋人っていう人にも会ったの)
 レメクは不思議そうに首を傾げる。ただのあたしの想像のはずなのに、それはどこか現実味のある動作だった。
(マリアンヌって人なの。顔は可愛いんだけど、ちょとキツイ感じで嫌な人だったの。でも……でもね、あたしもレメクのことすごく好きだから、同じ立場だったら同じように嫌な子になっちゃうかもしれないの)
 あたしは今、たくさんの幸運によってレメクの傍にいる。
 けれどそれを失ってしまったら……きっと彼女のように、心を歪めてしまうと思うのだ。
(不思議ね、レメク。レメクが傍にいない時のほうが、レメクのこと、沢山人から教えてもらえちゃうのよ。あたし、ずっとレメクのこといろいろ知りたかったから……今、ちょっとだけ嬉しいの)
 レメクの顔が曇る。
 あたしは笑った。けれど笑顔は、なんだか変な風にくしゃくしゃになってしまった。
(でもね、レメク……どうしてかな、沢山いろんなこと教えてもらって……今まで知らなかったいろんな話もしてもらって……王宮なんていう、夢にも見なかったとんでもない所にいるっていうのにね……ちっとも気持ちがドキドキしないの)
 レメクと一緒にいる時のような、ワクワクが何も無いの。
(なんだか胸の中がスカスカしてて、気を抜くと意識がフゥッて途切れちゃうの。なんでかな……? 未だに、ご飯の味もわかんないし……目の前は灰色のままだし)
 今、こうして記憶の中の彼を見ても、あの綺麗な夜明け色の瞳がわからないように……
(レメク。あたしね、強くなるって決めたの。決めたんだけどね……)
 あたしは手を伸ばす。けれど手は、レメクにたどり着く前に何もない空間に遮られて、彼に届くことは無かった。
(レメク……レメク……)
 触れられない。
 声が聞けない。
 だから心がギリギリと締め付けられる。
(……寂しいよぅ……)
 心が零れるのを、止められない。
(寂しいよぅ……!)
 ねぇ、どうすればいいんだろうか? こんな風に、いつまでもずっとずっと同じ気持ちをもてあましているあたしは。
 どんなに両足に力を入れても、一生懸命顔を上げても、ぼろぼろと零れてしまう弱くて情けないあたしの心は。
 本当の意味で、ひとつも強くはなっていないあたしは──!
(会いたいよぅ……!!)
 あたしは必死に歯を食いしばる。両手は力一杯ドレスを掴んで、無理に手を伸ばしそうになるのをなんとか堪えた。
 一生懸命その場で留まっているあたしに、ふと、何かとても暖かいものが触れる。
 あたしはしゃっくりと一緒に顔を上げた。
 暖かい温もりがあたしを包む。
 優しい笑みを浮かべたレメクが──そっとあたしを抱きしめてくれていた。


 夢から放り出されるかのように、唐突にあたしは目を覚ました。
 薄暗い布団の中で、あたしの小さな手が握り拳を作っている。目の前にあるそれをぼんやりと見つめてから、あたしは目をごしごしと擦った。
 ……目も頬も、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「…………」
 ずぴ、と鼻をすする。のろのろと体を起こして、ふわふわの布団から這い出た。
 もこもこの雲のような布団の外は、相変わらずの灰色世界だ。目を閉じる前よりもその色が淡いのは、きっと朝になっているからだろう。
(…………)
 あたしはペタンと布団の上に座る。何かを期待していたわけではない。……けれど、少しだけ胸がスカスカした。
(……おじ様)
 しょげたあたしの耳に、チチチという朝を歌う鳥の声が聞こえる。
 レメクの家で聞くよりも数が少ないのは、周りに森林のような木々が無いからだろう。あの自然に囲まれた屋敷は、王都という大きな都市の中にある小さな田園のようだ。誰もが夢見る、穏やかで暖かな幸せ──それがあそこには揃っている。
 ぐし、とレースの袖で目元をもう一度ぬぐって、あたしは豪奢なカーペットの上に降りた。
(もひょぅっ!)
 相変わらずの素晴らしい感触が足の裏を包み込む。ちょっとこしょばい。
 思わず足でカーペットの表面をなで回していると、ふと視界の端に何かが映った。
 あたしはそちらを見て──動きをとめる。
 ベッドサイドのテーブルに、ハンカチが一枚きちんと畳まれて置かれてあった。
 色はたぶん白だろう。灰色に見えるそれは、広げると可愛い模様の総レースだった。
 小さくて可愛らしい蒲公英ダンディライアンと、リボンを結んだベルの。
「…………」
 昔、これと似た意匠のハンカチをもらったことがある。
 そしてそれよりもさらに昔──こんな風に、テーブルにある贈り物に、大泣きした記憶がある。
(…………)
 あたしは胸元の革袋を握りしめた。
 ──ここにいるはずは無い。いるはずが無いのだ。
 それでもその人の顔が一番に浮かぶのは、そうであって欲しいと願ってしまうからだろう。
「……失礼いたします、王女殿下」
 扉をノックされ、静かな声で告げられて、あたしは慌てて零れそうな滴を目の奥に引っ込めた。降りたばかりのベットによじのぼると、しずしずと初めて見る顔のメイドさんが入ってくる。
 扉の所をチラと見れば、こちらはすでに見知っているフェリ姫のメイドさんがにっこりと微笑んでいた。……フェリ姫は、あたしの世話用にと何人かのメイドさんを傍につけてくれたのである。
「ご洗顔の準備に入らせていただきます」
 そう言って頭を下げた初見のメイドさんは、ワゴンの上に大きめの器(……銀?)と、美術品のような意匠を凝らした水差し(……これも銀?)、そして小さな小瓶をいくつか乗せていた。これが洗顔のための道具なのだろうか?
(……お姫様って……)
 呆気にとられて見ていたあたしは、その時、何かを感じてそのワゴンの下を見た。
 何かと目があった。
(?)
 目があった!?
「……!!」
 ぎょっとなって身を引くより早く、それが突然飛びかかってくる!
「きゃあ!」
 悲鳴があがった。あたしでは無く、あたしの前にいたメイドさんがあげた悲鳴だ。
「殿下!」
 扉の所にいた姫メイドさんが駆けつける──ってその手の剣は何ですか!?
 ぎょっとなったあたしに、飛びかかってきた小さなモノは素早くとりつき、するすると肩に登って首のあたりに張り付いた!
「キィッ!」
 耳の近くで小さな声が聞こえた。どうやらソレの声のようだ。
 ……てゆか、コレ、何ですか!?
「リスザルだと!?」
 リスザルって……ナンダ?
 意味がわからずに首を傾げたあたしの耳は、その時、ぶちっという何かが千切れる音を聞いた。
 唐突に、首にあった重さが消える。
(……え?)
「あ……あーッ! 殿下のものを……!!」
 姫メイドさんが血相を変えて走った。何事かと駆けつけた他の姫メイドさん達も一気に気色ばむ。
「なんということ……!!」
「婚約の証を奪うですって!?」
 ものすごい殺気だ。手に手にどこからともなく武器をとりだし、小さなリスのような生き物|(リスザル……だっけ?)を追いかける。
 あたしは呆然とそれを見送り、のろのろと自分の首に触れた。
 ……何もなかった。
(…………)
 そこにあった、紐も……それで吊していた革……袋……も……
(!!!)
 突然雷に打たれたように、あたしの頭の中が真っ白になった。
 なんということ! あの小動物は、あたしの命より大事なお宝を奪っていったのだ!!
「…………ッ!!」
 声にない怒号があたしの全身から迸った。
 なぜかその場にいた全員があたしを見る。突然動きを止めてぎょっとこちらを振り向いた犯人に、あたしは猛然と飛びかかった!
(返せーッ!!)
「キキィィッ!」
 凄まじい悲鳴が小動物の口から迸った。捕らえ損ね、あたしの手が空を切る!
 しかし! 一撃ぽっちで諦めるあたしでは無いのである!
(返せぇええッ!!)
 どたん! バタン! ドドンッ!
 逃げる小動物を追いかけて、あたしはそれこそ床から壁から走り回った。扉から飛び出た小動物を幾度となく捕まえ損ね、駆けつけるために新たな姫メイドさんが扉を開けた隙にさらなる外へ逃げ出した小動物の尻尾を掴み損ねる!
(ぬぁああ! あとちょいッ!!)
「妹姫様!」
「殿下!」
 仰天しておいかけてくる姫メイドさんを置いてきぼりに、あたしと小動物の捕り物劇は始まった!


(まぁあああてぇえええッ!!)
 朝を迎えた王宮の廊下は、灰色世界のせいで豪華さはピンとこないが、とにかく凄まじく広かった。
 小動物は時折柱に登ったり展示物の裏に隠れたりと小細工をしたが、そんなものがこのあたしに通じるはずがない!
 柱はよじ登って追いつめ、展示品の裏に隠れればすかさず鷲づかみにしようと手をつっこむ!
 しかし! 敵も然る者!! 小さくて軽い体を生かしてひょいひょいと逃げるのです!!
「キィイイイイッ!」
 ……なんかすごい絶叫みたいな悲鳴あげながら。
 日が昇ってどれぐらいたってる時間なのかしらないが、王宮の廊下にはほとんど人がいない。小動物の大騒ぎ(あたしじゃないわよ!?)に気づいてちらほらと顔を出す者もいるが、それでもその数は片手の指の数より少ない。──というか、見物人! 呆気にとられてないで、そのコソドロを捕まえてッ!!
(待てこらぁあああッ!!)
 あたしは心の中で絶叫した。
 他のモノならともかく、大事な大事なあたしのお宝を──よりにもよってレメクのお母さんの形見を! 奪っていくとは何事かッ!!
(どこのモノじゃぁああッ!!)
 あたしは目をつり上げて爆走する。小動物も死にものぐるいだがあたしも必死だ。邪魔なモノはなぎ倒す勢いで廊下を驀進し、そうしてその人物達を見つけた。
「キキィッ!」
 心なしか嬉しげに小動物が声を上げる。速度を上げて一目散にそちらに走る泥棒の行く手には、綺麗に着飾った男女が呆然と立っていた。
 そのうちの一人は、誰在ろう、あの王太子妃だ!
「……リリィ?」
 王太子妃の隣に立っていた、優美な美青年が呆然と呟く。その美青年の前で、小動物は大きくジャンプした!
「!」
 王太子妃が息を呑む。美青年を素通りして彼女に張り付いた小動物は、そのまま凄まじい勢いで華奢な肩に回り込み、あたしのお宝を小さな両手に持て「キィキィッ」と鳴いた。
「リリィ……いったい……それに……」
 唖然とした顔の王太子妃の横で、美青年は繰り返しそう呟く。それに、と見つめる先にいるのは、彼等の前に走り込んできたあたしだ。
「……! ……!! ……ッ!!」
 あたしはゼィゼィと肩で息をしながら、竜をも射殺す気迫で小動物を睨みつける。
 悲鳴を上げて王太子妃の後ろに隠れるソレに向かって、バッと右手を突き出した。
(返せ!)
「「…………」」
 王太子妃と美青年は絶句する。
 特に美青年は、王太子妃とあたしを見比べ、小動物を見て目を丸くしていた。
(返せ!!)
 そんな中で、あたしだけは真っ直ぐに小動物を睨み据えて手を伸ばす。あたしの気迫と動作に、美青年も意味に気づいたのだろう。小動物を覗き込んで言った。
「また悪戯かい? リリィ。駄目だよ、悪いことをしては」
 そう言って伸ばした彼の手を、けれど小動物は「キキィッ」と抗議して小さな手で叩いた。……なんて生き物だ!
「リリィ」
 美青年は困った表情になる。そうして、未だに呆気にとられた顔のままの王太子妃に視線を向けた。
「マリー。リリィに言ってくれないかな。どうやら、こちらのお嬢さんの大事なものを盗ってきてしまったようだよ」
 マリー。
 どうやらそれは、王太子妃の呼び名であるらしい。
 美青年の声に、王太子妃はぎくしゃくと動いた。手を小動物の近くに向けると、それだけで小動物は意を得たようにあたしの宝物をその手の中に落とす。
(……返せッ!!)
 あたしは鬼の形相で手を更に伸ばした。
 王太子妃はそんなあたしを見下ろす。
 その瞳に、鬼火のようなものが揺れた。
「……これは、私が貰うはずだったものですわ」
「……マリー?」
 ぼそりと呟いた王太子妃に、美青年は首を傾げる。
 王太子妃は、手の中の革袋をぎゅっと握りしめた。
「私が貰うはずだったものです。リリィは、きっとそれに気づいて、取り返してくれただけですわ」
(なにを言っとるのだーッ!!)
 あたしはギンギンに目を光らせた。
 それは、レメクがあたしにとくれたものなのだ!
 自分はこれしかもっていないから、と。だから、自分の唯一の持ち物であるそれを、あたしに譲ってくれたのだ!
 断じてこの茸ブロッコリーの物では無いのだ!!
「殿下!」
 そのまま激情にまかせて飛びかかりかけたあたしを、後ろから追いついてきた姫メイドさんの声が引き戻す。
「殿下! くせ者はどこに……!!」
 血相を変えて走り込んできた……ぎぇえええ!?
 振り返ったあたしは、思わずその光景に目と口を極限まで見開いてしまった。
 そこにいるのは姫メイドさんだ。それはわかる。それはわかるのだが……何故、数人しかいなかったはずの彼女らが、数十人にふくれあがっているのでしょうか!?
 おまけに全員が箒やバケツやモップを構えている。さすがに部屋の中みたく剣は抜いていないが、それにしても異様な出で立ちだ。
「妃殿下!? 王太子殿下まで……!」
 彼女らは、あたしの前に立つ二人に大きく目を見開き──そして一斉に凄まじい怒気を全身から放った。
「妃殿下。こちらに王女殿下の宝物を奪ったリスザルが走って来たりはしませんでしたか」
 妃殿下は答えない。さすがに顔をひきつらせて、半歩分後ろに下がった。
「王女殿下は先の婚約の折、婚約者であるお方からこの世で唯一つしかない大切なものを譲られました。賊であるそのリスザルは、こともあろうにその世にも稀な宝物を盗んで行ったのでございます! 見つけ出し、取り戻さねばなりません!! これは我が王女殿下に、ひいては我が王室に対する挑戦になりません!」
 さらに半歩下がった妃殿下に、隣にいた美青年(王太子殿下?)が目を丸くする。そうして、ふとあたしを見下ろした。
「……もしや……ベル王女殿下でいらっしゃるのですか?」
 あたしは頷いた。
 とりあえず、今はそう呼ばれている者です。
 さぁ、返せ!
 ずいっと手を伸ばしたあたしに、美青年はなにやらしみじみと頷き、そうして、どこか悲哀を込めた目で王太子妃を見つめた。
「……マリー。お返ししなさい。リリィの悪戯は、ちゃんと謝らないといけないよ」
 さぁ、と促されて、王太子妃は顔を歪めた。親に叱られた子供のような顔の中に、一瞬だけ、醜悪なものが滲む。
 けれど、ふいに無表情になって、あたしのほうに革袋を放った。
(レメクのお宝!)
 あたしはそれにバッと飛びつく。同じタイミングで小動物も飛びつきに来たが、あたしの一瞥をくらって尻尾を巻いて逃げ去った。
 ……勝った!!
「妃殿下!」
 喜ぶあたしに反して、王太子妃の行動に目くじらを立てたのは周りのメイドさん達だ。王太子妃は知らん顔でそっぽを向く。
 ぎゅぅっと戻ってきた革袋を抱きしめるあたしに、美青年は困ったような微笑を浮かべて跪く。そして、自分の羽織っていた上着を脱いであたしにかけてくれた。
「申し訳ありません。我が妃のペットが失礼をいたしました。あの子はよくああやって、悪戯ばかりするのですよ」
 穏やかな微笑みの中で、その声だけはひどく苦いものを含んでいた。あたしは優しい顔のその人を見つめる。どこか寂しそうなその人の笑みは、少しだけ空虚だった。
(……おじちゃんのせいじゃないの)
 首を緩く横に振るあたしに、その人はちょっぴり微笑む。なんだか切ないような悲しいような、そんな淡い笑顔だった。
(……この人は……?)
 首を傾げて見上げるあたしから視線を王太子妃に移し、彼は静かに言った。
「マリー。君も、王女殿下に」
「お断りいたいますわ」
 言葉を遮って、ぴしゃりと王太子妃が声を上げる。
 ざわりとメイドさん達の気配が揺らいだ。
 あたしも軽く目を見開いた。空気は王太子妃の方からあたし達の方へと流れているらしい。なぜなら、滲むような凄まじい異臭が、風に乗って彼女から漂ってきたのだ。
「なぜ私が謝らなくてはならないのです。バルディアの王太子である、あなた様まで膝をついて謝られたというのに」
「私の謝罪と、君の謝罪は別だろう? マリー」
「まぁ! あなた様は、妻である私に恥をかけとお言いになるの!?」
 妻!?
 あたしはびっくりして美青年を見上げた。
 この、ケニード並みに麗しい美形さんが、この王太子妃の殿下!
(なんてもったいない!!)
 そしてこの王太子妃から臭ってくる、鼻の曲がりそうなとんでもない臭いは、ナニ!?
 どんどん醜悪になる臭いに、あたしはたまらず鼻を摘む。
「罪を認めることは、とても大事なことだよ。まして彼女は、こんな格好で追いかけるほど、その小さなものを大切にしていたんだから。君も見ただろう? あの必死の姿を」
 こんな格好、で、あたしは自分の姿を見下ろした。
 ……ぉー。そう言えば、起きたてだったので、薄い寝間着一枚だったのである。
 あたしはいそいそと羽織らせてもらった王太子様の上着で自分を包み込んだ。こっちの人の匂いは、ちょっぴり切ない感じの爽やかなものだった。
 しかし、王太子妃から漂ってくる異臭はいただけない。あたしはすぐにまた鼻を摘みなおした。
「私は……私は……!」
 王太子妃が歪めた顔を背ける。
 そうして、その場で硬直した。
(……ん?)
 その様子に、あたしも王太子様も首を傾げる。
 ちょうどあたしの後ろの方に視線を向けたまま、彼女は愕然と棒立ちになっていた。
「マリー?」
 王太子様はきょとんと名を呼び、そうして、彼女と同じ方向を見て目を見開いた。
 こつん、と。足音がする。
 それだけで、あたしも動きを止めてしまった。
 同じタイミングで、ざわり、とあたしの後ろが大きくざわめいた。大慌てでメイドさん達が場を開けるために走る。そんな中でも、その足音はあたしの耳に聞こえていた。
(…………)
 息が止まる。
 体が軋む。
 鼻を摘むことすら忘れてしまった。解放されたあたしの鼻が、王太子妃の異臭と、王太子様の爽やかな匂いとを嗅ぎ取る。
 望んだ匂いはまだしない。
 しないけれど……けれど、この、足音は……
 コツ、と。あたしの後ろでその足音が止まった。
 背後にいたはずのメイドさん達は、コソとも音をたてずにいる。ただ、気迫にも似たものすごい熱があたしに注がれているのを感じた。
 いや、あたしと、たぶん、あたしの後ろに立った人に。
 けれどあたしは振り向けなかった。
 振り向いて……もし違ったら?
 足音を似せただけの、アウグスタや、ポテトさんだったりしたら?
 そうしたら、もしかしたら、何か大事なものが壊れてしまいそうな気がするのだ。
 今、体中が心臓のようになってしまっている、あたしのこの気持ちとかが。
(…… ……!)
 あたしの口からあるかなしかの呼吸が零れる。
 心臓が今にも飛び出しそうだ!
 ぎゅっと革袋を握りしめたあたしの後ろから、その人はそっと声を落とした。
 ただ一つ。あたしが願った、聞きたいと心から願ったあの声で。

「……ベル」

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